第19話 ホテル脱出

 彼女らへ部屋から一歩も出るなと言い含め、私はメールを確認するため、一旦自分の部屋へと戻った。

 私はグレースに、ルームサービスを取るな、私以外の人間にはドアを開けるなと厳命した。そして誰かが来たら、ドアには近付かず、ドアスコープで廊下側を覗くなと注意を与えた。

 特別なドアノックを決め、お互いノックだけで相手が誰かを分かるようにした。そして声の確認をしてから、ドアを開けることにする。

 これだけ事態が深刻化すると、今度は自分の部屋へ戻るにも緊張を誘った。留守の間に、得体のしれないやからが部屋へ忍び込んでいるかもしれないのだ。

 僅かにドアを開け、身体を半分廊下に残したまま、部屋の空気を観察する。

 異臭も異音もない。

 中へ入りドアを閉めると、静けさが一層濃くなる。

 デスクの上に置いたラップトップの画面を覗き込むと、新しいメールはなかった。

 フランスは、まだ早朝の五時だ。返信を期待する方が間違っているのは分かるが、こんな状況ではつい期待してしまう。

 いっそ電話で叩き起こそうかとも思ったが、最初から機嫌を損ねられても困るので止めた。

 ルームサービスメニューを手に取り、電話でサーロインステーキとカルボナーラにクラブハウスサンド、コーヒー、紅茶、オレンジジュースを注文する。

 私の食事ではない。お嬢様方の分だ。

 彼女たちが全部平らげるなら、私はランチを抜くつもりで、目にとまった物を適当に選んだ。グレースとジェシカは、おそらく腹を空かしているだろう。

 さり気なく窓の外を眺めてみた。ホテル近辺の道路に、特段変わった様子は見られない。至って平和だ。

 しかし身動きが取れない。

 じりじりと危険が迫っている予感に、私は苛立ちを覚えた。どうしても、誰かの協力が必要なのだ。

 それがアメリカになるのか、それともフランスや日本になるかは分からない。

 在フィリピンの他国軍であっても、一旦基地を出てしまえば地位協定の恩恵を受けられない。どちらにしても、隠密行動を余儀なくされる。

 そういった任務は、通常国家諜報部の範疇だ。万が一、他国での違法活動を摘発されたら、トカゲの尻尾切りをするのが前提だからだ。軍のような公の機関に、それは難しい。

 それでも軍が作戦を実行する場合、担当する人間を表向き軍籍から抜くか、あるいは全くの他人に成りすます。

 かつて私が担当した特殊任務は、そういった条件下で実行された。あくまで、国交のある国の中で活動する場合だ。

 私は既に、フィリピン国内で、いくつかの違法行為を犯している。

 エリック邸への不法侵入、窓枠を壊す器物損壊、爆薬類の違法取り扱い、そして届け出のない銃刀所持だ。テロ防止法を適用されても文句は言えない。

 日本を含む海外機関が犯罪者の私をかくまった場合、フィリピン政府がその気になれば、堂々と私の引き渡し要求を行う事ができる。

 つまり私は、微妙な立場に立たされているわけだ。

 もっとも、要求を受けた側が必ずそれに従うとは限らないのだが。

 ふと私は、今朝藪の中へ隠した銃や機材の事を思い出した。隠したバックの中に、三丁の銃が入っている。もしそれを回収できない場合、残りの手持ち銃は七丁だ。二丁はグレースが持ち、三丁は車のトランク、そして二丁を自分が持っている。

