最終章 来ない明日を乞い願う

第52話 終わりの始まり





 硬くて冷たい感触がする。

 大理石の瓦礫の上に僕は仰向けに倒れていた。

 もう身体がろくに動かない。

 これ以上戦うのはどうあがいても無理だ。針の突き刺さっている翼も、身体も、打ち付けた肩、背中、内臓にもすべからく痛みが走る。

 力をどこかに入れようとするとそこかしこが痛んだ。


 ――力がもう入らない……


 幸いにして、ゲルダはもう見当たらない。アナベルと共に彼女は消滅し勝負はついたようだ。

 しかし、事実を認識する能力は痛みで鈍っていた。実際にはどうなっているのか解らない。その先のことを考える気力は僕にはなかった。


「うっ……あぁ……ッ……はぁ……はぁ……」


 僕は血だらけの身体でなんとか起き上がった。痛みで動くたびに声が漏れる。

 自分の身体に突き刺さっている針を渾身の力で抜きながら、僕はつたない足取りで歩き出した。

 抜いた部分を強引に凍らせて止血する。


 ――……ガーネット……どこに……――――


 ガーネットの姿を探して僕は瓦礫の海を見渡し探した。

 赤い髪が視界に入っているからなのか、あるいは自分の血液でなのか解らないが、視界が赤い。


 彼はすぐに彼は見つかった。

 少し離れているところで血だまりの中、右肩を抱きかかえるように瓦礫にもたれているのが見える。

 僕は彼に近づきながら、刺さっている針を全て抜こうと針に手をかけて一本一本抜いていく。

 カランカランと瓦礫に針が落ちる度に僕の血液がポタポタと垂れて血の道を作っていった。

 よろよろと歩き、ガーネットの傍までたどり着く。

 彼は僕の右翼を握りしめ、ぐったりとしていた。


「ガーネット……生きている……?」


 僕は膝を折り、ガーネットの身体に触れた。

 いつも通りの冷たい身体だった。


 ――死んでいるのか生きているのか解らないじゃないか……


 ガーネットの負傷した右肩から再び出血しているのを、僕は最期の力を振り絞り凍らせて止血した。


「ガーネット……」


 再度呼び掛けても彼から返事がなかった。

 それを見て僕はまた目頭が熱くなって涙が流れてきた。どうして返事をしないのか、僕は解ったからだ。


 ――なんで入ってきたんだよ……じゃなかったらこんなことにはならなかったのに……


 僕は膝をついてガーネットの身体を抱きしめた。


「正気じゃないのはガーネットの方だよ……馬鹿……バカ……ッ……」

「…………正気ではない者同士……お似合いというものだろう……?」


 僕は返事が聞こえてハッとした。


 彼の顔を見ようと身体を放そうとしたが、ガーネットはそのまま僕を抱きしめる。


「もう……死んじゃったかと思った……」


 震える声で僕もガーネットを抱きしめる。

 互いに力が入らないけれど、それでも懸命に僕らは力の限り互いを抱きしめる。


 そのとき、背中に違和感を覚えた。

 ガーネットの手にあった僕の半翼が、僕の背中に戻ろうとしていた。

 それはまるで別の生き物のようだったが、ずっと失っていた主を求めるような切なさも同時に感じる。

 ガーネットが力を振り絞り僕の翼を背中の右側に押し付けるようにすると、翼はゆっくりと僕の背中と繋がった。

 完全に消耗していた僕の魔力が少しばかり戻ったような感覚と共に、今までずっと不安定だった自分の均衡も戻った感じがした。

 戻った翼には感覚もあり、動かすこともできる。

 両翼でガーネットを包み込むように抱きしめた。


「美しい翼だ……」

「こんなときに何言っているの…………飛んで運ぶから……シャーロットのところに……」

「……無駄だ。あの魔女なら……気絶していた……。それよりも、女王の……心臓は手に入ったのか……?」

「…………うん。もう大丈夫だよ」


 息も絶え絶えの彼に、僕は真実を告げられなかった。

 ゲルダは跡形もなく消し飛んだのだ。

 心臓など残っているはずがない。


「そうか……」


 ガーネットは服のポケットから、血に染まった僕が書いた手紙を渡してきた。

 たった一言、何度も何度も書き直した精一杯書いた僕の手紙だ。


「なんと言おうとして……いた……か……教えろ…………」


 僕は気恥ずかしくて、少しの間黙った。

 ほんの数秒だ。

 意を決して、僕は返事をする。


「…………無事に帰ったら…ガーネットと夫婦つがいになるって……書いたの」


 ガーネットは黙っていた。

 黙られるとますます僕は恥ずかしくなった。

 返事がないので、僕はガーネットを急かす。


「……返事を聞かせてよ」

「………………」


 尚も彼は返事をしない。


「……ガーネット?」


 僕は身体を離してガーネットの顔を見た。

 目を閉じて微笑んでいる。


「ガーネット……? 返事してよ……」


 彼の身体を力なく揺すって語りかけるが、ガーネットは何も言わない。

 ポツリポツリと雨が降り始める。

 僕の手や、彼の頬に雨粒が落ちてきた。


「……ガーネット! ガーネット……返事を、聞かせてよ……ッ」


 僕は泣きながら彼の身体を揺すった。

 しかし、彼は何も言わなかった。

 だらりと身体を僕にもたれかけるばかりで返事をしない。


「ガーネット……!」


 僕は強く強く彼の身体を抱きしめた。

 彼の体温が失われていくのが解った。


 ――……返事してよ。返事を聞かせてよ。なんで……


 抱きしめる腕に力が入る。

 雨が本格的に振り出してきた。僕の身体に冷たい雨が容赦なく打ち付ける。


 ――もう二度と……ガーネットは永遠に答えてくれないの?


