化粧品③

「は? 匂い?」

 沙優の不自然なほどに明るい笑顔と、唐突な話題に戸惑う。そんなことを訊くために呼びかけたような声のトーンではなかったような気がする。

「匂いっつってもなぁ……気にしたことがねえ」

「じゃあ逆に嫌いな匂いとかは?」

「なんでそんなこと訊くんだよ」

 俺が訊き返すと、沙優は「だって」と小さく言ってから、視線を俺からはずしてぼそぼそと答えた。

「吉田さんの家で使うのに、吉田さんが嫌いな匂いさせたら嫌でしょ。もっと言ったら、吉田さんが好きな匂いした方がさ……いいじゃん」

「はぁ……」

 思わずため息が出た。

「気にしすぎだろうがよ」

「気にするよ!! こんなの買ってもらってさ! さらに嫌な思いなんてさせたくないもん」

「別に嫌いな匂いなんてねぇよ、気にせず選べよ」

「いんや、絶対あるから! 苦手な匂いがない人なんて絶対いないから!」

 何をそこまで断定するのかと思いながらも、こう強く言われると考えるふりくらいはしておかねばと思ってしまう。

「うーん……嫌いな匂い……」

 パッと思い浮かぶのは。

「生ごみとか?」

 沙優が噴き出した。

「生ごみのにおいつきの化粧水なんてあるわけないじゃん」

「それと、自分の腋汗のにおいとかな」

「あはは、やめてやめて」

 沙優は可笑しそうに笑ってから、首を横に振る。

「そうじゃなくて、こう……香り系のさ」

「香り系とか言われても分からないって」

「そう、電車! 電車だよ」

「電車?」

 訊き返すと、沙優は何度も頷いて、人差し指を立てた。

「満員電車とかでさ、ぎゅうぎゅうになってるときに誰かから香水系の匂いしてきて、ウッてなることない?」

「……ああ」

 かなり限定的にシーンを指定されたおかげで、通勤中にときどきつらく感じる匂いがあったことを思い出した。

「オッサンのコロンの匂いだな。ああいうのはきつい」

「あー……分かる。分かるけど……コロン並みに匂いがする化粧水は多分そんなにないんじゃないかな」

 言いながら棚に並ぶ瓶を手に取って裏の成分表示に目を通す沙優。「これは……」とか「あんまり匂わないやつ……」とか小声でつぶやきながら瓶を裏返していく沙優は明らかにこういったことにこなれている様子で、やはり、と小さなため息が漏れた。

 地元にいた頃も、それなりにこだわってこういうものは選んでいたのだろう。それを、数か月も我慢してきたのだ。確かに彼女の言うように「なくても死にはしない」ものなのだろうが、食べることに困っていない今くらいは、そういった『娯楽』に近いものを楽しんでもいいと思う。

 そして、沙優について、何を考えていても結局。

 思考は一つの疑問点にぶち当たるのだ。

 こんなごく普通な女子高生が、今までの生活を捨ててまで、生きる以外のすべてを犠牲にするかもしれない選択をしてまで、家を飛び出してきてしまった理由とは、一体なんなのだろうか。

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