第二話 緑色の殺人少女

 その日も亜紀は普段のように授業を受け、自転車に乗って下校した。自転車を駐輪場から引き出したときには、春の日はまだ、明るく辺りを照らしていた。自転車で校門を出たとき、校門の辺りに数人の老人が立っており、亜紀に向って何やらチラシのようなものを差し出そうとしたが、不意を衝かれた亜紀は受け取る暇もなく、その場を勢いのままに通り過ぎた。ブレーキを掛けて振り返ってみると、傍らの石垣に立てかけられた、「崇天(すうてん)教(きょう)」の文字が手に入った。宗教か、と息をついて、亜紀は再び自転車を発進させた。以前にも校門のところに布教活動の人間が立っていて、並製本の聖書を受け取ったことがある。

 崇天教と言えば、最近よく名を聞く新興宗教の一つだった。盛んに宣伝をして信徒を集めているらしく、市内のあちこちでポスターや看板を目にする。藤野市内でも山のほうの、遠山という地に総本部があるとのことだったが、亜紀自身は見たことはなく、さほど関心もなかった。母に以前、近所にも入信した人がいると聞いたこともあり、どこか胡散臭いような、不気味な印象ばかりがあった。

 やがて亜紀は通りを外れ、自宅への近道である、細い道へと折れた。そこは舗装されてはいるものの、左右を広い畑や雑木林に挾まれている、寂しく人気も余りない道であった。そろそろ日も翳り始めており、ペダルを踏む亜紀の足にも力が入った。最初の異変が起ったのは、左右の両方が雑木林となっている、特に暗い区間へと差し掛かったときであった。何かが木の枝葉を揺らしながら飛び立ち、亜紀の頭上に影を落しながら横切って、道を挾んだ反対側の林へと姿を消したのである。

 亜紀は思わず自転車を停め、顔を上げて辺りを見廻した。瞬間的に何かの鳥だろうと思ったのだが、視界の端に映ったその姿は、鳥にしては余りに巨大であったようにも思われた。その何者かが飛び込んでいった林の枝葉は、今も夕方の仄暗い空気の中で、微かに揺れていた。亜紀はしばらくの間そこを見つめ、再びその鳥らしき何かが飛び出してこないかと息を潜めたが、それきり、何の音も気配も感じられなかった。ただの大きな鳥だったのだろう、と小さく息をついて、亜紀は再びペダルを踏み出した。

 やがて雑木林は途切れ、広い畑へと出た。ここまで来れば通りは近く、亜紀は安堵してゆっくりと自転車を漕いでいった。畑には野良仕事をしている、老夫婦の姿があった。のどかなその光景を、亜紀は見るともなしに見ていたのだったが、そのときふと異様な気配を感じて、自転車を再び停めた。そして今自分が抜けてきたばかりの雑木林を、振り向いたのである。

 そのとき時を同じくして雑木林から飛び出してきた飛翔体は、間違いなく、鳥などではなかった。その生き物は人間、それも、少女の姿をしていた。晴れた夕空を背景にして、背に大きな翅が生え、それが高速度で羽ばたいているのが亜紀の眼に映った。亜紀は茫然として、空を飛翔する少女という、到底信じられぬ存在を見上げていた。ハンドルから手が離れ、自転車が路上に横倒しになったが、それすらも殆ど意識していなかった。

 羽ばたく少女は眼下を見下ろして、微かに笑みを浮べたように見えた。そして次の瞬間に体勢を変えて、真直ぐに地上へと降下してきた。その向う場所に老夫婦の姿があることに気付き、亜紀は思わず息を呑んだ。しかし二人は突撃してくる少女の姿には気付いた気配もなく、屈み込んで草をむしっていた。気付いたときには、亜紀は駆け出していた。

「伏せて下さい! 伏せて!」

 老爺はようやく顔を上げて、駆け寄ってくる見知らぬ女子高生の姿を、ぽかんと口を開けて見つめた。そして亜紀が畑へ駆け込んでき、容赦なく畝を踏み潰していくのを見て、思わず声を上げかけた瞬間、突き飛ばされて亜紀と共に土の上へと倒れた。次の瞬間、二人の上空を、翅の生えた少女が凄まじい勢いで行き過ぎた。やや離れた場所にいた老婆が、大きな叫び声を上げた。

 亜紀は顔を上げ、すぐさま、傍らに倒れている老爺を抱き起そうとした。見たところ怪我はない様子だったが、茫然として、言葉もない様子だった。作業着に付いた土を払ってやりながら、亜紀も同じく、状況を全く理解できずにいた。しかし振り向くと、突撃に失敗したらしき翅付きの少女が、二人と十数メートルの距離を置いて、畑の只中へと降り立ったのが見えた。