 涙なのか、雨なのか、もはやそれは解らなかった。


 ――こんな大切な話をしているのに。真面目に考えたのに。どうして断るようなことするのさ……自分から求婚したくせに……


 僕は雨の中、もう動かないガーネットを抱きしめて泣いた。

 瓦礫を打つ雨の音で僕の泣く声もかき消える。雨の水で翼が重い。

 そしてしばらくした頃、魔族たちが僕らへ寄ってきた。彼らも傷だらけだ。

 リゾンは僕がガーネットを抱きしめて泣いているのを見つけると動揺する。


「……お前、その翼……ガーネットは……死んだのか……?」


 僕は悲しくて苦しくて辛くて痛くて、答えられなかった。

 何も考えられなかった。

 ただただ彼の亡骸を抱きしめる事しかできなかった。


「ッ……ゴホッ……ゴホッ……ガハッ……!」


 僕が咳き込むと口から血が溢れてきた。


 ――あぁ……僕も死ぬんだな……


 ガーネットを抱きしめていた僕は力が抜け、その場に倒れた。

 リゾンが倒れた僕を抱き起す。ぼやける視界で映る彼の姿はボロボロだった。手も皮膚が切り裂かれて出血している。


「おい! しっかりしろ!!」


 僕はもう本当に動けなかった。


 ――ここまできて……もう駄目なんだ……


 僕は目を閉じた。


 雨が冷たい。


 大理石が冷たい。


 僕はリゾンに抱えられていることだけは解った。


 暖かい。


 僕はご主人様の暖かい手を思い出していた。


 なんだか騒がしい。


 誰かが走ってくる音が聞こえる。


「――――い! おき――――!! 死ぬな――――!!!」


 声が遠い。


 ――なんだろう、物凄く心地いい声がする……


 うっすら目を開けると銀色の髪が見えた。

 白い小柄な龍が彼の肩に乗っている。


「ノエル――!! しな――で――――」


 ――………………


 僕は意識を手放した。




 ◆◆◆




【ノエル 2年前】


 僕はいつも通り、鎖につながれていた。

 冷たい鎖の感触が、もはや自分の体の一部のように感じる。魔女の声や足音がすると僕は身体を硬直させ、心を閉ざし、早くそれが終わってほしいと願っていた。

 も僕は牢屋に近づいてくる足音を聞いて自分を閉ざした。

 膝を抱え込み、僕はひたすらに耐える姿勢をとる。その際にいつも聞きなれたジャラジャラという音が響く。

 僕が早く終わってほしいと待っていると、いつもと様子が異なった。

 僕の牢屋の前に現れた者は僕の牢屋を照らし、しばらくそのまま立っていた。


「おい、お前」


 男の声だ。

 魔女じゃない。


 顔だけあげてその声のする方を見た。

 首の鎖がジャラッ……とこすれる音だけが響く。僕は返事をしなかった。


「お前、魔女に捕まっているのか?」


 人間だ。

 銀色の髪が乱れており、魔女が人間に着せる奴隷の服を着ていた。

 その服は血まみれだ。

 僕は人間の姿を見ると、首を再び下に向ける。

 奴隷の人間が牢屋に迷い込んできたのだと思った。

 その人間も僕と同じ、散々実験をされているから血まみれなのだと考えた。


「出してやる。待っていろ」


 その銀髪の男は牢屋の鍵を開けようとしたが、牢屋の鍵はすでにあいていた。


「なんだ……あいているじゃねぇかよ」


 男は牢屋の中に入ってきて僕に近づいてくる。

 両腕、両足を鎖で繋がれていてがんじがらめにされている僕に触れようとする。

 僕は恐ろしくて黙って身を硬直させて震えていた。

 きっと魔女が僕をまた実験に使うのに、奴隷を遣わせてきたんだと思った。

 僕はまた切り刻まれて羽を毟られ、骨を折られ、得体のしれない注射をされると指の先まで硬直させて震えた。


「もう大丈夫だ。この町の魔女は全員殺したはずだ。もうこんなところにいる必要はない」


 ――嘘だ。そんな言葉に騙されない。僕は……僕は……


「なんだ? 喋れないのか?」


 その人間の奴隷の男は怯える僕の鎖を丁寧に外し、鎖を断ち切る道具で僕の手枷と足枷、首の鎖を無理やりに切った。


「こっちにこい」


 僕はその人間の男に連れられるまま、不安な足取りで歩いてつれられていった。

 その道中、魔女の死体が沢山転がっているのが視界に入る。僕に実験を何度も何度もした魔女たちは全員血を流し死んでいた。


「なんだ、その女は?」


 武装している他の人間が息を切らして僕らの前に現れた。僕を見てその人間はそう問う。


「牢屋に繋がれていた」

「牢屋? なんで魔女がそんな女を牢屋なんかに入れるんだ?」

「知るかよ。どうでもいいだろ」

「血がべったりついてるじゃねぇか。それに病人が着るような服着て……赤い眼……不気味だ」

「うるせぇな、なんでもいいだろうが」


 銀髪の男は僕を引っ張って歩く。

 血まみれで倒れている魔女が折り重なっているのが見えた。


 ――なんで……


 血生臭いその廊下を抜けると、正面の大扉があった。

 その扉を開けると、僕の目には一番に満月が出ているのが見えた。

 月など、何年ぶりに見ただろうか。

 やけにそれが美しく僕の目には映った。




 ◆◆◆




「風呂に入れ」


 魔女の死体がまだ転がっている家の中、男は風呂を沸かしていた。

 何が起きたのかまるで解らない。僕はただ、まだそれが手の込んだ嘘なのではないかと硬直し動けないままだった。


「どうした、服の脱ぎ方が解らないのか?」


 男が僕の身体に触れようとした。

 ビクリと身体が反射的に反応し、やはりなにかされるのだと身体をこわばらせ目をきつく閉じた。


「…………余程、ひでぇ目に遭ったみてぇだな……なんもしねぇよ。風呂だ。風呂。俺も入るし、お前も入るんだよ」


 人間の男はギュッと目を閉じている僕の服に手をかけ、脱がそうとする。

 肩の部分がボタンで簡単に外れる服だった。パチンパチンとそれを外すと、僕は簡単に裸になった。

 裸になるときはいつも実験台に乗せられて切り刻まれるときだけだ。

 僕は怖くて身体を更にこわばらせた。

 男も僕の左半身にある翼を隠した際の模様を見て動きを止める。


「お前……この傷……それに模様……なんなんだ……?」


 僕は相変わらず答えられない。


