第30話 マニラ

 一行は、ホーチミンの国際空港であるタンソンニャットから、エールフランスでシャルル・ド・ゴール空港へと旅立った。朝の九時である。十二時間後、彼らはパリにいる。

 グレースは見送りの私にハグをし、私だけに聞こえる声で、約束を忘れるないでと念を押した。

 

 グレースたちがゲートの向こう側へ消えた後には、私とポールの二人が残った。

 私たちは、三十分後のフィリピン航空便でマニラへ飛ぶ。こちらは約三時間のフライトだ。

 私たちは、肩を並べて自分たちのゲートへと歩いた。

「例の物は、まだあそこにあるのか?」

 ポールは抑揚のない声で、即座に答えた。

「それが、ないんですよ」

 一瞬驚いたが、落ち着き払うポールは、おそらく全てを把握しているのだろうと気を取り直し、私は彼を見る。

 ポールは、前を真っ直ぐ見て歩きながら、言った。

「大学はブラフです。過去一週間の衛星画像を、徹底的に分析しました。あれは最初から、大学なんかにはありません」

「軍が大学を守っているのも、ブラフなのか?」

「ええ、奴らは相当警戒しています」

「それで、例の物は何処にあるんだ?」

「ケソンのAFP本部です。最初から、そちらへ運び込まれていました。今度は軍の総本山ですから、簡単にはいきませんね」

 ポールの言い方は、まるで他人事のようだった。

 私は思わず、上を見上げる。近代的空港の吹き抜けとなる高い天井に、いくつものスポット照明が眩しく輝いていた。

「トンネルを通せないか?」

 ポールは初めて私に視線をよこし、にやりと出っ歯を出す。

「やはり、そうきましたね。既に着工していますよ」

 考える事は同じなのだろうと思いながら、私は追加の依頼をする。

「基地の電気を落とせないか? 何系統のバックアップがあるか知らないが、一時的にでも、セキュリティーシステムをダウンさせたい」

 電力ケーブルが束になって地下を通っている場合、どれがどう繋がっているのかを把握するのは難しい。しかも通常、重要施設の電力線はループになっている。一箇所が切れても、電気が途切れないようにするためだ。どこでどのようなループになっているのか、それが分からなければ確実に電力を遮断する事はできない。

 変電所の大元から切るか、あるいは末端を切るか、その辺りの検討も必要だ。末端を切った場合、相手にターゲットを知らせる事になる。

「なるほど、それは直ぐに検討させます」

「それと、戦闘服、暗視スコープ、防弾チョッキ、M16、マグナム弾デザートイーグル、手榴弾、C4、アーミーナイフ、スナイパーライフルを適当に用意してくれ。ライフルはサコーでもレミントンでも、MOA0・5以下なら何でもいい。できれば、ロケットランチャーも欲しい。可能であればだ」

 ポールは再び私を見た。意表を突く物といえば、ランチャーくらいのはずだ。

「完全に戦闘モードですね。まともにやり合うつもりですか?」

「最悪はな」

「何か作戦でも?」

「特にない。行きあたりばったりだ。あんたには、何か考えがあるのか?」

「今のところ、特別な作戦はありませんね。トンネルから、上手く忍び込めないかって事くらいですよ」

「だろうな」

 ポールには、普段から先見の明や強力な実行力という、凡庸な見掛けの裏に地金の良さが見える。しかし今回、彼にもまだ、作戦は練り切られていないらしい。

 その後ゲートまで、肩を並べて歩く私たちに、会話は一切訪れなかった。


 ボーディングは、予定通りだった。

 ポールが用意したのはビジネスクラスチケットで、私たちは搭乗案内と共に、優先的にゲートへ通された。

 機内には各自独立したシートが用意され、隣り合わせであってもプライバシーが確保されている。

 私が着座するなり深くシートに背中を預けたせいもあり、私とポールに会話はなかった。

 お互いアイディアがあるわけではなく、これは難しい仕事だと二人で唸り合っても、時間の無駄というものだ。そうならば、何も考えずに気を休めるか、あるいは映画でも観て過ごした方が、よほど懸命だ。