 少女を間近にして、その姿の異様さが、一層鮮明に亜紀の眼に映った。少女は亜紀と同年代ほどの年齢に見え、切れ長の鋭い眼をしていた。夕日の加減で先程までよくわからなかったのだが、肩のところで切られた髪は、染め上げられたような鮮やかな緑色で、身に付けている服も、同じような緑色をしていた。異様なのは背中に生えている、今は折り畳まれている大きな翅だったが、加えて亜紀の眼を引いたのは、頭から生えている二本の触角、そして両腕から伸びた、緑色の鎌のようなものだった。

 まるで昆虫そのもののそれらの部品たちは、普通ならば飾りか何かとしか思われなかったであろうが、背の翅が目の前で、実際に機能を果しているという事実が、その触角や鎌までが本物ではないかと、亜紀に思わせるに充分だった。

 緑色のその少女は、亜紀たちのほうへと向き直ると、徐ろに歩み寄ってきた。亜紀は恐怖に駆られながら、傍らの老爺を抱え起し、背を向けて逃げようとした。しかしそのとき視界の端に映った老婆は、既に腰を抜かし、とても亜紀たちと共に逃げられる様子には見えなかった。亜紀の心を激しい焦燥が襲った。脳裡には警鐘が鳴り響き、一刻も早くこの場から逃げ去るべきだと告げていたが、それを実行に移すならば、老夫婦を見棄てるほかに仕様がなかった。

 そのとき背後を振り向いた老爺は腰を抜かし、慌てて支え起そうとした亜紀は、既に間近に迫っていた緑色の少女に突き飛ばされ、一メートルほど吹き飛んで、再び畑の土の只中に倒れた。顔を上げた亜紀は、着地した少女が、鎌のついた腕を振り上げて、尻餅をついた老爺へと歩み寄っていくのを認めた。瞬時に亜紀は立ち上り、少女へと向って叫んだ。

「やめなさい!」

 緑色の少女は振り向き、切れ長の眼で亜紀を見据えた。その眼差しに何か恐ろしい冷たさを感じて、亜紀は怯んだ。しかし勇を鼓して老夫婦たちへ、「逃げて下さい!」と叫び、そのままその場を動かなかった。

 老爺は激しく喘ぎながら立ち上り、頷くと、老婆を抱き起して逃げていった。緑色の少女はそちらを一瞥したが、既に老夫婦よりも、亜紀のほうに関心が移った様子だった。少女は口の端を歪めて笑い、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 亜紀は後ずさろうとしたが、足が竦み、思うように動かなかった。口を開けて叫ぼうとしたが、それさえも恐怖のためかおぼつかず、出たのは弱々しい問い掛けに過ぎなかった。

「あなたは……何者なの……」

 小さな吐息を吐き出して、少女は笑った。嘲笑に近い笑いだった。そして愚かな者に教え諭すように、乾いた声で答えた。

「私か、私に名前はない。但しお前らのような人間とは違う……。マンティスモンプエラだ」

「マンティス……モンプエラ……?」

 少女が口にしたその言葉は、亜紀が全くこれまでに聞いたことのないものだった。それに何らかの意味があるのかさえ、灼熱した今の亜紀の頭脳にはわからなかった。

「お前の知る必要のないことだ」少女は笑った。「もう死ぬ人間に教えても、仕方がないだるう……」

 マンティスモンプエラと名乗った少女は、鎌の付いた腕を振り上げた。亜紀は声にならぬ悲鳴を上げて、二三歩後ずさろうとしたが、足がもつれて地面へ尻餅をついた。マンティスは微かな笑みを浮べて歩み寄ってきていた。夕陽に照らされてその緑色の髪が輝いているのが、まるで現実の出来事とは思えなかった。

 亜紀は這いずるようにして、少しでも相手から遠ざかろうとした。しかし逃げられる希望は最早なかった。少女の腕の鎌に、鋸のように細かな刃のついているのまでが、明瞭に亜紀の眼に映った。背の翅があれほどに翅としての機能を発揮していた以上、その鎌も外見相応の切れ味を持っているに相違ない、そんな考えばかりが亜紀の脳裡に浮んだ。

 マンティスが腕を振り上げた瞬間、亜紀は思わず目を瞑った。何が何だか全くわからぬままだったが、死の実感がそのとき、急速に感じられてきたのだった。最早自分の人生は終るのだ、とそのとき強く亜紀は思った。生れからして尋常ではなく、友人も殆どいない人生だったが、優しい養父母に恵まれたことだけは幸福だった……。

 ……しかし鎌の刃が自分を切り裂く感覚は、いつまで経ってもやってくることはなかった。亜紀はやがて、恐る恐る眼を開けた。緑色の少女は、まだ目の前にいた。しかし腕は振り下ろされず、まだ高く掲げられたままだった。徐ろに顔を上げ、相手の顔を見上げた亜紀は、マンティスが激しい衝撃を受けたような表情をして、自分を見つめているのを認めた。それが何を意味するのか全くわからぬまま、自分の身体を見下ろした亜紀は、驚いて大きく眼を見開いた。

