9.《貴女》の見てきたもの

 口裂け女の直視——自らを委ねるように私は彼女に向け《瞳》を駆動させる。

 フラッシュバック——私は目の前の貴女の世界を《視る》

 刹那の内に私の視界は貴女の世界になる。貴女の歩んできた道、口裂け女という存在を構成する幾重にも重なった言説、そしてそこに混ざり込んだ誰かの人生が私に《言葉》となって流れ込んでくる。

 これが——《核》だ。そして、《貴女》そのものだ。


 《私》はいつの間にか《貴女》になっている。


 それは今は怪異となった《貴女》の記憶。《貴女》の見てきたものを通じて私の感じる世界の記録。

 私は口裂け女あなたの過去を知る。


▲▲▲


 私は物心ついた時から人の口元が気になった。私は人を、人の顔を常に目で追ってしまっている。

 大きな瞳、小さな口、道行く人の色々な顔を見て私は思う。

 いいなぁ、いいなぁ。

 家に帰ると母さんはお酒に沈んでいる。初めはチューハイとかを笑顔で飲んでいた母さんだったけど、あっという間に度数と缶の数が増えた。寝る前に一缶を笑顔で飲んでいた母さんは、時間が経つと一缶、一缶と数が増えていってやがて「缶だとお金がもったいないから」と言って茶色いお酒の入った瓶を買ってきた。

 お酒の量が増えるにつれて、母さんの笑顔は減っていく。

「あんた、どうやったら真っ当な人間になれるかわかる?」

 まだ陽の沈んでいない夕暮れ時に母さんが私に言う。

「ちゃんと勉強する。先生の言うことを聞く」

 高校から帰ってきた私がそう言うと母さんは鼻で笑う。

「私から生まれたあんたがちゃんと勉強するなんて無理だよ、無理無理」

 そう言って私の肩に空瓶が投げつけられる。母さんが荒れているのにも私はどうしようもなく慣れていて、母さんが変わってしまった悲しみとか、肩に当たった瓶の鈍い痛みにも心が動かない。それよりも、あんなにも瑞々しかった母さんの頬が乾燥し切っていてガサガサになっていることに私は動揺する。


 いつからこうなってしまったんだろう。痛みよりも悲しみよりも、そんな気持ちが先に私にやってくる。一体いつからこうなってしまったんだろう。


 母さんは強い人だった、らしい。私の父親だった人が母さんと私を捨てていっても母さんはそれで悲しい顔を私にも見せなかった。

 それは幼稚園へ行くいつもと変わらないような、なんでもない朝。

 父親だった人がいない朝。

 いつもなら私を起こしてくれる母さんがいつまで経っても部屋にこない。私はしばらく布団でじっとしていたけど、不安になって居間へ行く。

母さんが朝ご飯を一人分捨てていた。

「余ったものを食べるとね、心がすり減っちゃうんだよ。食べているはずなのに、心が削れちゃうの。だから捨てる」

 そう言って母さんが焼いたウィンナーとオムレツとサラダをゴミ箱に捨てているところを見て、私は父親だった人間に私と母さんが捨てられたということに気づく。

「私たちは捨てられたんじゃない」

 母さんは言う。

「私たちは捨てられたんじゃないの。離れただけ。最初からそんな人がいなくても私たちは生きていけるし、問題なんてないんだから」

 そんな母さんの言葉。母さんは友達も多くて、一人親の家庭の友達も多い、そんな中でも強く生きている人たちを知っている。

 だから私たちも大丈夫と言っていた。

 そしてそれは強がりでもなくて、きっと母さんが本当に信じていたことなんだろう。私たちは大丈夫。どんな辛いこともきっと大丈夫。

 そう自分に言い聞かせる母さんは見るからに荒れていたけど、それ以上に弱っているように見えた。

 全身にまとわりつくような生きづらさというものは、生活に染み付いているうちに自分を構成する皮膚と一体化してしまう。生きづらさ自体がいつの間にか自分と溶け合ってしまう。

