第5話 洞窟物語

 吾輩は猫のようなものである。決して火口から地底世界へと向かった「アクセル」でも「オットー」でも無い。強いて言うならばmeである。吾輩が吾輩であることは揺らぐことのない真理である。

 しかし、存在が揺らいでいる吾輩が言うと、その説得力は如何ほどだろうか。


 吾輩が入り込んだ薄暗い洞窟は、明らかに3階のビルから地上を通り過ぎ、地下にどんどん潜っていくような勾配になっていた。このままだと地球の中心に辿り着きそうな勢いである。人生において勢いは時に必要だと言うが、急転直下の方向はごめん被る。

 人生でもなく、猫生でもなく、猫のようなもの生だが。

 まあ、どの生であっても、こんな角度で落ちていったら、向かう先は地の獄。生きた心地がしない。先程までの猫カフェ「ホトトギス」が監獄ならば、なお酷い場所に向かっていると言えるだろう。

 しかし、進むより他ないのだ。何故ならば、吾輩の前には道があるのに、後ろには道が無いからである。吾輩が四足を一つ前に踏み出すたびに、風鈴の音色を縦半分に割ったような音がして壁が近づいてくる。吾輩は一歩分も下がれないのだ。意固地な不退転を現象化したような洞窟である。


 そんな洞窟の性格にも慣れて、そろそろ友達にでもなろうかと思えるくらいに散々突き合わされて歩かされた頃、急に大きな空洞が現れた。吾輩はその明るさに、初めは外に出たと思った。

 しかし、それは間違いだとすぐに気付けるほど、異質なものが目の前に広がっていた。

 海である。

 さざ波を立てるぼんやりと青い海が急に広がったのである。白い砂浜、潮の香、照りつける太陽、やたらと動きが速い蟹。どこをどのように切り取っても、多少加工したところで、まごうことなき海である。

 吾輩は暫く茫然と立ち尽くし……。いや、もちろん4足でである。

 稀に2本足で立ち上がる猫がいるが、吾輩はその類の「もしかして、前世は人間では?」と疑問を持たれるようなことはしない。吾輩は最も猫らしい、猫ではないものである。

 閑話休題。吾輩が我を取り戻し後ろを振り向くと、先程までの細い洞窟は消えていて、代わりに海が広がっていた。しかし、間違いなく洞窟の中のようで、山よりも高い天井はごつごつとした岩肌で覆われていた。


 簡潔に表現すると、吾輩はいつの間にやら直径5mの島にいた。わざとらしいヤシの木が一本と、サラサラとした白い砂と、反復して移動するやたらと動きが速い蟹だけの島である。猫の額よりは広いけど、島としてはかなり小さい。


 普通の猫ならば、背後にそっとキュウリを置かれたが如く飛び上がり驚くだろう。しかし、吾輩はこういう不思議な現象に出くわしてもびくともしないのである。そもそも、吾輩以上に不思議なものは有り得ない。「ありえない」なんて事はありえないと聞いたことがあるが、これだけは自身を持って無いと断言しよう。「nyアー」と断言しよう。

 吾輩はとりあえず目の前のやたらと動きが速い蟹を本日のディナーと決めた。既に茹でてあるかのような鮮やかな色味と、食欲をそそる香しい匂いのする非常に美味しそうな蟹である。

 それから昼寝をすべくヤシの木陰こかげへと移動した。オーシャンビューの好立地である。勿論、この島のどこもそうだが。

 吾輩は砂地に横になって四足を投げ出し、体に差し込む木漏れ日を漫然と眺めた。

 ここで、第4話の「還都」から始まる少し長い回想は終わりである。


 回想が終わると、吾輩は現状を考え出した。どうして吾輩は海にいるのだろうか。吾輩は暫く考えると、至極当然の答えをキラリと閃いた。

 そうだ。吾輩は、世の人間が思い浮かべる「猫」という抽象を再度鍋で煮込んだような側面がある。人間が猫を求めつつも、失われた夏を思うあまり、こんな訳の分からないセットになったのだ。この洞窟の中は人間が猫と同時に望むものが虚像として現れている。

 つまり、この海も、潮の香も、照りつける太陽も、わざとらしいヤシの木も、サラサラとした白い砂も、反復して移動するやたらと動きが速い蟹も、全て吾輩なのだ。

 まるで闇鍋。いや、闇猫鍋である。

 そうしてすべてを理解した吾輩は急に眠くなった。そのまま、木漏れ日の中で四足を投げ出したまま、吾輩は睡魔に負けて意識を失った。


 ――そして、吾輩はいつも居座っている空き地で目覚めた。目覚めた原因は鼻先にとまった黄色い胡蝶が原因らしい。胡蝶はつむじ風に吹かれて、あっという間に見えない所まで行ってしまった。

 やはり、先程までの洞窟の世界は偽物だったのだ。今まさに吾輩が知覚している現在が現実なのだ。

 しかし、そうなると今が確かに現実だとしても、何処からが本物で、何処からが偽物だったのか見当が付かない。吾輩が猫カフェ「ホトトギス」で嫌々働かされた記憶も、実は偽物だったのかも知れない。

 だけど、偽物の世界で吾輩が蟹を食べたいと思ったことは真理の心理である。


 夏が過ぎ、秋を越して冬が来て、蟹の季節がやってくるのである。

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