 亜紀は確かに先程まで、藤野高校のセーラー服を身に着けていた筈であった。しかしこうして今見下ろしている自身の服装は、黒いドレスのような、間違いなくセーラー服ではない服に変化していた。至るところにフリルが付いたそのドレスは、瞬間、それまで全く馴染みのなかった、ゴシック・ロリータという言葉を亜紀に思い出させた。両脚も黒いタイツで覆われ、学校用の革靴の代りに、見覚えのない低いヒールのついた、黒い靴がそこにあった。茫然として一瞬にして変化した自分の服装を見つめていた亜紀だったが、そのとき、腰にふと違和感を感じて、腰を起しざまに手を伸ばした。そして思わず小さな叫びを上げて、自分の手に触れたものを見た。

 それはまるで猫のそれのような、細長い、毛に覆われた尾であった。それが確かに自分の腰から生えているものだということを悟るまで、しばらくの時間が掛かった。触ってみれば自分の尾が触られている感覚があり、抓ってみれば痛んだ。

 亜紀はこの現実をどう受け止めていいのかわからぬままに、或る可能性に思い当って、自分の全身を撫で廻した。他に変ったところは、服装以外ではないようであったが、最後に頭に手を伸ばしたとき、そこにはこれも猫にそっくりな、毛の生えた三角形の、大きな耳が生えていた。亜紀はその柔らかな感触を手に感じながら、何が自分に起ったのかを、懸命に理解しようと努めたが、ふと忘れていたマンティスの存在を思い出して、ふと顔を上げた。とはいえその間は、精々十数秒のことに過ぎなかった。

 マンティスは驚いたような、苛立たしげなような、複雑な表情を湛えて亜紀を見下ろしていた。いずれにせよその表情からは、先程までの冷徹な笑みは、驚くほどに跡形もなく、拭い去られていた。やがて呟くように、彼女は言った。

「お前も、モンプエラか」

「モン、プエラ……」亜紀は掠れた声で繰り返した。「私は……」

「それならば、何故お前は邪魔をした」

マンティスの眼が光り、亜紀を睨みつけた。「私の妨害をして、お前に何か得があるのか? え?」

「何を、言っているの……」亜紀はよろめくようにして立ち上った。「何のことだか、全然わからないのだけれど……」

 マンティスは舌打ちをして亜紀に背を向けた。背中に折り畳まれていた翅が徐ろに左右に開き、細かく震え始めた。亜紀ははっとした。マンティスの見据える先には、未だ緩慢な、しかし精一杯であろう足取りで、逃げてゆく老夫婦の後ろ姿があったのである。

「やめて!」

 マンティスを止めようと亜紀は駆け出したが、間に合わず、相手は翅を広げて飛び立った。亜紀はその後を追って、無我夢中で駆けた。重量のあるゴシック・ロリータのドレス、腰で跳ねている尾らしきものが邪魔であったが、そんなことを気にする余裕もないほどであった。

 否、寧ろ、亜紀の身体は平常よりもずっと軽く、敏捷に動いた。亜紀は運動が得意ではなく、体育の授業などは最も苦手な科目の一つであった。徒競走も、クラスでは下から数えたほうが早い順位であった。しかし今の亜紀は、そんなことを意識する余裕などなかったものの、素晴らしい速度で畑を横切って駆けてゆくことができていた。そしてマンティスが老爺の背中へと飛び掛かろうとした瞬間、地を蹴って跳躍し、相手の足首を摑んで、地面へと引き摺り下ろした。

 それは余りにも大胆な行動であったが、半ば本能的に及んだ行為でもあった。マンティスの飛翔力はそのまま亜紀を一メートルほど引き摺ったが、流石に耐え切れずに畑の土中へと突っ込むようにして墜落し、すぐさま亜紀の手を振り払って、怒りに燃えた表情で立ち上った。

「貴様……何をする……殺すぞ……」

 亜紀は自身の行ったことに驚きつつ立ち上ったが、その瞬間に肉迫してきたマンティスが鎌を振るい、反射的に飛び跳ねてこれを躱した。いとも軽々と、一メートルほども跳躍した亜紀は、そこで初めて、自身の身体能力に大きな変化が生じていることを自覚して驚きに打たれた。

 マンティスは僅かに体勢を崩したが、叫び声を上げながら、幾度も鎌を繰り出して亜紀を切り裂こうとした。その動きも相当に素早いものであったが、しかし亜紀の身体もまた、それと同じほどに俊敏になっていた。激しい恐怖を感じながらも、飛び退き、跳躍して、相手の攻撃を躱すことのできる自分に亜紀は驚いた。しかし遂には足がもつれ、よろめいて、畑の土へ尻餅をついた。瞬間、今が好機とばかりに、接近してきたマンティスが鎌を振り下ろした。

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