「まぁ、いいけどよ。ほら、こっちこい」


 暖かいお湯を頭からかけられて、乱暴に髪の毛を洗われる。

 ずっと洗っていなかった僕の髪は、血がべったりと染みつき黒色になっていた。

 お湯で血が洗い流されて行くと元々の赤色が顔を覗かせる。

 身体も血まみれだったが、男は丁寧に身体を洗ってくれた。血が落ちるとべったりと顔や体に張り付いていた髪の毛が軽くなった。

 右の背中にある大きな傷も、男は不思議そうに見ていたが僕が何も答えないため聞いてこなかった。

 ひとしきり僕の身体を洗い終わった男は一息ついて、僕と目を合せようと顔を覗き込んでくる。

 僕は目を合せると酷い目に遭わせられると刷り込まれていたので、必死に目を逸らした。


「そんな顔すんなよ。なんもしねぇって」


 風呂場から出て、身体を拭く布を男は持ってきた。

 僕の髪の毛から丁寧に拭き始める。洗ったとはいえ、まだ僕の髪についている血液がお湯で溶けて布に茶色くうつった。

 念入りに髪を拭いた後、身体を軽くふくと男は替えの服を差し出してきた。


「ほら。服着ろ」


 差し出してくるその服を、僕はおずおずと手に取った。

 人間の奴隷が着る服だった。

 それでも、僕が実験に使われるときに着せられていたあの服よりはずっとましだ。

 服を受け取ったままなかなか着ようとしない僕に、男は業を煮やして服を着せた。


「服の着方も解らないのか? まいったな……つーかその前に言葉解るか?」


 その問いに、僕はゆっくりと頭を縦に振る。


「なんだ、解るなら返事くらいしろよ……」


 男は服を脱ぎ、自らも風呂に入る準備を始める。

 男は僕に風呂場から出て行くように言った。

 言われるがまま僕は風呂場から出て、その家の中を見ていた。


 セージの家のような本が山積みになっている訳でもなく、家具が豊富なわけでもなく、何もない家だ。

 僕は言われた通りに風呂場から出た場所で待っていた。

 男が身体の血を洗い落とし、風呂場から出ると出た場所に僕がいたことに驚いたのか「お前、ずっと立ってたのか?」と言う。

 男は髪を布で乾かしながら、適当な血のついていない椅子に座る。


「お前も座れよ」


 そう言われた僕は、その場にしゃがみこんで座った。


「床にじゃねぇよ。椅子に座れ」


 ビクビクしながら僕は男の正面にあった椅子にゆっくりと腰を下ろした。

 椅子というものに座るのはいつ以来だろうか。久しく椅子というものに座っていない。


「お前……名前なんていうんだ?」


 呪われた名前だと魔女に言われ続けていた僕は、自分の名前を答えられなかった。




 ◆◆◆




 男は僕が答えなくても僕に話しかけ続けてきた。

 食事も出されたが、口をつけられずにいつまでもそれを見つめていると、男は僕に食事をさせてくれた。

 毎日毎日甲斐甲斐しく世話されるなんて、セージに小さい頃にしてもらった以来だ。


 僕は徐々にそれが恐ろしく感じるようになっていた。

 まだこれが幻覚の中にある夢なのではないかと自分を疑い出すと恐ろしくてたまらなくなり、一日中牢屋にいた頃と同じように震える。

 男に害がないのは解っていたが、相変わらず僕に向かって手を伸ばされると身体を硬直させて震えてばかりだった。

 しかしその現状に現実味が帯びてきたとき、僕は魔女除けを町全体に張らなければまた魔女がやってくるという考えに至る。


 男が僕から目を離した隙に家を抜け出し、町の四隅に自分の血を媒介とした魔女除けを作って張った。

 刃物の使い方を間違え、最後の魔女除けを張る際に思ったよりも僕は手首を深く切ってしまった。

 自分の手首から血液が溢れ出し、ボタボタと血をこぼした僕は町の端で気を失って倒れてしまう。


 それからどれほど時間が経ったのか解らない。

 目が覚めると僕は知らない家にいた。

 起きてしばらくすると銀髪の男が息を切らして僕の元へやってきた。

 僕を見るなり安堵したような表情をする。

 僕の手首の部分には包帯が巻かれており、止血されていた。それでも少し血がにじんでいる。


「おい、どうしたんだよ……こいつ……」

「…………自殺、しようとしたんじゃないかな」


 医者は僕の使っていた血の付いたナイフを男に見せた。


「町のはずれの山の中で、これを持って倒れていたらしい……」


 ――違う……自殺じゃない……


 そう否定しようとするが、僕は声が出ない。


「なんで死のうとした?」


 死のうとしたのではないと言ったとしても、では何をしていたのか聞かれる。僕が魔女だとバレたらここにはいられなくなってしまう。

 人間たちはこぞって僕を殺そうとするだろう。


「まただんまりか。いつまで答えないつもりだ?」

「よさないか。相当に心的外傷が酷いんだ。そう責めるものじゃない。まだ子供じゃないか」

「………………」


 男は怒りながらも、僕を家に連れ帰った。

 僕はその男に折檻を受けるのではないかとビクビクしていたが、男は僕を家へ連れ帰っても僕を殴ったり蹴ったり、鞭で打ったりはしなかった。


「いいか、二度とあんな真似するな」


 男はそうとしか言わなかった。




 ◆◆◆




 ある日、男は熱を出して寝込んだ。

 かなりの高熱で身動き一つとれない程衰弱している。

 いつもしつこいほどに僕に話しかけてくる男が、その日は僕に話しかけてこなかった。

 僕は男が気がかりで、寝室のベッドにぐったりと横たわる男の様子を見に行った。

 息を必死にするように、かなり苦しそうにしている。

 それでも僕が覗き込んでいるのに気づくと、いつも通り話しかけてきた。


「よぉ……珍しいな。お前が進んで俺の顔見に来るなんてな……」


 見ていて、何が原因か解った。

 セージの本で読んだことがある。人間は病気にかかりやすいと。

 解熱につかえる草が、魔女除けを張りに行ったときに生えていたことを僕は思い出した。


 その場所に僕は自分の意思で向かい、草を適量摘んで戻った。

 戻ると男は眠っていた。

 かなり苦しそうだ。

 草のままでは食べづらいと考えた僕は、その植物を液状化させる為になにかすりつぶせるものを探す。

 手ごろな丸い石を使って僕は植物をすりつぶし始める。