 他に携帯とヘッドセット、暗視スコープやGPSチップ等が、藪の中だ。

 次に作戦行動を起こす場合、それらがないことは、ちょっとした制約になるかもしれない。

 携帯くらいは、補充しておくべきだろうか。そんな事をぼんやり考えていると、不意にドアをノックする音が響いた。

 ルームサービスの料理が届いたとすれば、ここのサービスは超一流と言って良い。

 私は二丁の拳銃を腰に差し、テーブルからルームサービスメニューを拾い、足音を殺してドアへ近づいた。

 ドアの前からは、身体をずらしている。

「誰だ」

「ルームサービスでございます」

 私はドアスコープの前に、メニューをかざす。

 次の瞬間、プシュっという鋭い音にスコープが砕け、かざしたメニューに風穴が開いた。

 廊下側から、サイレンサーの付いた拳銃の引き金が引かれたようだ。敵は私が、ドアスコープから廊下側を確認したと思ったのだ。

 それをきっかけに、ドアの数カ所にも穴が開く。いずれも激しい銃声はない。

 弾がドアを突き破るということは、口径の大きな銃だ。つまり敵は、相手を殺すつもりの銃を持っているということだ。捕らえる事が目的ならば、二十二口径程度の方が都合は良い。

 こちらは殺られた振りをして、物音を出さず、ドアの横へ張り付いた。

 壊れたドアスコープの穴から、細いシルバーの金属棒が顔を覗かせ、私はぎょっとする。監視スコープだ。

 そんな物を使うのは、軍隊かSWATのような警察特殊部隊だけのはずだ。

 先端のカメラレンズに、私はそのとき噛んでいたチューイングガムをそっと貼り付けてやった。

 敵は真っ暗なモニター画面を不思議がり、色々と調整しているのだろう。金属棒の先端が、まるで芋虫のようにくねくねと曲がり、部屋の様子を探ろうとしている。

 その隙に、私はデスクの上に置いたラップトップやセーフティボックスに入れたパスポートと財布を、無造作にナップサックへ放り込んだ。

 廊下の連中は我慢できなくなり、ドアを無理やりこじ開け始めた。機材を使い、ドアを激しく突き出したのだ。

 突かれる度に部屋の中に衝撃音が響き、ドアが軋む。

 私は窓を開けた。

 そして椅子を移動させ、部屋の空調用換気口カバーを開ける。

 椅子を元へ戻し、換気口のカバーへテグスを括り付けた。

 後は飛び跳ね換気口の縁へぶら下がり、逆上がりの要領で換気ダクトの中へ足から身体を入れ込む。最後はテグスでカバーを引っ張り上げ、内側からそれをはめ込んだ。

 これで敵は、自分が換気口へ逃げ込んだとは思わず、窓からどうにかして逃げたと思うだろう。

 全てが終わっても、ドアはまだこじ開けられていなかった。

 部屋へ繋がるダクト部分は、人一人がようやく入り込めるサイズだが、本管はよつん這いになれるほどの大きさとなる。

 私はゆっくり後退し、本管を伝い、グレースと一緒に使った部屋とは反対側の、エレベーターに近い七つ先の部屋へと移動した。


 換気口から現れた私に、グレースとジェシカは流石に驚いたようだ。

「どうしたの? 佐倉さん」

「敵が本格的に攻めてきたんでね」

 二人の顔に緊張が走る。

 その部屋は、急遽日本パスポート名で取った、新しい部屋だった。敵が忍び寄る予感に、二人をそこへ移しておいた。我ながら鋭い読みだったと思うが、本名を使った私も、いよいよ追い詰められているということだ。

 おそらく敵は、少し前まで使っていた姉妹二人の部屋も、ドアをこじ開けたに違いない。

 居場所が知られてしまったのは、網を張ったインターネット検閲で、私がフランスへ宛てたメールが引っかかった可能性がある。その中で私は、ダークブルーの話題やフィリピン軍の件に触れた。

