第3話 覚悟の依頼

 フィリピン人が時間にルーズな傾向にある事を知っていた私は、もし彼女が約束の時間に一分でも遅れようものなら、即座にその場をあとにしようと決めていた。元々気が進まないのだから、些細な理由であれ、それにかこつけて逃げ出そうという算段だ。どのみち約束の時間も守れないなら、大切だと言った話の内容もたかが知れている。それで独りよがりなお願い事をされても困るのだ。

 もし彼女が遅刻となれば、私はその場から去り、彼女の店には金輪際行かないつもりでもあった。くつろげる店を、新しく開拓すればよいだけである。この時点で、私とグレースの関係とはこの程度のものであった。あくまでもパブのホステスと客という、ドライな間柄だ。

 しかし幸か不幸か、グレースは約束の時間である六時五分前に、品川駅中央改札前に現れた。

 彼女はジーンズに白いTシャツという出で立ちだった。均整の取れたスタイルは、何気ない普段着の恰好でも周りの目を引くほど目立っている。だから彼女が改札をくぐり抜けると、私は瞬時に彼女の到来に気付いた。化粧が薄くても、いつもの美しさは相変わらずだ。

 グレースは先に到着していた私をトライアングルクロック脇に見つけ、混雑する人並みを避けながら小走りで駆け寄ってきた。

「今日は突然、済みませんでした」

 彼女は両手を前で合わせ、丁寧なお辞儀をする。その辺の日本人より礼儀正しい。普段は店ではざっくばらんに話しをするが、わきまえるべきところは分かっているようだ。今日は相談事を事務的に話し合うのだという雰囲気が、私を安心させてくれる。

 とうに帰宅ラッシュは始まっている。グレースに一瞬目を奪われるサラリーマンが、足取りを緩める事なく次々改札の奥へと吸い込まれていく。まるで巨大な集塵機が、散らばるゴミを効率よく吸い込んでいるようだ。

 笑顔のない他人行儀なグレースへ、私は言った。

「話は食事をしながら聞くよ。ご馳走するから、何かリクエストがあれば食べたい物を言ってくれ」

 彼女は口元を引き締め、困惑の表情を向ける。私がグレースの顔を黙って覗き込むと、彼女は神妙に言った。

「今日の話は、楽しい食事には似合わないの」

 さて、お願い事とは金の無心だろうか、それとも、もっと複雑な何かだろうか。まさか恋の相談ではあるまいし、ましてや私に対する告白などあり得ない。思わず思考を巡らしてしまうほど、彼女の態度はいつもと違う。

「深刻な話なら、尚更腹は満たした方がいい。落ち着いて話のできる場所にする」

 私は彼女に有無を言わさず、半ば強引に、個室の利用できる駅からほど近い和食レストランを食事場所に決めた。

 グレースは無言で頷くと、先を歩く私に静静と付いてくる。

 まだ昼の蒸し暑さが残っていた。無機質なビルディングが乱立する周辺は、半袖シャツ姿のサラリーマンが多い。これから冷たい生ビールでもと思っている人もいるだろう。こんな美人を連れ立って歩いている私も、幾分浮足立ってしまう。


 レストランで私たちに用意されたのは、テーブル席の個室だった。畳に慣れない彼女にとっては、その方が落ち着くだろう。しっかりと仕切られた部屋に彼女は、じっくり話し合える環境を確認し安心したようだ。

 私の選んだレストランは、値段は安くないが気の利いたコースを揃えている。私はこれも勝手に、七千円の和牛コースを二つ頼み、ビールとソフトドリンクを持ってきてくれるよう中居へ言った。店の方へ顔を出せば、それに近い金額を徴収されるのだから、美味い料理が食える事を考えれば高過ぎるわけではない。

 中居が去ると、個室に少し気不味い雰囲気が漂う。相談事はせめてドリンクが届いてから始めたかったが、それまで気軽な雑談でお茶を濁すには、グレースの様子が重過ぎた。彼女は再び思いつめた表情を顔へ張り付かせ、俯き加減で口を結んでいる。

 私はこんな席を設けた事に、後悔し始めていた。やはり店の喧騒の中で、気軽に彼女の話を聞くべきだったのかもしれない。

 私は、その場の空気の重さに堪まらず言った。

「あなたの話は、料理が揃って、落ち着いてからでいいよね」

 彼女は、私が気疲れしている事に気付いたのかもしれない。

「きっと私、佐倉さんに迷惑掛けているよね。本当にごめんなさい」

 私は無言で首を左右に振った。相手へ迷惑を掛けている事に気付かないフィリピーナもそれなりにいる中、それを自覚して貰えるだけでも有り難い。それがなければ、この疲れは度を深めるばかりとなる。それまでフィリピン人相手に、何度も体験してきた事だ。