 しばらくしてすりつぶし終わったころに男は再び目覚めた。


「なんだ……? この青臭い匂い……」


 僕がすりつぶした草を丸めて男に差し出すと、男は怪訝な表情で僕を見る。


「なんだよそれ……どうしろってんだ」


 僕は口を開いた。久々に声を出そうとすると、なかなか声が出てこない。

 声の出し方を忘れてしまったかのようだった。

 しかし僕はやっとのことで声を絞り出した。


「……くすり」


 僕が声を出すと、男は物凄く驚いた顔をする。何度か瞬きをして僕をじっと見つめた。


「お前喋れるなら喋れよな……ゴホッ……ゴホッ!」

「…………飲んで」


 できるだけ小さくまとめて男に手渡すと、渋っているのかなかなか飲もうとしない。


「せめて飲みやすくしろよ……」

「…………」


 僕は一度部屋を出て、貯水している場所で水を汲んで男の元へ持って行く。

 すると男は観念したようだった。


「解ったよ……貸せ」


 草を丸めたものを水でなんとか喉の奥へ流し込んでいるようだった。

 男は飲み込んだ後、しばらくむせていたが気絶したように眠りについた。


 僕もなんだか眠くなってきて、座ったまま壁に頭をつけてうとうとと眠ってしまった。

 どれだけ経ったか解らないが、男が起き上がる音で僕は目を覚ます。

 どうやら熱は下がったようで呼吸も安定している。


「お前、話せるなら最初から話せよ」

「………………」

「……はぁ……お前、行く場所がないなら俺の家にいろ。俺の身の回りの世話をさせてやる」


 確かに僕にはいく場所がない。

 セージが殺された後から、僕はこの世に居場所がない。

 魔女にもなれず、魔族にもなれず、人間にもなれない僕にはどこにも行く場所なんてなかった。


「俺がお前のご主人様だ。解ったか?」

「……ごしゅ……じんさま?」


 聞いたことのない言葉だった。

 聞いたことがないが、恐らく主従関係を示す言葉であることは解る。


「自殺しようとするほど生きる意味がないなら、俺の世話をするために生きろ。解ったか?」


 何度か瞬きをして、目を泳がせたが、その僕は首を縦に振った。


「それで……お前、名前は?」

「……ノエル……」




 ◆◆◆




【ノエル 現在】


 まるですべてが夢だったのではないかと感じた。

 実は僕はまだ幻術の中にいて、独り牢屋の中で震えているのではないかとふと思った。

 腕を少しばかり動かすと、腕や首についていた枷は外れてなくなっていることに気づく。

 思い出せるだけのことを思い出すと、あれは幻術にしてはあまりに生々しく身体の痛みがあったし、あの雨の冷たさもけして夢ではないと考えた。


 ――ここは……拠点の僕の部屋……?


 僕は身体を起こした。

 身体の痛みや傷は嘘のように治っている。


 あの激しい戦いはやはり嘘だったのではないか。


 その思いにかられるが、僕の右側には今までなかった右翼がついていた。

 自分の右翼に触れると、真っ先にガーネットのことを思い出す。

 自分が気絶してどれだけ経ったのか解らないが、僕はベッドから出た。

 服は着換えさせられていて翼人が着る服を着ている。


 階段を急いで降りると、下にはクロエ、キャンゼル、シャーロット、アビゲイルがいた。キャンゼルはどうやら目が覚めたらしい。

 時間はどうやら朝だ。外から日が入ってきて影を長く伸ばしている。

 目覚めた僕を見て、全員が僕の名前を叫ぶように言いながら抱き着いてきた。特にシャーロットとクロエは泣きながら僕を抱擁した。


「ノエル……随分長く眠っていたんですよ?」

「どのくらい……?」

「14日程です」


 随分僕は眠っていたらしい。

 僕は抱擁されている間にも辺りを見回して彼を探した。こんなときにいの一番に僕のところへくる彼がいない。


「ねぇ、ガーネットは? ガーネットはどこ?」


 クロエやシャーロットが目を一瞬見開くが、顔を背けて何も言ってくれない。


 嘘だ。

 あれは悪い夢だっただけだ。

 僕を置いてどこかに行ってしまうはずがない。


「ガーネット? どこ?」


 まだおぼつかない足取りで、僕は彼の名前を呼びながら辺りを探す。

 扉を開き外に出て見回してみるが、彼の姿はない。


「ノエル、彼は……」

「解った。部屋にいるんでしょう? 疲れて僕みたいに眠ってるんだ」


 シャーロットの言葉を最後まで聞かずに、僕はガーネットの部屋へ足を進めた。


「行かせていいのかよ」

「…………」


 クロエとシャーロットが話をしているのが後ろで聞こえた。階段をあがるにつれて彼女たちのその声はすぐにも聞こえなくなった。

 僕はガーネットの部屋の前まできて扉を叩く。


 コンコンコン………


「ガーネット、いる? 入っていい?」


 ……返事がない。


 僕は心臓が止まってしまうのではないかという程の緊張感を感じていた。

 ゆっくりと扉を開くと、白い肌が傷だらけの金髪の青年が横たわっているのが見えた。


「なんだ、ガーネットいるなら返事してよ……」


 珍しく仰向けで横になっている。

 彼の千切れた右腕は丁寧に縫合されてくっついていた。僕は彼のベッドの隣の椅子に座る。

 血などはついておらず、彼はいつも通りの様子に見えた。


「いつまで寝てるの? 起きてよ」


 僕は彼の左肩に触れた。


 冷たい。


 ――そうか。肩のところにかけ布がなくて冷えちゃったんだ


 僕はガーネットの胸のあたりまでしかかかっていなかった布を、肩までかけてあげた。


「…………ガーネット、聞いてる?」


 彼から返事はない。


 きっと、僕が契約を何の断りもなく破棄したから怒っているんだ。

 だから僕に意地悪して返事をしてくれないんだ。

 自分に言い聞かせるようにそう何度も考える。


「ガーネット、あのね……契約を破棄したことは……怒ってるよね。ごめん」


 彼から返事はない。


「謝罪じゃ済まないって言ってたよね。そう思うよ。じゃあ……どうしたらいい?」


 彼から返事はない。


「その…………僕ら、異界に行って伴侶になるって話でしょ……? その……できれば少し町から離れた静かなところに住みたいんだ……いい? それともガーネットの家がいい?」


