第7話 路上生活
翌日、早速モールで二人分の安い携帯とシムを用意した。携帯は小さなディスプレイの付いた、通話機能主体の二昔前のものだ。
グレースは、あまりに陳腐な携帯に文句を言った。
「佐倉さん、今どきこんな携帯を使うのは恥ずかしいよ」
「連絡用だから文句を言うな。こんなものでも、あって良かったと思う場合があるんだ。これが嫌なら、調査は俺一人でやる」
その言葉で、グレースは安っぽい、いや、実際に安い携帯を渋々承知する。
最近のスマートフォンは、勝手に色々な事をやってくれるから、情報を隠したい時には厄介なのだ。本人の知らないところで、様々な情報が携帯上にアップデートされてしまうし、その逆もある。
つまり今回は、何もできない携帯の方がおあつらえ向きだった。万が一に備えGPSチップだけは、昨晩彼女の靴底へ仕込んでおいた。
午後は、フランス部隊で一緒だったジェイソンというフィリピン人と落ち合い、拳銃調達のため一緒にダナオへ行く事になっている。
ジェイソンは十年前に警察を退官した私を、フィリピンへ招いてくれた親友だ。彼はあの事件後、私の立ち直るきっかけを作ってくれた恩人でもある。当時の私は、彼の手引きでフィリピンへ住み着いた。
その日私は、ジェイソンと十年ぶりの再会を果たした。
彼はフィリピン人としては背が高く、一八〇センチの上背を持つ。身体も引き締まっているため、街中ではただ立っているだけで、結構目立つ。
ジェイソンと私は、フランス外人部隊の同期入隊組だった。そして彼は、五年の契約満了と同時にフィリピンへ戻り、私はスペシャルフォースへと進んだ。
五年間、私たちはコルシカ島カルビ駐屯の第ニ外人落下傘連隊に所属した。落下傘連隊は外人部隊の花形であり、訓練やしごきが厳しい事でも知られている。
空挺コマンド小隊と呼ばれるコマンド特殊部隊に配属された私たちは、二人共に狙撃兵としての任務を担った。
海外派兵も多く、中東紛争地域や南アメリカ、アフリカ諸国へ派遣され、緊張の中で眠れない日々を一緒に過ごした仲である。
十年前に会って以来、私たちはその後一度も会う事がなかった。
その間、ジェイソンは小さなコーヒーショップを営み、私は東京に探偵事務所を開いた。お互い元手は、軍役時代に稼いだ金だ。
フランス軍では海外派遣の多い部隊へ所属したため、手当てが多い割にその金を使う暇がなく、支払われた給与は貯まる一方だった。退役後、私たちの手元には、何かを始めるための充分な資金が残った。
私はジェイソンに、予め日本から問題の概要を伝えていた。モールに入るイタリアンレストランで、私たちは積もる話を横に置き、早速詳しい現状を話し合おうとした。
彼は事前に、情報を取ってくれたようだ。彼は開口一番、深刻な顔で意外な事を言い出した。
「なあ佐倉、今回は手を引いた方がいい。妹の件は分からんが、最近殺されたという探偵は、エリックのところに殺られている。上層部がガタガタ騒いでいるところをみると、おそらくこの件は単純じゃない。しかもエリックは、まだお前の事を根に持っている。おそらく本気で潰しにくるぞ」
彼はそれを、フランス語で伝えた。
外人部隊にいたお陰で、私たちは意味の通じるフランス語を使える。彼がフランス語を使ったのは、それをグレースに聞かせてもよいか判断できなかったからだ。
エリックというのは、私が十年前に関わった、マフィアのボスだった。
偶然私が彼の息子の命を救った事で縁が生じ、ある誤解が元で彼と対立し、そのままになっている。
「ねえ、今、何を話した?」
グレースに分からない言葉で話したのだから、彼女がその内容を気にするのは当然だった。
私は言葉を英語に切り替え、彼女に隠し事はなしだとジェイソンに断った上で、彼の言った内容をグレースに伝えた。
「この件は、エリックという男が関わっているかもしれない」
「エリックって誰?」
「セブで一番大きなマフィア組織の親玉だ。相手が悪過ぎるから、ジェイソンは手を引けと言っている」
その話にグレースは、動揺と困惑の反応を示す。