 その推測が正しければ、フィリピン軍もあなどれないということだ。

 そこでフランス人宿泊者の私が疑われたら、間違いなく調べられるだろう。

 軍隊出身であるフランス国籍の人間がホテルの部屋を二部屋取っていれば、これはかなり怪しい。

 ホテルの中で発泡し、更にドアを壊したのは、公式な捜査権に基づいてのことだろうか。通常の軍は、一般人に対する捜査権を持たない。

 もう少し、攻め込んできた相手を確認すべきだったかもしれない。

 小さな後悔が頭をかすめるが、だからといって前の部屋へ確認しに戻るのは嫌だった。

「この快適な部屋とも、そろそろおさらばしないとな」

 二人とも無言だった。

 無理もない。居場所を突き止められ、しかも私たちは、まだホテルの中にいるのだから。

 この危機に、グレースが辛うじて声を出す。

「佐倉さん、何か当てはあるの?」

 私が彼女を向くと、二人もじっと私を見返した。

 彼女たちを少しでも安心させる言葉を考えたが、残念ながらノーアイディアだった。

「全くないね。お手上げ状態だ。メールも電話も危険とくれば、これはもう、陸の孤島で敵に囲まれているようなものだ。ニ〜三日、換気口にでも隠れてしまうかだな」

 自分でそう言ってから、逃げ道はそれしかないように思えてきた。

 おそらく廊下には、ドアを壊した部屋の前に、銃を持つ誰かが立っているだろう。

 再びルームサービスを頼み、従業員を金で抱き込みワゴンで運んでもらう手もあるが、大人三人が同時にとはいかない。

 しかもルームサービスは、基本的に危険だ。

 動くなら、早い方がいい。いつ、このフロア客全員の一斉移動指示が出るかも分からない。

「これから、ホテルの外へ脱出するぞ」

 唐突に放った私の言葉に、二人の姉妹は怯え切った表情を作る。

「脱出って、どうやって……」

 私はグレースの心細そうな問いに答えた。

「換気口を伝い、どうにかエレベーターの塔内へ出る」

「そんな……。非常階段とか使えないの?」

「無理だ。ここの非常階段に、換気口は繋がっていない。ホテルへ入った日に確認済みだ」

 こうしたケースでホテルへ宿泊する場合、私は必ず、非常階段の場所や様子を確認する。

 通常の建物は、非常用階段に換気用ダクトはない。ただし、エレベーターの塔内には、通気用のダクトがある。これは、空調ダクトとは異なるのが普通だ。

 そもそも換気と空調のダクトは違う。それらは繋がっていない。つまりどこかで、電車の路線を換えるようにダクトを乗り換えなければならない。

 普段から私は、換気や空調用ダクトがどんな配置でどのように繋がっているのか、そんなことを見える部分から推測する。それはもちろん、いざという場合の逃げ道を確保するためだ。スペシャルフォースの特殊任務でつちかった、習性のようなものだった。