 彼から返事はない。


「………………」


 ついに僕の目から涙が溢れだした。


「っ……うっ……返事……してよ…………ッ……ガーネット…………」


 僕は彼の左手を握った。

 冷たく、爪は鋭く硬い。

 彼の手に触れると、最期につないだ手と、彼の言葉を思い出す。



 ――過去―――――――――――――――――



「ノエル……お前を“好き”になって……よかった……生きろ……お前が……この世界を変えるんだ……」



 ――現在―――――――――――――――――



 彼の最期の笑顔、最期の言葉を思い出して、尚更僕は辛かった。

 涙がとめどなく溢れてくる。


 あれは悪い夢ではなかったのだ。


 しばらく僕はガーネットの側で泣いていたが、ようやく涙を出し切って止まった頃、僕は立ち上がってガーネットの額に口づけをした。


「約束通り、僕が世界を変えるよ」


 彼の金髪にそっと触れ、僕は扉から出て再び下へ降りた。

 泣きすぎて瞼が少し腫れている僕を見て、下にいた魔女たちはかける言葉が見当たらないようだった。


「リゾンやレインは?」

「レインはあなたの主の元です。魔族たちは異界に帰ってもらいました」


 ご主人様のことを、気絶する間際に見たような気がしたのを思い出す。


「…………ご主人様は……ゲルダの城に来た?」

「……ええ」

「それで……彼はなんだって……?」

「あなたを渡せと……連れて帰るからと聞きませんでした」

「…………それから?」

「リゾンはあの人を殺そうとしましたが……レインが間に入って、事なきを得ました……」

「……彼は無事なの?」

「はい。ご自宅にいます」

「その後の様子は……?」

「…………あなたが望んだように、あなたはもう戻らないのだと説得を続けました。あなたは……ガーネットと伴侶になるのだから、もう諦めてほしいと……説得を続けました」

「………………」


 すぐ傍らで絶命している者の伴侶になると説明されて、それで納得するわけがないと容易に想像ができる。


「……諦めた?」

「いいえ。まだあなたの帰りを待っています」

「……そう」

「もう、脅威は去りました。魔女たちも落ち着きを取り戻しています。これからは人間と良い関係を築いていけばいいのではないですか? もう……魔女を縛る必要も――――」


 矢継ぎ早にシャーロットがまくし立てるのを僕は遮った。


「駄目だ。当初の予定通り、魔女の心臓で魔女を縛る。世界も作る」

「……もう、ゲルダの心臓も残っていませんし……アナベルもいません……」

「できるよ。解ってるでしょ?」


 悟り切った僕の口調に、シャーロットは涙ぐんでいる。

 クロエもいたたまれず険しい表情をしていた。


「やめろ、ノエル……どうしてお前がそこまでするんだ? もう十分色々なものを犠牲にしてきただろ、どうしてお前が……これ以上……」


 キャンゼルは泣いていた。

 アビゲイルもボロボロと涙を流して、声を殺して泣いている。


「クロエ……黙っていたことがある。数人の……いわゆる僕らだけは例外的にこの世界に残るよう手配しようと言ったけど……魔女は全員世界を隔てるって決めてたんだ。僕は……異界に行こうと思ってた」