 私はますます凍りつく場の空気に、何かを諦めるように肩の力を抜いた。どうやら相手の雰囲気に飲み込まれ、いつの間にか自分の方も気負い過ぎている。相手が南国美女であることが、少なからず影響しているのかもしれない。

 改めて彼女の顔を見る。グレースはしおらしく、俯き加減でかしこまっている。私の言いつけを守り、料理が出揃うのを待っているのだ。そんな様子は、健気でもあった。

 レストランは空いていた。近隣の部屋には、人の気配が全くない。静かな場所を望んでいたのは確かだが、それにしても静か過ぎた。

 和食の店に似合わず、ピアノ曲が静かに流れている。そんな和洋折衷が、意外なほど店の雰囲気に溶け込んでいた。部屋の空気がまとわりつき、この先の話が上手く進むか心配になる。

 ようやくテーブルに、ドリンクと小鉢が届いた。乾杯のタイミングで、つい自分の方がしびれを切らす。

「料理がまだだけど、あなたの話を始めよう」

 彼女は顔を上げ、私に目を合わせた。彼女の眼光が鋭い刃物のように、私に突き刺さる。とても深刻な顔付きだ。彼女は一度つばを飲み込み、ゆっくりと口を開いた。

「私の妹がいなくなったの。だから私は、佐倉さんに妹を探して欲しいというお願いをしたかったの。もし彼女が誰かに捕まっているなら助けて欲しい」

 全く予期しない話に、もちろん私は意表を突かれた。

「妹?」

 私の確認の言葉に、彼女はコクリと頷く。

 同時に私の中で、嫌な予感が走る。金の話ならば、事情と金額次第という事になる。この先の話も汲みやすい。しかし妹の事となれば、先がさっぱり読めない。

 私は少々戸惑いながら、彼女へ確認した。

「さて、その妹に何があったんだ?」

 本来私は、そんな質問をすべきではなかった。妹を探し、場合によっては助けるなどと、極めてプライベートで厄介なお願いは、受けるべきではないというのが自分の基本スタンスなのだ。

 しかしグレースの真剣な様子に、私はもう少し彼女に付き合うふりをしても良いだろうと思ってしまった。こうなると、引き際の判断が難しいが、それに気付いたときには遅かった。

「詳しい話は分からない。でも、ジェシカは突然いなくなった」

「妹はジェシカという名前なんだね? それで、どうして彼女がいなくなったのか、何か考えられる事はないのか?」

 グレースは言葉を詰まらせた。私にどう説明すべきか、迷っているようだった。

 そこへ中居が部屋のドアをノックし、テーブルへ前菜盛り合わせを運んだ。四角いお膳の中に、四つの小鉢が乗っている。

 サザエ料理やサラダ、小魚のフライが添えられた和え物などが、それぞれの小鉢に美しく盛られていた。彩りも鮮やかで、全体が芸術作品のようだった。

 私とグレースは一旦口をつぐみ、中居の動作を無言で見守る。中居が部屋を去ると、グレースはせっかくの美しい料理を無視して、話しを再開した。

「いなくなった理由は分からない。ただ、誰かに拐われたと思う。いなくなる前の日、私は彼女とテレビ電話で話した。彼女は元気だった。普通だったよ。でも彼女は、少しだけ変な事を言った。お金儲けの話があるって。私言った、危ない事はしないでって。でもジェシカはそのとき、はっきり返事しなかった。だから私分かる。多分それ、危ない話だと思う」

 穏やかではない。しかしそれだけの事なら、彼女の妹は自らの意思でどこかへ行ったのかもしれない。例えば男が絡んでいる可能性がある。一途なフィリピーナは、男に惚れてしまえば何でもありだろう。

「いなくなって、どれくらい経つ?」

「ニ週間」

「警察へは連絡したのか?」

「したよ。でもフィリピンの警察、真面目にやらない」

 私はここで、自分の耳を疑った。

「フィリピン? おいおい、ちょっと待ってくれ。フィリピンでいなくなった妹を探して、場合によっては助けて欲しいという話なのか?」

 彼女は私から目を逸らす事なく、明確に頷いた。

「それは無理があるだろう。こっちにも仕事があるし、フィリピンに行くとなれば金だって余計にかかる。大体、日本人がフィリピンで人探しするより、フィリピン人のプロフェッショナルに頼んだ方がいいじゃないか」