「妹の失踪に、なぜマフィアが関わるの?」
「理由は俺にも分からない。しかし、調査を依頼したフィリピン人が殺されている。その時点で、アンダーグラウンドが関わっている可能性は予想できた。それが
グレースは無言でこちらをじっと見た。目が怯えている。十秒もそうしただろうか。彼女は絞り出すように声を出した。
「それで、あなたはどうするの?」
「依頼主が、依頼をキャンセルすれば終わり、続行と言えば続ける。全ては依頼主次第だ」
その返答に、グレースの顔へ安堵の色が宿る。
彼女は、私が臆して、この件から手を引くと言い出すのが怖かったのだ。
「相手が誰でも、止める事はできない」
私はジェイソンに向いた。
「そういう事だ。銃の調達は、予定通り頼む。お前にお願いしたいのは、それとちょっとしたおもちゃの製作だ。それ以上関わる必要はない」
ジェイソンは顔を
「家族がいるんだ。済まない」
マフィアが絡むなら、セブで暮らす彼をこれ以上巻き込むわけにいかない。
「分かってる。こうして協力してくれる事に、充分感謝してるよ」
彼はもう一度、済まないと謝った。
私たちは食事を終えてから、三人でダナオへ出向いた。
ジェイソンの知り合いがやっている拳銃密造工房で、無事にコルトガバメント十丁を調達する。
私たちは狙撃兵をしていた関係で、銃には詳しかった。ジェイソンは、その腕をある密造工房に見込まれ、時々特注銃の性能確認やアドバイザーをしていたのだ。
噂に聞く密造現場を、私は初めて見た。
それはジャングルの中に、ひっそりと隠れるように存在していた。何も知らなければ、工房はただの炭焼小屋だと思うだろう。
それはダナオの町外れから、ジャングルをかき分けて進む獣道を登った山の中腹にあるのだが、山へ入る道が分からない上、道が分かってさえジャングルという隠れ蓑のお陰で、工房は簡単に見つからない。
工房内部は前近代的で、金属の削りカスや粉が散らばる中に、古めかしい手作業の旋盤やドリルマシンが置かれている。
小さな作業台の上には、数種類のヤスリや作り掛けの拳銃が、乱雑に放り出されていた。
工房主とジェイソンは、長い付き合いがあるようだ。ジェイソンの関わりが、工房からエリックへ漏れる心配はないようだ。
誰もが口を閉ざせば、拳銃がどの工房から出たものか分からないだろう。集落が丸ごと密造工房という場所もあるらしく、一体いくつの銃密造工房があるのかも分からないのだ。
フィリピンに出回る不正な銃は、二百万丁を超えると言われている。一方、一つの工房で作られる手作り銃は一日四〜五丁が限度のようだから、工房の数もそれなりにないと計算が合わない。
私はジャングルの中で全ての銃を試し撃ちし、それぞれの癖をナンバリングと共にメモとして残した。
ジャングルの中で、グレースに銃の撃ち方も教えた。
この銃は口径が大きい割に反動が少なく、どうにか女性にも扱える。
二つの安全装置があり、それを知らないとこの銃は撃てない。特にグリップの付け根にある安全装置を押し込みながら引き金を引かないと、弾が飛び出さない仕組みになっている。
そして銃口のスライダーが後ろへ下がった状態は弾切れだ。その状態でいくら相手を威嚇しても、少し銃を知っている相手に効果はない。
実戦でどこまで使えるかは怪しいが、一度でも撃っておけば火事場のくそ力でどうにかなる。それが銃というものだ。
同じ工房で、頼んでいたアーミーナイフも十本調達できた。
ホテルの入口は金属探知機によるセキュリティーチェックがあるため、レンタカーを一台借り、全ての武器を密封し車のトランクへ押し込んだ。密封は、犬の嗅覚による火薬類の摘発を逃れるためである。
わざわざレンタカーを借りたのは、地下駐車場からホテル内へ入る際のセキュリティーが緩いためだった。武器の一部は、そうして部屋へ持ち込んだ。
銃とナイフの一組は、ビニール袋に包みバスルーム天井の換気口へ忍ばせ、もう一組はベッドの下へ貼り付けた。
