倉橋つかさ(6)



 紫、赤、黒、黄色、ちらつく色、黒、色、絵の具のような、厚い色。


「つかさ君、大丈夫?」


 視界のあちこちを塗り潰す色が少しだけ減って、意識が呼び戻される。

 隣に立っている天音さんが心配そうに僕の顔を覗きこんでいた。


「もしかして、なにか思い出した?」

「いえ、なにも……すみません、大丈夫です」


 万世橋から少し離れたところ、飲み帰りらしきスーツの人や大きな笑い声を上げている若いお兄さん達、そして、赤、黒、不気味な色が混じる雑踏へ紛れ込むようにして立つ旺磨さんの姿を遠くに見つける。今は動物達に襲われていない。

 勇司さんから電話がかかってきたみたいで、僕らは旺磨さんの通話が終わるのを待っている最中だった。

 すっかり空は暗くなり、街灯に照らされて足元へ浮かぶ光の孤島は、水面に反射する月のような……どこか既視感を抱かせる。


 親睦会は楽しかった、その一言に尽きる。

 有紗さんが店員さんと一緒に何の触手かも不明な巨大串焼きと格闘したり。

 胡桃さんがぼぞぴさんと遭遇した時、隣にいた妹さんが泡を吹いて倒れてしまったという話を聞いたり……これは笑いごとではなかったけど。

 旺磨さんがお手洗いから戻ってくると右腕に見知らぬ小動物が噛みついていて、さらわれたと誤解した他の席のお客さんと、そこから交流が生まれたり。

 天音さんが実は重度のサブカルチャー好きでずっと秋葉原に憧れていて、引っ越すなり地下アイドルの劇場やコラボカフェを巡ったことを熱弁したり。

 そうして僕らの距離は確かに縮まったのだと思う。


 ただ、最後まで日向さんが合流することはなく、有紗さんから「知り合いしかいないなら優先度が低くなるって言ってた、まぁ、そういう奴だから」と呆れられ、天音さんに「そういう人を無理に誘っても仕方ないですよ、それでいて距離感がばぐってるのが性質悪いんですけど」と下された評価は、そのまま覆ることがなかった。


「ごめんごめん、お待たせ、勇司が片付けもせずに店を放り出したみたいでさ、僕は今すぐ戻らなきゃいけなくなった」

「僕も手伝いますよ」


 旺磨さんは笑顔のまま首を横に振った。

 彼の表情が一瞬だけ紫と赤で潰れる。


「ううん、とりあえず僕だけ飛んでいくから……もういい時間だし、つかさ君は天音さんを途中まで送ってあげて」


 有紗さんと胡桃さんは万世橋を通らずに帰る方が早い組で、既に別々の帰路についていた。

 僕と旺磨さん、それに天音さんは万世橋を抜けて秋葉原に戻ろうとしていて、その途中、旺磨さんのスマホが震えたわけだった。


「私なら平気ですよ?」

「そうもいかないよ、夜道を女の子一人で歩かせるなんて僕の信条に反するし、それに……僕の移動手段だと、つかさ君を連れていけないからさ」

「そういうことでしたら、僕に天音さんの護衛が務まるか不安ですけど……いいですか?」

「でしたらお言葉に甘えて、つかさ君よろしくね」


 と、白い頬に若干の赤みを帯びている天音さんから柔らかな笑みを向けられる。

 僕と同じで、天音さんもお酒は飲んでないはず……飲んでないはずなんだけど。


「うんうん、二人とも気をつけてね、それじゃあ僕は一足お先に――」


 言うが早いか、旺磨さんは服を脱いでいて上半身裸になっていた。

 そして、露わとなった背中から真っ黒い翼を勢いよく生やして跳躍、抜け落ちた鴉の羽のようなものを残して瞬く間に僕らの前から姿を消してしまった。

 親睦会で彼の正体を聞いていた天音さんはすぐに理解を示した様子で、地面にふわりと落ちた羽を拾っている。


「捨てていいかな? 燃えるゴミでいいよね?」

「は、はい……いいと思います」


 元魔王の羽は燃えるゴミでした、なにか分かる人には分かる特別な価値がありそうな気もするけど、残念ながら僕らにとっては燃えるゴミでした。


「それより、つかさ君……本当に大丈夫?」

「なにがですか?」

「だって、つかさ君、

「――え?」


 気が付かなかった、気にも留めていなかった、彼女に指摘されるまで僕の視界が半分になっていることにまるで違和感を抱かなかった。

 色がちらつく、青、黒、幼児がぶちまけたような色、赤、緑、色が。

 疑問を向けられて、ようやく僕の右手が視界を遮るように目元を覆っていたのだと自覚した。


「……いつから、僕は、どうして、色が」


 動揺をそのまま口に出すような、繋がりのない言葉の羅列。


「色って?」


 天音さんの声色に戸惑いが混じっている。

 不安にさせないように、大丈夫だって言わないと。


「失敗作だから、こんな、僕は」


 目が乾く、無理矢理に閉じないと。

 違うのに、感情の制御がきかない。

 世界を塗り潰す色、唐突に黒が裂かれ、知っている顔が絵の具を浴びたような状態で、僕の前に現れる。


「あさ、ひ、さん」


 朝日さんの足元にいた黒い猫が、一度衣服に爪を引っかけながらも彼女の肩へ飛び移る、ニッチさんだ。


「あ、岬朝日さん? 初めましてです、土御門天音です」

「初めまして? いや……今はそれよりも、か、つかさ君も一緒だったのか」

「それが……なんだか、つかさ君の様子がおかしくて」

「…………」


 僕の様子を探るように目を細める朝日さん。

 ニッチさんの尻尾が揺れる。


「朝日や、法瓶宮を展開しとったな?」

「……さっきまではな」


 守らなきゃ、約束したんだ、誰と? 誰を?

 足が動く、壊れかけたアンドロイドみたいに、僕の意思など無関係なように。


「つかさ君?」

「つかさ君、少しどいていてくれないか? 天音さんと話がしたいんだ」


 その色は駄目だ、黒い、見覚えがある。


「約束したんだ、守らなきゃ」

「安心してくれ、本当に話をするつもりだから……それに君のことも匿うと約束しただろ? 式神と言えば聞こえは悪いが、倉橋の名で君の戸籍も用意できた、しばらくは倉橋つかさと名乗れば不自由しないはずだ」

「――倉橋? 僕が?」


 倉橋、僕は違う、倉橋とは違う、一緒にするな、そうだ、守らなきゃ、だって、僕が悪いから、僕が、僕だけが、生きてて、そんなの、許されないから。


「違う……僕は倉橋くらはしとばりとは違う」

「つかさ君、どうして君があいつの名前を――」

「守るんだ、助けるんだ、約束したんだ」


 何のために生まれ、何のために生きてる?

 出来損ないなのに、こんな濁った目で、僕だけが生きていたって無意味だ。

 目が乾く、涙が止まらない。

 さっきまで右目を覆い隠していたはずの右手がいつのまにか――歪な形の刃物を握っていた。

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