「…………それでいいから、お前は異界に行けよ……」


 クロエは反対すると思ったが、ただ泣きながら僕を抱きしめた。


「お前が犠牲になって心臓を使う必要ないだろ……?」

「もう……それしかないんだよ」


 僕は、自分の心臓を使うしかない。

 もうゲルダの亡き今、僕の心臓を使う他に方法はなかった。


「大丈夫……ガーネットと約束したから。僕が世界を変えるって」

「お前が生きていればこそだろ……やめてくれよ……」

「……生きて世界を変えるって約束だったけど……前半は守れそうにないや」


 その場にいる僕以外の者は全員泣いていた。

 クロエは僕の堅い覚悟が伝わったのか、嫌がりながらも強く止めようとはしない。


「僕はレインをつれてくるね。あの町には魔女除けを張り直してから異界に行って……魔力を貸してくれる者を連れて戻ってくる。魔術式の準備してて」

「それはもう、済んでいます。ノエルが眠っているときに、用意しておきました……」

「そう……」


 僕は彼女たちに背を向けて、ご主人様のいる家へ行くために外にでた。

 両翼を羽ばたかせてみる。

 自分の翼で飛ぶのは、幼いころにした以来だ。あの頃よりももっと翼は大きくなっていたし、飛ぶ感覚が解らない。

 思い切り羽ばたかせてみたら、僕の身体は浮かび上がる。

 思っていたよりも自分の本能のようなものが飛ぶことを覚えていたようだ。

 高く羽ばたきあがると空から見る景色を僕は眺めた。その世界は美しく見えた。

 森林や、砂漠、遠くに見える町、それらが美しい。


 世界は、残酷なほど美しく見える。




 ◆◆◆




 彼の部屋は荒れ果てていた。

 家具の何もかもが破壊されているし、布もビリビリに破れている。誰かと争った荒れ方ではない。自分でこうしたのだろうと解る。


 鍵はかかっていなかった。

 壊された窓から風が中に入ってきている。

 ご主人様の部屋を恐る恐る開けると、そこに彼はいなかった。

 扉の軋む音で、ベッドの上にいた白い龍が目を覚ます。


「ノエル!」


 僕にまっすぐ飛んできて抱き着いてきた。レインはもう離れまいと必死に僕にしがみついている。


「心配したんだよ……ノエル、ボロボロだったから……」

「ごめんね。大丈夫だよ。レイン、異界に帰してあげるから」

「ほんとう? でも……あの怒りんぼの人間はいいの?」

「うん。魔女除けを張っていくから」


 レインは僕がそう言うと、何やらもどかし気な態度をとり、僕の服を更に強く掴んだ。


「……会ってあげてよ」

「…………」


 何故、レインがそんなことを言うのだろうか。そう一瞬考えながらも、レインは話し続けた。


「ずっと、ずっとノエルに会いたがってた。会ってあげてよ」


 ずっとご主人様のことが心配だった。

 事の始まりはご主人様に拾われたところからだ。そこから僕は彼を慕った。だからこそここまで決心することになった。

 その彼に感謝をしている。


「解った……どこにいるか、解る?」

「多分、ぼくらが会った辺りにいると思う」

「……なんで?」

「いたたまれないんだよ、多分……ノエルと過ごしたこの家に、いたくないから、一日中どっか行っちゃってる。でも、ノエルの面影を追ってるから……ノエルがよく行ってた場所に行ってる……」