こうして武器を拡散させる事で、万が一寝込みを襲われても対応できる確率が増す。これも用心のためだ。こちらの動きが相手に察知されれば、向こうも何かを仕掛けてくる可能性がある。
グレースはそうした私の準備に、一々驚き感心した。
夜になると、部屋は本当に静まり返った。廊下を人が歩く気配も、全く消されてしまう。
高級ホテルであるがゆえ、そうした遮音性は見事なほど維持されている。まるで無人のホテルへ泊まっているようだった。
グレースは慣れない行動で疲れたのか、隣のベッドで眠っている。
私は頭の中で、翌日からの行動を考えていた。
翌日からいよいよ調査を始めるが、警察のような聞き込みはやらない。そんな事を無造作にやってしまえば、相手にこちらの存在を気付かれる。
よって、隠れて張り込みをしながら、ヒントになる情報を収集する。彼らの良く使う事務所や隠れ家のようなものも把握しておきたい。そこでもレンタカーが役に立つ。
情報が上手く集まらなければ、陽動作戦、あるいは奇襲や忍び込みなども考えなければならない。
幸い、早々にエリックの名前が上がっている。これは大きな収穫だった。最初から相手を絞り込める事は、調査期間を大きく短縮できたも同然だ。初動から、調査の第二ステップを踏む事ができる。
エリックの自宅は分かっている。この自宅が彼のアジトと兼用になっているはずだ。
それはセブの中心から外れた、ヒルトップへ向かう山道入口近くの、人目に付かない場所にある豪邸だった。
かつて自分が拉致された場所だから、忘れもしない。グレースの妹が監禁されているなら、この屋敷内の可能性が高い。
敷地の中の様子も、ある程度は分かっている。この屋敷には、地下の抜け道がある。これを逆に
色々考えているところへ唐突に声が届き、私の思考が中断された。
「佐倉さん、まだ起きてるか?」
グレースのベッドを見ると、彼女は私に背を向けていた。
「どうした、眠れないのか?」
「眠れない。今日、マフィアの名前聞いたから、ジェシカが心配。あなたはどうして、そのマフィアを知ってる?」
私は直ぐに、答える事ができなかった。
自分の過去を、隠したかったわけではない。どのように説明すべきか、直ぐに考えがまとまらなかったのだ。
「あなた言った。私には隠しごとをしないって。私嬉しかった。だからもっと、知っておきたい」
エリックの名前が出ている以上、彼女は全てを知っておいた方がいいだろう。
「少し長くなるが、いいか?」
簡単な話ではなかった。私とエリックの関わりを説明するには、随分過去へ
彼女はこちらに向き直り、ベッドの上に横たわったまま言った。
「長くてもいい。どうせ眠れない」
吸い込まれてしまいそうな、彼女の漆黒の瞳が私を捉えている。私はやや緊張した。私は以前から、その瞳の中に彼女の知性を感じ、全てを見透かされているような危うさを覚えてしまうのだ。
「分かった。先ず私が、五歳の子供を死なせてしまったところから話そう。聞くのが嫌になったら言ってくれ」
私は、自分が吉野を追い詰め、彼の銃で子供が死んでしまった事から話し始めた。追い詰められた吉野が錯乱状態の中で、銃を暴発させた件だ。
彼女は身動き一つせず、私の話を聞いていた。
一通りの説明が終わると、彼女が言った。
「つまりあなたじゃなくて、その犯人が子供を殺したって事でしょ?」
「いや、俺が殺したのも同然だ。一人で無理をして、犯人を追い詰めたせいだからな。誰かのサポートがあれば、みすみす子供を取られる事はなかったはずだ」
グレースは、悲しそうに
「いいわ、続けて」
私はその事件後、直ちに警察を辞め、満身創痍でセブの地を踏んだ。
セブへ来たのは、ジェイソンの誘いでもあった。彼は、異国で傷を癒やしたらいいと言ってくれたのだ。
セブへ来てから、私は随分ぼんやりした。
夜はバーへ行き、翌日は昼まで寝ていた。午後は街をぶらつき、夜になればまたバーへ行く。その繰り返しだった。
正直、楽しかった。バーで騒いでいる間は、全てを忘れる事ができた。
お陰で、持参した金は直ぐに底をついた。毎日遊び歩けば、当然だ。