 取り払いたくてもそれには激痛が伴う。自分そのものを否定することだから。

 そしてその痛みには母さんは耐えられなくて、だから現状のその先に何もないのをわかっていてもその生きづらさを捨てることが出来ない。

 初めのうちは私たちの家に遊びにきていた母さんの友人も、いつしかちっとも来なくなっていた。母さんがお金の無心をするようになって、それから来なくなったと聞いた。

「あんな人たち、元々そこまで仲良くなかったんだよ」

 友達だった人たちが遊びにやってきた時、あんなに嬉しそうだった母さんが吐き捨てるように言う。

 そんな母さんだから私に対しても八つ当たりのような形でしか弱みを見せられない。


 でも、私はそんな母さんを支えたいと思った。少なくとも最初のうちは。


 幼稚園の時に父親だった人が消えて、それから私と母さんの二人で過ごす時間はとても長い。

 小学校に入学する。

 小学生の時も私は何が何だかわからない。母さんは一生懸命に生きていて、それなのに私は何も考えずに過ごしていく。たまに周りの人に「かわいそうにねえ」と言われる言葉の意味はわからなかったけれど、たまの休みに母さんと過ごせることはとても幸せだった。

 お母さんに撫でてもらう。

 お母さんに本を読んでもらう。

 お母さんの昼寝して、ご飯を食べて、お風呂に入って暖かいまま布団で眠る。

 このまま、このままこんな人生を走っていける気がしていた。

 だけど、人には走り続けられる人と、走り続けられない人がいる。

 人生というのは何かを求めれば掌から簡単にありとあらゆるものがこぼれ落ちて、落としたことに気づいた人は自分の失っていくものに恐怖する。

 何も失いたくないと思っても、生きるということは常に何かを失っていくことと同じだから。母さんはそれで弱っていく。

「いつか幸せになると思っているの。頑張らなくちゃね」

 夜中、10歳になったばかりの私に母さんはそう話す。疲れた顔だけど、私を見ると笑顔を作って頬を撫でてくれる。だから、大丈夫だと私は勘違いしてしまう。

 母さんが大丈夫と言っていたから、私は信じてしまう。信じたいと思ってしまう。

 でもそれが母さんの虚勢で、精一杯の瀬戸際であることに私は気づかなかった。

 母さんは、走り続けられない人だった。


 中学生になる。段々と母さんの様子がおかしくなってくる。

「最近ねえ、お酒が美味しいの。こういう楽しみも悪くないかもね」

 疲れた笑顔で母さんが言う。私は母さんに楽しみがあるのは良いことだと思う。それが楽しみの発見ではなくて現実に耐えられない人の悲鳴だということに私は気づくのは遅すぎた。

 あっという間に飲酒量は増えていく。

 いつか頑張っていれば幸せになれる。大丈夫、大丈夫、大丈夫。

 そんなことを母さんは言っていたけれど、母さんは色々なことを考えすぎた。母さんの努力と苦労の延々と続く道筋。それに対していつか見返りが来るんじゃないかと考えて足を動かしていた母さんの周りには、母さんみたいな苦労がなくてもずっと幸せそうな人たちで溢れている。

 授業参観、三者面談、そんな機会で見るクラスメイトの両親は小綺麗な格好で、母さんはガサガサの肌で白髪混じりの髪だった。

 私はそれでも嬉しかったけど、母さんはそんな自分に耐えられない。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

「ねえ。私思うんだよ。もしかしたらこんなの全部間違っているのかもって。私の頑張っていることって見当違いなんじゃないかって」

 母さんは考える。考えて、考えて、考えて、考えた先にどうやっても釣り合いが取れないことに気がついてしまう。

 世界は天秤の不釣り合いで満ちている。身軽で何処までも飛んでいけそうな人がいる一方でで、どうやっても覆せない重しの乗った一方にいる人がいる。

「子供がいてね、女性だと信用が出来ないんだって職場の人が言うのよ。簡単に男を作って止めるんだろうって言うのよ。女は体が弱いから風邪をすぐ引く、体調管理もできないって。自分は職場でタバコをスパスパ吸っちゃって仕事が終わったら若い人連れて飲み歩いて、いつ体壊すかわからない事してる人にそう言われるの」

 母さんは一口でコップに入れたお酒を飲み干していく。

「私が働くのってそんなにおかしいことなのかな。働かなくちゃいけないから働いているのに、その必要性ってそんなに嘘に見えることなのかな。どうしたら信じてもらえるのかな。体調管理だって私、ちゃんとしてるつもりなんだけど。風邪も引いてないよ。引いても休んだりしないのに」