「………………」


 僕はレインを降ろし、待っているように言った。

 ご主人様の家を出て、見慣れた山道に僕は向かう。

 その道中を歩く度に昔のことを思い出す。いつも薬草を摘みに来た場所だ。

 歩きなれたその山道をよく見ながら歩いた。これがこの景色を見る最期だと思うと、いつも感じていた世界とは全く違うように見えた。


 ――これが、最期……


 木々の、葉の一つ一つを僕は目に焼き付けた。やけに日差しが反射する植物の緑が眩しく感じる。


 山に入って少し歩いたその先に、彼はいた。


「ご主人様……」


 僕がそう呼ぶと、彼は僕の方を見た。

 酷くやつれていて、髪の毛もボサボサで、前よりも痩せてしまっている。

 目に光がなかったが僕の姿を見て、目を見開く。


 一歩彼は僕に近づいた。


 僕は動かない。


 そしてまた一歩、また一歩と彼は僕に近づいてきた。


 もう触れられる距離。


 僕の髪に、顔に彼は触れる。


 確かめるように。


 赤い瞳で僕は彼を見つめた。


 彼もまた、僕を見つめ返す。


 ご主人様は泣きそうな顔をして、僕を強く抱きしめた。


「………………」


 懐かしい匂いがする。


 暫く、言葉はなかった。

 僕らは、互いの失った時間を埋め合わせるのにたくさんの話が必要なはずだ。

 僕が魔女だったと解った後から、ろくな話し合いもできていない。

 まして、僕の記憶にうっすらと残る、ゲルダとの決戦の後に再会した後は何の話もできていないのだから。


 ――なんでだろう……


 不思議と涙が出てこない。

 また僕はご主人様に会えばガーネットの遺体の傍らで泣いたように泣くのかと思っていた。

 涙が枯れてしまったのか、涙は出てこなかった。


「…………もういい」


 長い沈黙を破ったのは彼の方だった。


「もう、どこへも行くな。何も話さなくていい……俺の側から離れるな」

「……………………」


 僕は、拾われたときのように何も言えなかった。

 何からどう話していいか解らなかった。

 彼がどこまで知っているのかも知らなかったし、そしてなによりも、話し終わったら僕は行かなければならない。

 話し終えるのが億劫で、話し始められない。


 ずっとこうしていたいと思った。

 ずっと、温もりに包まれていたい。

 それでも僕は覚悟を持って、彼に話し始める他なかった。


「……もう、ご主人様は……僕が守って差し上げなくても、大丈夫です」


 彼の抱擁から僕は意を決して離れた。

 僕がご主人様の銀色の髪に触れると、少し硬い感触がした。

 ご主人様は悔しそうな顔をして泣いていた。


「俺は……お前がいてくれたら他には何もいらないのに……どうして……どうしてだよ……!?」

「…………このまま、魔女の女王はいなくなりましたが、いずれ魔女は復興するでしょう。そうしたらまた女王が生まれ、人間はまた迫害を受けます」

「そんなこと……解らねぇだろ?」

「……魔女が迫害をしなくても、人間が魔女を迫害します」


 淡々と事実だけを僕は話した。

 感情的なことを話しだしたら、僕は尚更辛くなってしまう気がしたからできなかった。


「町の連中には、お前に手を出させねぇよ。俺と一緒にここを出るんだ。誰もいない、誰もお前や俺を迫害しない場所に行こう……それでいいだろ?」


 セージと同じ生き方だ。

 それは魅力的だった。

 世界の苦しみなどすべて忘れて、僕と彼の2人きり。

 いつまで続くとも解らないその幸福に身を委ね……


 ――そして最期は死にゆく彼を腕の中で看取るのか――――


 その恐怖が胸の中に巣食って、僕のことを病的にむしばんだ。


 ――また僕は、大切な人を遺して生き残るのか……また僕は、大切な人を失うのか……


 それは僕にとって何よりも恐ろしいことだった。


「僕は……もう、この残酷な歴史を終わらせたいんです。終わらせられる力が、僕にはある」

「じゃあ、それが終わってからならいいだろ……?」

「…………魔女を、この世から隔離する為には…………僕の命と引き換えになります」


 彼は、言葉を失って僕の方を呆然と見ていた。瞬き一つせず、僕の方を凝視している。


「だから、もう本当にこれが最期です。ご主人様」


 言葉にすると、その言葉はやけに重かった。

 言い終わると、僕は自分の中の何もかもを吐き出してしまったかのような感覚がする。

 僕の言葉に、ご主人様は首を横に振った。


「なんで……!? ッ……なんで……お前なんだよ……他の誰かでいいだろ……お前じゃなくていいだろ…………なんでっ……お前なんだよ……」


 ご主人様はボロボロと涙をこぼし泣いている。消え入りそうな声で「どうして」と訴えてきた。


「僕じゃなきゃ、できないことなんです」

「お前は……! お前は……俺が世話しないと……飯だって食えない女だろ……」

「………………」

「…………風呂だって……俺が入れてやらなきゃ……身体の洗い方もわかんねぇし……それに……俺の世話するために……生きてただろ……? 俺の為だけに……」


 ご主人様は出逢った頃の僕の話をしている様だった。


「なのに……なんでそんなお前が……そんなことできるんだよ…………俺以外のことなんか、気にしなくたっていいだろ……なんだってんだよ? 急に…………」

「…………僕の……僕らの過去を埋め合わせる為には、時間が足りませんね……」

「ならこれから埋め合わせればいいだろ!?」


 僕は彼から後ずさった。


 彼は追うように僕に近づく。

 背中の翼を羽ばたかせると、ご主人様は僕の服の袖に縋るような素振りを見せるが、僕は逃れるように羽ばたいて距離をとった。


「待てよ! 話は終わってないだろ!?」

「………………」


 返す言葉が見当たらない。

 僕は彼に何を言われても、覚悟が決まっていた。

 僕は最期の彼の姿を目に焼き付けるしかない。


「あなたは生きてください。僕が、生きられない未来を」


 僕は彼から背を向けてレインのいる家へと飛んだ。


「待てよ! 待て!!」


 後ろから走る音と、声が聞こえる。


「ノエル!!!」


 初めてご主人様が僕の名前を呼んでくれた。

 初めてご主人様が誰かの名前を呼んでいるのを聞いた。


 それに、僕は一瞬だけ覚悟が鈍る。


 ふり返って戻りたい気持ちを払いのけようとすると、僕の目から涙が一筋流れた。

 涙を拭い、彼の家に降り立つと外で待っていたレインを抱き上げる。


「ノエル……泣いてるの?」

「……大丈夫」


 レインを抱きかかえ、僕は再び飛び立った。

 彼の家を見た後に、もう一度山の方を見る。ご主人様はまだ降りてきていないようだった。


 ――………………


 僕は拠点へ向かって飛んだ。

 身を裂かれるような辛さが僕の心臓をギュッと掴んでも、それでも振り返ることは出来なかった。




 ◆◆◆




 魔王城のひたすらに長い階段を、下から見上げた。

 一歩ずつ歩んでいけば何十分もかかると、ガーネットが運んでくれたあの階段だ。それを見ていたら僕は再び目頭が熱くなる。

 僕の背にはガーネットの冷たくなった遺体が背負われていた。一度ガーネットを背負い直すと、彼の重みが身体全体に伝わってくる。

 想いを振り払うように僕は力強く羽ばたいて上昇した。

 僕の肩に掴まっているレインは、元気がなく何も言わない。久しぶりに異界にきたのに、レインは悲し気な表情で大人しくしている。

 それに対して僕は何を言うこともできなかった。

 飛ぶとすぐに頂上にたどり着き、瞬く間に魔王城の目の前までたどり着いてしまった。


 ――もう半翼なんていらなかった


 飛べないことをずっと悩んでいた時期もあったけれど、飛べる事と引き換えに僕はかけがえのないものを支払った。


 ――ガーネットがいてくれたら、翼なんてなくても良かったのに……


 入口にいた小鬼は、僕とレインの姿を見るなり会釈して扉を開けた。

 感情を抑え、息を整えて、脚を前に運ぶ。

 初めてきたときに酷い目に遭わされたことも、もはや遠い昔に感じる。

 大広間の魔王様がいる部屋の扉を小鬼に開けてもらうと、大きな魔王様の姿が見えた。

 魔王様は僕とレインの訪問に、わざわざ座っていたのを立ち上がり、僕に対して頭を下げた。


「ノエル……」

「……頭を上げてください……。女王を仕留めました。これからもう1つ世界を創り、魔女を縛ります。魔族の助力を得る為に伺いました」

「…………覚悟はできているということか」

「はい…………」