 トンネルを通す件は意見が一致しているようだが、私はそれを使うつもりがなかった。誰もが思い付く事は、敵も考えるのが普通だからだ。

 つまり、私がトンネルを推奨したのは、フェイクとして、それを利用しようと思ったからである。あるいは、何か使い途があるかもしれないと思ったに過ぎない。

 フェイクであるがゆえ、私は敢えて、その事をポールへ言わなかったのだが、ポールが同じ考えを持っているかは分からなかった。

 いや、ポールの事だから、スナイパーライフルを頼んだ時点で、彼は私の考えを読んだのかもしれない。

 わんさか押し寄せる敵を次々なぎ倒し突進するのは、想像の中では簡単だが、実際には上手くいかない。大量の敵に囲まれてしまえば、不死身の身体でも手に入れない限り突破は不可能だ。つまり、そういった状況で成功する可能性は、ゼロである。

 それはポールも、充分承知しているはずだ。

 絶対に避けなければならないのは、そういう状況に陥る事である。

 しかし、大勢の敵に囲まれても助かる方法がある。相手にとって、絶対に殺されてはならない人間を、人質に取ることである。あるいは魔法のように、一瞬でこちらの姿を消す事だ。

 実は私は、漠然と、そんな作戦を考えていた。

 更に、こういった場合、敵に対してこちらが圧倒的に有利な点がある。それはどう攻めるかを、こちらで決める事ができる事だ。

 敵は相手の攻め方を想像し、想定の上に防御策を積み上げる。しかし相手がどう攻めてくるのか、決定的な事は最後まで分からないのだ。そこに迷いや隙が生じ、それがこちらへ有利に働く。

 つまり敵は、こちらがトンネルを掘る事も想定し、何らかの策を講じる可能性が高い。正面突破には、物量で対応できる。空から襲来は、監視塔に上空監視専用人員を数人配置すればよい。

 それらを全て崩す作戦として、何があるかがポイントになる。

 マニラへ到着したら、現地の詳しい事情を確認した上で作戦を考えなければならないが、私にはまだ、現場のイメージが湧かなかった。

 しかし私は、大胆な案を一つだけ持っていた。一旦思い付いたら、それが脳みそにこびりついたように、私はその案に執着していた。


 飛行機は全く揺れることなく、安定した飛行を継続し、定刻通り炎天下のアキノ国際空港へと着陸した。警戒と緊張の混ざり合う、敵地へ乗り込む心境だった。

 私は日本人として、ポールは中国人として、フィリピンへ再び入国した。勿論二人は、ポールの用意した偽パスポートを使い、偽名での入国である。

 イミグレーションでの入国審査は、まるで疑われることなく、難なく通過した。

 私たちは遠く離れたイミグレーションブースを別々に通過し、五分ほど他人を装い歩き続け、空港ビルを出てから合流した。そして直ぐに、定額前払いの空港タクシーを頼んだ。

 タクシーは、空港周辺の広い車道をゆったり走ったが、五分もしないうちに大通りを外れる。

 渋滞を避けるためだろう。地元の人間しか知らないような、ややマニアックな道に入ると、道端に個人商店が並び、道行く人たちの身なりはお世辞にも立派とは言えないものになった。

 小路ではトライシケルが幅を利かせ、パジャックや野良犬がその中でうろうろしている。すすけた顔の子どもたちも、大勢路上に出ていた。車の流れはスムースだが、速度を上げるのはままならない。様々な障害物を避けながら、左右に振れて進行しなければならないからだ。

 ごみごみとしたエリアを抜け、やや広い道路へ出てからも、周囲の景色は本質的に変わらなかった。途中で幅五メートルほどの川を渡る橋に差し掛かった際、川沿いに並ぶみすぼらしい掘っ立て小屋が、重なり合うように並んでいるのが見えた。まさに、貧富の交錯を象徴している。

 人の姿は一切見えなかったが、あの傾いた今にも崩れそうな家の中で、誰もが強い日差しを避けているのだろう。まるで周囲から隔離されたエリアのように、川沿いの集落は周りから浮いていた。

