武蔵野フロンティア宣言

村井なお

前編

 昔から地名が気になるたちだった。


 そうした性向は生まれ育った土地に由来するものかもしれない。

 僕の生まれは静岡県浜松はままつ市である。かつての遠江国とおとうみのくに、いまの浜松には一風変わった地名が多い。

 例えば「小豆餅あずきもち」、「銭取ぜにとり」。これらは、かつて浜松城に居を定めた徳川家康公に由来する。

 上洛を目指す武田信玄の軍勢が遠江国を襲ったときのことだ。浜松城から打って出た徳川軍は、鶴翼の陣を敷いた武田軍によって一敗地に塗れた。世に名高い三方ヶ原みかたがはらの合戦である。

 合戦場から敗走する家康公が、ここまで来れば一安心と茶屋にて小豆餅を食べたのが「小豆餅」。武田軍の追手が来たと慌てて逃げ出す家康公、食い逃げは許さんと追いかけた茶屋の老婆が家康公を捕まえ代金を取り立てたのが「銭取」。

 何れも伝説の域は出ないものだが、ユニークな地名に相応しいコミカルな逸話である。

 こうした独特な地名以外にも、浜松城下には面白い地名が多い。鍛冶町かじまち旅籠町はたごまち紺屋町こうやまち肴町さかなまち利町とぎまち伝馬町てんまちょうなど、どういった者たちがそこに住まいしたのか想像力を掻き立てられる。


 そうした土地に生まれたからか、初めて東京に住んだときも、まずは地名が気になった。

 僕が上京したのは十八の頃、大学進学のためである。大学の寮は三鷹にあった。入寮の際に配られた生活の手引には近辺の地図が載っていて、そこで見つけた地名が目に引っかかったのを、よく覚えている。

 三鷹市下連雀しもれんじゃく、そして上連雀かみれんじゃく

 JR中央線三鷹駅、そのすぐ側に書かれた地名が気になったのだ。


 何故その地名が気になったか。

 浜松にも似た地名があるからだ。名を連尺町れんじゃくちょうという。

 町名の由来を見てみよう。郷土史家・神谷昌志の『はままつ町名の由来』にはこうある。「江戸の昔から商人町として栄え、今日に至っている。連尺というのは物を背負って運搬するとき使用する道具のこと。連尺を使って商品を運びながら商いする人達がこの町には日立ったのであろう。連尺という町名もここから発生した。」と。

 浜松はかつて東海道の宿場町であった。行商人たちは連尺を背に東海道を往来した。連尺町という地名は、往時の盛況をいまに伝える名であったのだ。


 連雀というのは、連尺が転じた表記であるという。

 ならば三鷹の下連雀・上連雀という地名も連尺に由来するものであり、ここもかつては宿場町であったのだろうと、そう思ったのだ。


 その想像が間違っていると知ったのは、しばらく後のことだった。

 三鷹の下連雀・上連雀は、江戸神田かんだ連雀町れんじゃくちょうに由来するという。神田郵便局や蕎麦の「やぶ」、甘味処「竹むら」が並ぶ一角には、かつて連尺職人が多く住んだらしい。

 その職人たちが移住したのが三鷹市下連雀なのである。


 職人たちが江戸を離れ、武蔵野へと移り住んだのは何故か。

 明暦めいれきの大火にその原因がある。

 振袖火事とも呼ばれた明暦の大火は、江戸時代三百年を通しても屈指の大火事であった。火は江戸市中に広がり、犠牲者の数は万を超えたという。江戸城の天守閣も焼け落ち、以後再建されることはなかった。

 大火は、江戸の都市計画の転換点となった。延焼を防ぐべく飛び火の届かない幅の広小路が設けられ、川向こうへと避難ができるよう隅田川には多くの橋が架けられた。そして被災した地域の住人は郊外へと移り住まわされたのである。

 いまも文京区駒込に門を構える吉祥寺きちじょうじ、その門前町の住人が移り住んだのが現在の武蔵野市吉祥寺であるし、神田連雀町の住人が移り住んだのが三鷹市下連雀なのだという。

 郊外といえば聞こえはいいが、当時の武蔵野台地は荒涼たる原野であり、移住した人々は草生い茂る荒野を開拓せねばならなかった。

 武蔵野はフロンティアだったのである。


 現在の三鷹・上連雀はかつて連雀前新田しんでんと呼ばれていた。新田とは江戸期に新規開拓された田を指す。

 ここで注意すべきは「田」という一字である。

 我々日本人の食生活は米食を中心としているがために、「田」というとまずは水田を思い浮かべるだろうが、ここでいう『田』とは陸田つまりは畑をも含んでいる。

 国木田独歩の『武蔵野』にはこうある。「谷の底はたいがい水田である。畑はおもに高台にある、高台は林と畑とでさまざまの区劃をなしている。畑はすなわち野である」と。

 土地には向き不向きがある。比較的水を得やすい谷戸やとの底には水田がつくられ、十分な水を得るのが難しい台地上では主に畑が耕された。

 では武蔵野台地が畑作に適していたかというと、決してそんなことはない。水田ほどではないにしろ畑の耕作にも水が必要である。火山灰が堆積して成された関東ローム層の水分保持力は弱く、リン酸を保持する能力にもまた乏しい。

 武蔵野は元来農業に向いていない。

 故に新田開発は難航し、開拓に臨んだ農夫たちは困窮したという。


 だが、それでも武蔵野は拓かれた。

 水がなければ引けばよいと、玉川上水を始めとした用水が整備された。土壌がよくないならば落ち葉を堆肥にすればよいと、落葉広葉樹が植えられた。再び独歩を引こう。「木はおもに楢の類いで冬はことごとく落葉」したのである。

 開拓民たちは幾多の労苦を乗り越え、不毛の地を人里へと変えたのだ。

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