 母さんはそうしてお酒をさらにコップに注いでいく。自分の言葉との行動の矛盾も今の母さんの中にはない。母さんの心は今でも父親だった人間が消えた時から動いていない。

 さらにもう一杯母さんがお酒を飲み干す。

 ゴホッ、ゴホッと母さんが咳をして、アルコールと唾の混ざった匂いが私に届く。

「ねえ、もしあんたがいなかったら私はもっと働けていたのかな。もっと信用されたのかな」

 母さんが言う。

 少しして母さんの顔に後悔が滲む。

「ごめんなさい。違うわよね。そもそも貴女と暮らして、幸せになりたくて働いているんだものね。おかしいわよね」

 でも、それが今の母さんの本音で。同時にきっと、選びたくない本音でもあったのだと思う。それでも、私は母さんのことを支えられない。ただ黙っていることしか出来ない。

 そんな日々が進んでいく。

 壊れながら、母さんも私も走っていく。

 中学の後半から私は家のことを少しずつやるようになって、高校の時には全部私がやるようになる。

 母さんが帰ってきて、楽になってそれで元気になってくれれば良いと思ってた。それは決して母さんの為だけではなくて、私が母さんの辛そうな顔を見るのが悲しくて見たくないという自分勝手な理由からで、それでも母さんの帰る時間を予想して食事を用意したり部屋を片付けたり洗濯物を取り込んだりとしていると、何とかなる気持ちがする。

 こんなに頑張っているんだから。

 こんなにうまく出来ているんだから。

 だから、だから。

 今日こそは母さんも家に帰ってきたら安らいでくれるんじゃないかという気持ちが湧いてくる。

 結果としては気がするだけだったけど。

 余裕がないと何も人は受け取れない。母さんにとってしっかりとした食事が用意されていることにリアクションをするにももう煩わしいことで、むしろそんな支度を私が出来ていることがまるで私に余裕があることの現れであるように感じるようで当て付けのように酒を飲む。私の食事にはほとんど手をつけないで。

「せっかく作ったのに」

「せっかく作ったから何。余計なこと勝手にして押し付けないでよ。疲れてるんだから私。人の機嫌取った後にあんたの機嫌も取れって言うわけ?」

 そう言って寝室に倒れ込んだ母さんを背中に私は母さんのほとんど手につけてくれなかった食事を口に運ぶ。

 捨てるなんてもったいない。

 だから私は母さんの分も食べる。

「おいしくないなぁ……」

 虚しくて、涙がこぼれ落ちる。テーブルの上にいくつもの水滴が落ちていく。

 余り物を食べると心がすり減っていく。そうかつて母さんが教えてくれたことは本当のことで、私は母さんのことを考えるのをどんどんやめていく。昔はたくさんあったはずの会話がなくなって、私も母さんも顔を合わせてもろくに話さない。

 母さんの飲酒量は増えていく。

「私がもっと美人だったらあの人も出ていかなかったのかなぁ。仕事でももっとチヤホヤされて生きやすかったのかなぁ」

 母さんが酔い潰れながら、叫ぶような大きく独り言を夜ごとする。

 私はそれを隣の部屋で聞いている。

 母さんはあんなに綺麗だったのに。

 私が人の顔を見るようになったのは、母さんの顔をよく見ていたから。穏やかな表情で過ごす母さんの顔が好きだったからだ。母さんの笑う口元が好きだったから。母さんの笑顔から垣間見える幸せが好きだったからだ。幸せな人の顔に、母さんの穏やかだった日々を感じ取れたからだ。

 幸せそうな人の顔を見ていたい。微笑む口元を見ていたい。

 あの日の幸せを少しでも感じていたい。

 でも、酒浸りで荒れている母さんの顔はもうあの時とは見る影もない。生活を愛しんでいたような母さんの表情はもう見れない。

 私は人の顔も、鏡すら見ることが嫌になっていく。鏡に映るのは、母さんにとても似た私の顔だから。

「貴方の顔、嫌いだわ」

 母さんはそう言った。私は何も言わなかった。

 そうして迎えた高二の夏。母さんが死んだ。

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