 いざダクトへ入ろうとした時だ。窓を通し、閃光が目に飛び込んだ。それでカーテンを閉め忘れていた事に気付く。

 光は、隣のビルの廊下から発せられていた。よく見ると、ジェイソンがミラーで、太陽光を反射させている。

 私が彼に向かって手を上げると、ジェイソンはミラーの前に手をかざしたりそれをどけて、光を点滅させた。それがモールス信号であることに、私は直ぐに気付いた。

 モールス信号は、『窓を開けろ』と告げている。続いて、『ワイヤーを撃ち込む』と言った。

 言われるがまま、私は窓を開ける。

 ホテルと隣のビルの間は、小さな路地になっている。下を覗くと、先程と同じで誰もいなかった。

 モールス信号は、『上の階に移動する。窓から離れろ』と言った。

「二人共、部屋の隅に行ってくれ。外からロープが撃ち込まれる」

 ジェイソンが、姿を消した。その二分後、彼は二階上に姿を現す。そして直ぐに、索発射銃を構えた。

 索発射銃は、救助用ロープ等を飛ばす銃だ。

 直ぐに先頭のおもりが、ワイヤーを引っ張り飛んでくる。

 音がしなかったところをみると、空圧式のようだ。火薬式に比べれば飛距離は劣るが、八十メートルは飛ばせる。

 おもりは窓を通り抜け、見事部屋の中へ着地した。

 私がそれをベッドの足に括り付けると、ジェイソンは滑車で、こちら側へナップサックを送り込んだ。

 ナップサックの中には、無線機が一個と、三人分のスワミベルトや金具が入っている。それらを取り出すと、バッグの中はがらんどうになった。

 無線機の電源を入れて、ジェイソンを呼ぶ。直ぐに応答があった。

『どうやら無事のようだな。間に合って良かったよ』

「よく俺たちのピンチが分かったな」

『ホテルのドアボーイに金を渡していたんだ。物騒な事があれば連絡して欲しいと頼んでな。フィリピン軍の小隊が、突撃したらしいじゃないか』

「奴らの正体を確かめる余裕はなかったが、攻め込まれた事は確かだ」

『これからワイヤーを伝って、こっちのビルに来い。そっちは出入り口を完全に固められている。ちょっと待ってくれ、これからワイヤーの位置を下げる』

 窓からあちら側を見ると、ジェイソンがワイヤーを、ロープで下の階へ下げている。

『俺はこれから下へ行く。ロープを固定したら、一人ずつこっちへ移動してくれ』

 私は二人にスワミベルトを放り投げて言った。

「ベルトを体に付けろ。ロックをしっかり確認するんだ。これからワイヤーを伝って、隣のビルへ逃げるぞ」

 向こう側でワイヤーが固定され、それがピンと張った。

 地上からの高さは約二十メートル、向こうのビルディングまでの距離は、十メートルもない。

 傾斜が付いているから、移動は簡単だ。

 最初にジェシカを行かせ、次はグレース。

 二人共怖がることなく、金具を淀みなく滑らせ、隣のビルディングへ吸い込まれるように着地した。最後に私が移動を終えて、四人でその場を撤収する。

 ロープも回収しておきたかったが、無人となった部屋で、ベッドに固定したロープを解く事はできない。

 私は少し考え、ホテルへ戻る事にした。

 敵はまだ、私の名前や顔を知らない。しかし、脱出の痕跡を残したままでは、いずれ私の名前が割れてしまう。

 今のうちに部屋を片付け、素知らぬ振りでチェックアウトを済ませて車を回収すれば、まだまだ私自身は普通の日本人観光客でいられるのだ。

 グレースは、信じられないといった顔を作ったが、ジェイソンはその方がいいだろうと賛成した。

 街には軍のメンバーがあちらこちらへ控えているが、検問まではやっていないようだ。

 ならばお嬢様方には、ちょっと窮屈だが、ジェイソンの家までトランクの中に隠れてもらえばどうにかなるだろう。

 そして私が合流してから、その先の事を考えればいい。

 ジェイソンは、車を地下駐車場に停めていた。

 グレースとジェシカがトランクへ潜り込むのを見届け、私は徒歩でホテルへ戻る。


 ホテルの前に、フィリピンアーミーの連中が五人立っている。全員がM16アサルトライフルを肩に掛けていた。

 元々ホテルのセキュリティに、シェパードを連れて迷彩服を着る人間を見かけるフィリピンであるから、特別な物々しさを感じるわけではないが、私にしてみればこの様子は普通ではない。

 ジェイソンが言った通り、ホテルの出入り口は、全てこの調子で固められているのだろう。

 私は素知らぬ顔でエレベーターに乗り込み、グレースとジェシカを移した部屋へ向かった。

 案の定、私がいた部屋と隣の部屋の前に、迷彩服の軍人が立っているが見える。

 私は部屋へ入った。

 全員が避難してから、向こうのビルディングからロープの端を部屋へ撃ち込んでいたから、私はロープをベッドの足から外し、それを換気口の中へ隠した。

 窓を閉め、部屋を点検した後、身体一つでフロントへ戻る。

 やはり一人だと身軽だった。何かがあっても、どうにかなるという安心感がある。

 チェックアウトの際、同じ階で何やら物騒な事が起こっているから、別のホテルへ移ると告げた。

 直ぐに別の階へ部屋を用意すると言われたが、それを丁重に断り地下駐車場へと急ぐ。

 車の中へ隠していた武器は、全てシートの下へ移した。

 予想通りホテルの駐車場を出る時に、アーミーによって車を止められ、トランクの中を確認される。

 ホテルから外へ出る人間は徹底的にチェックしているわけだが、窓から隣のビルへ移動する事には、彼らも考えが及ばなかったのだろう。

 彼らはきっと、フランス人の軍人上がりと美女二人が、まだホテルのどこかへ隠れていると信じているに違いない。

 そう思っているうちは、東洋人の私に対するチェックが甘くなる。そして街中の警戒に隙ができやすいから、こちらとしても助かるということだ。

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