 僕がなんと言わずとも、魔王様は何もかもを解っている様子だった。

 魔王様が小鬼に合図すると、小鬼は部屋から出て行く。


「そうか……残念だ」

「…………ええ……本当に……。それから……ずっと預かっておりましたレインを送りに来ました」

「本当に助かった。いくら感謝をしてもしきれないほどだ」

「いえ……当然のことをしたまでです」

「ガーネットも運んでくれたようだな。我々で彼を埋葬しよう」

「僕が埋葬します。手向ける花も持ってきていますし……」


 僕が戦いで死ぬことは考えていたけれど、ガーネットが死ぬことは考えていなかった。

 どうしてもそれを回避したいと願っていたのに。

 何をどうしたら良かったのか、考えればいくらでも出てくるのに時を戻すことは出来ない。


「またあの蝶を使うか……?」

「…………僕もすぐに後を追いかけますから」

「そうか……」


 小鬼が戻ってくると、大きな黒い龍が同じくして入ってきた。


「(レイン!)」

「(お父さん!)」


 久々の親との再会に、レインは曇らせていた表情を漸く晴らす。

 僕はしゃがみこんでレインを降ろした。レインは不安げな表情で僕を見上げる。


「いいよ、お父さんのところへ行って」

「……ノエルはいつこっちにくるの?」


 命を引き換えにすることなど、レインは知らない。

 なんと答えていいか解らず言葉を濁す。


「そうだね……思っているより時間がかかるかもしれない」

「ぼく、待ってるからね」

「レイン」


 レインの小さな身体に僕は触れた。


「いい? 僕と再会するまで、魔族をよろしくね。リゾンも頑張ってるから、レインもリゾンに負けないように強くなるんだよ?」

「うん。ぼく、すぐ大きくなってノエルをお嫁さんにするからね」

「そうだね。ほら、お父さんが待ってるよ」


 何度も僕の方を振り返りながらも、レインは父の方へと飛んでいった。

 レインと父は魔王城正面から出て行った。

 レインの父は「ありがとう」と言っていた。

 それを見送っている最中、バタンと扉の一つが開き銀色の髪の吸血鬼が血相を変えてとんできた。


「遅いぞ!!」


 再会と同時にリゾンは僕を責める。

 彼は僕の方へ怒っている様子で近づいてきた。


「本当に! お前には色々言いたいことがある! そこに座れ!!」


 何に対して怒っているのか、僕には想像ができた。

 それに付き合っているといつ解放されるか解らない。


「…………リゾン、世界を創るから魔族の魔力を貸してほしい」

「はぁ!? ずっと待たせておいて図々しいと思わないのか!?」

「……ごめん。でも、お手柔らかに頼むよ。ガーネットが死んで……かなりまいってるんだ」


 素直にそう言うと、リゾンは僕の背追っているガーネットに目をやる。

 先ほどまでの怒りがまだ収まらないようだったが、僕に返す言葉を失い、なんとも言えない苛立ちが表情に出ている。


「……リゾン、更に怒らせるようなことを言って申し訳ないけど……僕は、自分の心臓で残っている魔女を全員縛る。だから、これでお別れだよ」

「やはりな。そう言いだすと思っていた」


 もっと怒るだろうと考えていた僕は、罵倒されずに少し安堵する。


「なんだ、知ってたの」

「女王の心臓が消し飛んだからな。お前は自分を犠牲にしてでもそうするかもしれないと、戦いの後にあの髪の白い魔女が言っていた」

「そう……まさにその通りだよ」

「お前が死に急がなければ、心臓は手に入ったかもしれないのだぞ。自業自得だ」

「……それは違うと思う」


 それだけははっきりと言える。

 僕とクロエとアナベルで体力をあれだけ削った後だったから良かったと僕は確信していた。


「でも、リゾンやガーネットがいなかったら勝てなかったのは事実だよ。本当にありがとう」

「当然だ」

「最後に顔が見られて良かった……色々、僕らには問題があったけど、こうやって和解することが――――」

「よせ、鬱陶しい。遺言の挨拶など聞きたくない」

「ははは……そっか」


 辛辣なことを口では言うリゾンだが、どこか哀愁を漂わせた表情をしている。


「僕は……これからガーネットを埋葬しに行くから、悪いけど、魔族を集めておいてくれないかな」

「……本当に、いいのか?」

「いいって、何が?」

「…………自分の命を差し出してまで、世界を変える必要があるのかと聞いている」

「うーん……逆説的に考えて、自分が生きていてまで変えたくない世界じゃないってだけだよ」

「はぁ……お前の考えは逐一理解できない。さっさと行け」


 リゾンはそう言って僕を自分の前から追い払った。


 ――リゾンらしいな


 魔王様に深々と一礼し、ガーネットを背負い直して僕はリゾンと魔王様に背を向けて城を後にした。

 僕が去った後、魔王様はリゾンに対して心配そうに声をかける。


「お前こそ、本当にいいのか?」

「何の話だ」

「ノエルを引き留めなくていいのかと聞いている」

「…………ふん、私を選ばずにガーネットを選んだあんな見る目のない女、引き留めるものか。それに、私が引き留めたところであれは辞めたりしない」

「ほう。よくノエルのことを解っているようだな」

「……もういい。魔族を集める」


 リゾンは魔王様にそう言い残し、正面の大扉から出て行った。




 ◆◆◆




 ガーネットをラブラドライトの隣に埋葬しようと、僕は穴を掘り始めた。柔らかい土を丁寧に手で掘って行く。

 懸命に土を掘り返し、ガーネットが埋葬できる程度の穴を掘り終えた。


「ふぅ……」


 ガーネットの身体をゆっくり担ぎ、掘った穴の中に横たえる。

 後は土をかけるだけだ。

 しかし、気持ちの面でなかなかその作業が進まない。

 脚の方からゆっくりと土をかぶせていくが、度々僕は手が止まった。


 ――弟を埋葬したとき、ガーネットはこんな気持ちだったのかな……


 胸の手前まで土をかぶせた後、僕は一度手を止める。

 鞄の中から僕は手向ける為に持ってきた彼岸花を取り出し、ガーネットの胸の辺りに置いた。


「…………ガーネット、今まで本当にありがとう」


 気が進まないながらも、ガーネットの顔を目に焼き付けて彼を丁寧に全て埋葬する。

 ラブラドライトの胸の辺りに植えた青い彼岸花と、新たに植えたガーネットの赤い彼岸花が美しく揺れているのを見ると、僕は弱く笑った。


「じゃあね。“あの世”で会おう」


 手についた土を水の魔術で洗い、僕はその彼岸花を記憶に焼き付けて再び魔王城へ飛び立った。




 ◆◆◆




 リゾンと、リゾンが集めてくれた魔族たちと共に僕は元の世界へ戻ってきた。

 僕が戻ると、もう夕方になっている。

 シャーロットたちは魔族を連れた僕の姿に、尚更悲しげな表情をしていた。


「やろうか」

「……はい。この一帯に巨大な魔術式を刻印おきました。あとは魔族の力を借り、我々でその魔力を調整するだけです」

「解った。リゾン、僕らに魔力を貸して。今からする」

「あぁ、しくじるなよ」

「うん、大丈夫」


 僕は大きく両手と翼を広げ、世界を創る魔術式へ魔力を送った。

 地面に敷かれている見えない魔術式が徐々に僕らを中心に光り出す。

 そこにクロエとシャーロット、アビゲイルが続いて手をかざした。

 魔族たちも僕らに同調するように僕らへ魔力を送る。

 僕の翼が魔力を収束させる役割を果たし、効率よく魔力を魔術式へと伝わって行く。自分でも計り知れないほどの力が自分の翼を通じて感じた。

 辺り一面が魔術式の光で明るく光る。

 これまでの出来事が色々と頭を駆け巡ってきた。


 ――水や空気の綺麗な場所、こっちの世界と同じような空気環境、沢山の命の息吹が感じられる場所……山や川、湖、海、大陸……星、太陽、宇宙……


 創造するには余りある、途方もない果ての果てまで僕は魔術式に織り込んだ。

 そうして魔術式へすべての魔力がいきわたったとき、より一層眩い光が立ち上る。

 魔族たちが送ってくれる全ての魔力を僕は最大限使用した。


 ――これで何もかもが終わる……


 その気持ちは、やけに安らかな気持ちだった。


 図書館で苦労して異界の言葉を解読していたときのガーネットを思い出す。

「少し、休んだらどうだ?」と聞いてきた彼の姿を思い出す。

 僕のことを「ノエル」と呼ぶ彼の姿を思い出す。


 ――もう、休ませてもらうよ……


 辺り一面が真っ白に輝き、爆発するように世界創造の魔術が発動した。



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