 かつて私が住んでいた場所も褒められたものではなかったが、車窓から見えたそれは、かつての住処があった場所より遥かに淀んでいる。

 暫く走ると、立派な国道に出た。それまでより交通量は圧倒的に多く、車は流れに乗って速度を上げる。

 今度の景色は、殺伐としていた。随分乾いた街だ。

 左手には、海を埋め立て開発したと思われる草の生えた広い敷地と、思い付きで建設したようなビルディングが、ぽつりぽつりと建っている。敷地の先に、黒くて狭い海が見えた。

 右手の内陸側には、病院らしきものや、生命保険会社のようなビルや、ホテルが並んでいた。更に進むと、低層のレストランやバーがあり、その奥に背の高いマンションが連なっているのが見える。

 その景色とポールを重ね合わせると、彼が最初からその街に溶け込んでいるように見えるのが不思議だった。

 更に五分も走ると、車は左折し、細々こまごまと走るうちに、木々に囲まれたホテルが眼の前に現れた。

 ポールが、しばらく世話になるホテルだと言う。

 ポールの予約したホテルは、マニラ湾に近い、リゾートホテルを思わせる、規模の大きな落ち着いたホテルだった。

 ポールがカードで二部屋分のデポジットを払う。つまりチェックアウト時にも、彼が支払うという事だ。フィリピンを、無事に去る事ができる状況にあれば、であるが。

 人生最後の寝床になるかもしれないのだから、陰気臭いホテルでない事に、私は感謝すべきだろう。いや、これは、最初からそれを見越した配慮なのか。

 そんな事を考えながら、ふと、生きて帰ってという、グレースの言葉を思い出す。

 私の脳裏に、再び例の作戦が浮かんだ。

 果たしてそれが、生きて帰るための作戦になるのだろうか。むしろ、墓穴を掘る事にならないか。

 そろそろ決心しなければならない。

 方向性が定まらなければ、いくら作戦会議を重ねたところで、焦点のぼけた、意味のない青写真を作るだけとなる。

 私はポールへ言った。

「今日は部屋で一人にさせてくれ。頼んだ物の手配を頼む」

 彼は驚かず嘆く事もせず、私の考えを読んでいるように淡々と言った。

「気が済んだら、声を掛けて下さい。それまでこっちも、資料をまとめておきますよ」

「悪いが、頼む」

 それだけの言葉を交わし、二人はそれぞれの部屋へと散った。

 暫くして、下で預けた自分の荷物が届く。私はDon't disturb のスイッチを入れ、靴を脱いでベッドの上に仰向けになった。

 大型のシーリングファンが、これで風を送れるのかというくらい、ゆっくり回っている。

 ベッドの足元に、籐で編み込んだ、屏風のようなものが置かれていた。何のための目隠しだろう。

 空調が、よく効いている。外は酷い熱気に包まれているはずだが、それとかけ離れた室内はまさに楽園だ。自分が乾いた街にいるという事実が、どうにも信じ難かった。

 この街で過ごすなら、がらがらと音を立てながら動く窓はめ込み式エアコンの横で、薄っぺらなベッドに寝転ぶくらいが丁度良いのではないかという気がする。この静かで豪華な部屋は、私にとって、不思議と座りが悪い。

 ふと思い付いて、ミニバーを確認してみた。思った通り、コーヒードリップマシンが置かれている。隣のかごの中身を見ると、数種類の紅茶や緑茶、インスタントコーヒーに混ざり、真空パックの既に挽かれたブルードコーヒーが提供されていた。このクラスの部屋なら、それくらいあっても不思議ではない。

 私はマシンにミネラルウォーターを注ぎ、ドリップペーパーの端を丁寧に折り、コーヒーの粉をマシンにセットした。

 スイッチを入れコーヒーが作られる間、私はレイチェルの事を想い、グレースの言葉を思い出した。

 やはりここは、戦闘前には相応しくない場所だ。雑念を追い払う事ができない。今一つ、神経を研ぎ澄ます事ができないのだ。

 淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、ビジネスデスクの上に置いた。バッグからラップトップを取り出し、コーヒーカップの隣へ置く。

 準備が整った。私はラップトップを開け、いよいよ調べ物に取り掛かった。

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