 彼女は、再びつばを飲み込んだ。

「フィリピン人のプロフェッショナルに頼んだ。でも、一昨日、死体で発見された。多分殺されたよ。佐倉さんにはお金払う。私、そのお金も持ってきた」

 彼女は自分のハンドバッグから白い封筒を取り出し、それを私の目の前に置いた。私は、テーブルの上に置かれた封筒に触れず、無言でそれを一瞥した。

 これはもはや、金の問題ではない。既に頼んだプロが現地で殺されているなら、妹の件にはおそらく危ない筋が絡んでいる。数万円で殺しの依頼を引き受ける人間が、履いて捨てるほどいる国だ。人の命の値段が安いのだ。加えて警察の検挙率が低いせいで、人殺しのハードルが低い危険な国である。

 だから私は、依頼したプロが死体で発見されたとしても、さほど驚きはしなかった。むしろ驚愕だったのは、そんな件に日本人である私を巻き込もうとする、グレースの考えだ。一体どんな思考回路を持つと、そんな発想に至るというのか。

 思わずため息が出る。

「封筒にいくら入っているか知らないが、俺に払う金があるなら、地元でまたプロを雇えばいい」

 グレースは眉間に皺を寄せる。彼女は再び逡巡していた。おそらく私に、まだ何かを隠しているのだろう。

 しかしそれも、どうでも良い事だ。いずれにしても私は、彼女の依頼を断るのだから。

 私がそれ以上口を挟むつもりがない事を悟ったのか、彼女は堰を切ったように訴えた。

「そこに五十万円入ってる。それで誰かに頼もうとした。やってくれる人を探したよ。でも誰もやってくれない。最初の人が殺された事、もう噂になってる。後ろで悪い事してる人が誰か、多分みんな知ってる。だからフィリピン人は誰もやらない」

 彼女が必死なのは伝わってくる。しかしそうなら、ますます私の出番ではない。

「悪いが、それならますます、この話は受けられない。あなたの妹を見つけたり助ける自信は全くないんだ。第一危険な臭いがする。素人の出る幕じゃない」

 少しきつ目の口調で言ったつもりだった。彼女は私を、なめているのかもしれないと思ったのだ。色気をちらつかせてお願いすれば、日本人のおじさんなどイチコロだと。

 しかしグレースは怯まなかった。ますます闘志を燃やすかのように食い下がった。

「お金が少ない? 確かに五十万円は、飛行機代とホテル代だけ。でも今はそれしか払えない。だから足りない分は、私の身体で払う。私はまだバージンだよ。嘘だと思うなら試してみればいい。私、妹のためなら、自分の大切なバージンあげる。お金も毎月あなたに返すよ。それでもオーケーくれないか?」

 激しく抗議するようにまくし立てた彼女の目が、涙で潤み始めていた。相当の覚悟を持ってお願いしにきた事だけは、認めなければならないだろう。

 相談する場所を、敢えて店の外にしたのも理解できた。お金を渡したり身体を提供する話であれば、それを仕事仲間に知られたくないだろうし、何より彼女は、その日のうちに、身体を私に預けるつもりでやってきたのだ。

 グレースの決死の思いが、彼女の頬を伝う涙に表れていた。

 間が悪く、そこへ中居が次の料理を運んでやってきた。ドアをノックする音に私はどうぞと言ったものの、グレースが明らかに泣いているのだから、流石にばつが悪かった。

 中居が彩りの鮮やかな刺し身をテーブルに並べる間、グレースがひっくとしゃくり上げる。中居が見て見ぬふりをするのが、私の居心地を一層悪くした。このままグレースが号泣になだれ込みそうな様子に、私は気が気でなくなる。

 私はここで、ついその日二つ目の失敗を犯した。

「グレース、あなたの覚悟は良く分かったから、先ずは料理が乾かないうちに食べなさい。美味い物を食べながら、詳しく話し合おう」

 私が涙を拭くためのハンカチを差し出すと、彼女は意外そうな顔を作り言った。

「え? 佐倉さん、オーケーしてくれるか? だったら料理食べる。私、お腹空いてた」

 グレースの顔にぱっと明かりが灯ると、中居もようやく、グレースに笑顔を向けた。

「本マグロに鯛の落としが入った刺し身盛り合わせです。新鮮ですから、美味しいですよ。たくさん食べて下さいね」

 グレースは私のハンカチで涙を拭ぬぐい、嬉しそうに箸を持つ。早速出された鯛を一口含んだ彼女は、美味しいと驚嘆の声を上げて笑った。

 それを見た中居もにこやかに、「あら、良かったですわ」と応える。

 泣き顔が笑い顔に転ずるまで、ものの数十秒だ。

 どうにも不思議な人種だと思いながらも、グレースの純真さが眩しく愛しかった。

 もはや了解したつもりはないなどと、言える雰囲気ではない。そうなれば私も、美味しそうな料理をやけ食いするしかなかった。

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