一度泥酔した時に、財布ごとカードを紛失していた。おそらく、抜き取られたのだろう。そのせいで、現金の補充もできない。
金がなくなると、その後はやる事がなくなり、私は腑抜け同然になった。
ジェイソンは、そんな俺に何一つ文句を言わず、ただ飯を食わしてくれた。しかし、彼の優しさが身にしみると、彼の庇護下でそんな無為な時間を過ごすのが辛くなってしまった。
だから私は、ジェイソンの家を出る事にしたのだ。
勿論ジェイソンは、気にするなと言ってくれた。しかし私は、彼の目を盗み、少々の現金をかすめて彼の家を出たのだ。
行く当てが、全くなかったわけではない。港近くの広い道に、ダンボールハウスの並ぶ、ホームレス街がある。車通りの多い広い道路に面し、道の向こう側に薄汚れた海の見える場所だ。
私は、そこに目星を付けていた。そんな所にも、ボスのような奴がいる。私はジェイソンからかすめた金で、そいつに酒や食料を届け、ホームレス街に居座った。つまりそこで、路上生活者になったのだ。
路上で、野垂れ死んでも構わなかった。むしろ、死んだ方がいいと考えていた。
ところが、そこでの生活は意外に悪くなかった。誰にも気を使う必要がなく、余計な事も考えずに済んだ。
意外だったのは、日本人が突然そんな場所で暮らし始めても、簡単に死なないという事だった。何となく、どうにかなってしまうのだ。生活の仕方は教えてもらえるし、飯も誰かが恵んでくれる。最初はもらった物を食えなかったが、悲しい事に腹が減れば、残飯でも手をつけてしまうようになる。
そこで私は、人間の生への執着が、随分根深い事を初めて知った。
そんな生活を続けているうち、次第に死ぬのが馬鹿らしくなってきた。よって三ヶ月後、私はもう少し内陸側の貧困街へ引っ越した。せめて水浴びくらいはできる暮らしをしようと思ったからだ。
新しい棲家は、繋がりのできた人間が紹介してくれた廃墟だった。私は紹介者に、再び酒や肉を買い、賄賂として進呈したのだ。
移り住んだ場所は、ダンボール街と随分様子が違った。
イリーガルビジネスに手を貸している住人が多く、中途半端な金を持っている者が多かった。
もっとも、金額はたかが知れている。際どい事をやらされている割に、日銭で数百円程度の稼ぎだ。
それでもその界隈は、酔っ払いやドラッグ中毒者が多かった。治安は前の場所より悪く感じたほどだ。
人間は、危険に
私は自分の身体が痩せ細っていくのを知りながら、精神が強靭になっていくのを自覚していた。
何か矛盾を感じる生活だった。死にたいのに死ねず、逆に自分はどんどんしぶとくなっていくのだから。
薄汚れた格好で、私はいつも界隈を徘徊した。人恋しさが半分、フィリピン人の珍しい言動に釣られてが半分だった。
着の身着のままで薄汚れていく自分に、フィリピン人の屈託のなさは変わらなかった。私がその界隈に住み着いている事が分かると、彼らはますます笑顔で挨拶を交わし、水や食べ物を分け与えてくれる。
不思議だった。自分たちも貧しい暮らしをしているのに、まるで家族のように他人の私を助けてくれる。有り難かったし嬉しかった。
かつて彼らは、バハラナと言っていつも笑っていた。
バハラナとは現地語で、どうにかなるさ、という意味だ。
その意味が分かると、バハラナと言っていつでも笑って生きるのは、軽薄な気もしたが、
要は人生、物事の捉え方一つで、随分様子が変わる事を証明しているようなものでもあった。
グレースは、私の回想に、相変わらずじっと耳を傾けている。
「俺は日本で暮らしていても、時々バハラナって心の中で唱えている」
グレースは嬉しそうに、ふふふと声を出して笑った。
「そうよ。そう思わないと、みんな心の痛みに耐えられなくて死んじゃうよ」
その通りかもしれない。バハラナという言葉とフィリピン人の明るさは、実際私の胸中に潜む黒くて大きな塊を、ゆっくり溶かしてくれたからだ。
私はいよいよ、エリックとの関わりについて語った。
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