Challenge day―挑戦(後)

 1曲目は〈ショパン バラード1番Op.23〉。


 手の震えは想定内だ。


 ペダルに足を乗せて、深く呼吸する。


 ……ああ、スタインウェイか。


 スタインウェイを弾くのは、最後に出たコンクール以来だ。


 過去を清算しようという日に、これ以上相応しいピアノがあるだろうか。


 両手を鍵盤に乗せる。


 さて、低音からオクターヴのユニゾン(両手で同一の旋律を弾くこと)で上昇する序奏の出来で、残りの演奏を真剣に聴いてもらえるかどうかが決まる。


 覚悟を決めろ。




 ペダルを下まで踏み込んだ状態で、フォルテの第一音を放つ。


 音が伸びるのを聴いてからゆっくりと、一音一音に重量を持たせてフレーズを紡ぐ。


 暗澹あんたんとした中に一筋の光が差しているかのような、絶妙な緊迫感を孕んだナポリの6度によるユニゾン。流れを意識したまま変イ長調の不協和音へと繋げて、序奏部を終結させる。


 第一主題。揺らめく鬱々としたメロディが繰り返され、個人のディナーミク(音の強弱による表現法)やアゴーギク(リズムやテンポの揺らぎ)の解釈が特に問われる部分だ。


 アクセントのついた音には重さをかけすぎず、ほんの僅かなニュアンスの変化に留める。あくまでピアノを保ち、テンポもほとんど揺らさない。その小さな振れ幅の中で音に陰影をつけていく。単純な音の大きさだけではなく、音の表情でクレッシェンドやデクレッションを表現する。


 手の震えはいつの間にか止まっていた。


 1拍目を強調するワルツ風のフレーズをpで弾いた後、同じフレーズを、今度は2拍目を強調するマズルカ風に変化させてfで弾く。今までpで抑えていた激情を放出するかのように、勢いを止めることなくパッセージを弾き切る。


 第二主題。幸福感にあふれた安らかな旋律をppピアニッシモで紡いでいく。ショパンがこの世に遺した、涙が出るほど美しい旋律だ。


 一人暮らしのアパートにピアノを置くことはできない。そのため普段は大学のグランドピアノで練習しているが、今は響き方が全く違う。このホールには練習室の何十倍もの奥行きがあるからだ。


 たとえppの音でも、客席の一番向こうまで届くようにしなければならない。




 これはコンクールだ。僕は自分と戦うためにここへ来た。


 だけれどステージに立った時から、僕は僕のための存在ではなくなった。


 作曲家の魂のために弾く?


 作曲家の代弁者になるために弾く?


 僕はそうできるほど立派な音楽家ではない。


 それでも、自分が楽しむためだけの音楽には限界がある。聴いている人にも伝わってしまう。


 だからただ、僕のピアノを聴いてくれる人のために。


 アキラ、僕の音楽は届いてる?




 変形した第一主題を経て、また第二主題に回帰する。


 オクターヴで華やかに装飾された第二主題を、最上の喜びを湛えたffフォルテッシモで歌う。




 なんだろう。この狂おしいほどの喜びは。


 ピアノを弾いている喜びを、


 音楽に触れられる喜びを、


 ショパンを通じて、


 ショパンの中で、


 全身で感じている。




 喜びの物語のクライマックスを迎え、メロディにふいに影が差す。


 旋律の表情が変化し、急速に温度感が落ちていく。


 今までの幸福感が嘘のように冷え切り、第一主題に回帰する。



 陰鬱さと激しさの狭間でppからfへ。出せる限りのfでコーダ終結部を目指す。


 コーダは〈バラード1番〉の圧倒的な最難所であり、一番の聴かせどころだ。


 『Presto con fuoco』の指示通り火のように、急速に、出せる最高のスピードをもって駆け抜ける。狂おしさを乗せて、駆け抜ける。


 ここからが最難関だ。

 

 左手で跳躍をこなしながら、右手はオクターヴ幅のポジション移動を繰り返す。アクセントの位置を意識しつつ、手首を使って弾き進めていく。最難関だが、練習は裏切らない。特に疲労が溜まることもなく、程よい軽さを保ってffへ辿り着くことができた。

  

 半音階の高速な上昇と下降を経て、クレッシェンドでユニゾンのスケール音階を駆け上がる。“急”と“緩”の行き来が悲痛な最期を予感させる。




 影。光。悲しみ。喜び。憂鬱。幸福。




 この曲はバラード物語詩の名の通り、非常にドラマティックな展開に富んだ傑作だ。


 その最期を飾るのは、両手オクターヴの半音階進行。


 fffフォルテッシシモで強烈に、劇的に下降していく。


 持てる集中力を全て発揮して、オクターヴ降下をミスなく高速で駆け降りる。


 ああ、終わってしまう。


 この瞬間が名残惜しい。


 最後の一音が沈み込んだ。


 ペダルを踏んでいた右足から、ふっと力を抜く。


 伸びていた音の尾が、完全に消えた。




 残響が消えたのを確認して、僕は目を閉じた。


 一曲、弾き切ることができた。


 次の曲は……〈ショパン エチュードOp.25-2〉。


 難曲ぞろいの練習曲エチュード集では易しい部類に入る曲で、コンクール映えする方ではないだろう。では、なぜ選曲したのか。


 そう、中学二年生だった僕があの日、コンクール予選で演奏中に止まってしまった曲だ。


 ピアノをやめるきっかけになった曲。


 清算、か。


 無意識のうちに、右手は音も無く白鍵を撫でていた。



ショパン/バラード1番 Op.23

https://m.youtube.com/watch?v=taY5oHleS4I&feature=youtu.be


ショパン/エチュード Op.25-2

https://m.youtube.com/watch?v=GZdPJMzHg0w&feature=youtu.be

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