Challenge day―期待(前)

        1

 このコンサートホールの控室では飲食が許されている。


 紙コップのオレンジジュースを飲み干して、再び楽譜に視線を戻す。


 楽譜の書き込みを眺めているうちに、胸のざわつきが鎮まっていくのを感じる。




 ピアノをやめる前、僕はあがり症になっていた。これを過去形にしていいのかは、まだ判断がつかない。学校祭でアキラと共にステージに立ったときは、確かに緊張を忘れて演奏することができた。しかし、ステージで孤独になった時にどうなるのかは……。僕が自分を落ち着かせることができるかはまだ分からない。




 だから、ここへ来たのだ。




 清算するために。




 清算。


 


 視線を落とす。




 楽譜、パデレフスキ版の……。




 〈ショパン 練習曲エチュードOp.25‐2〉




                         2

 ガタンと音が鳴った。


 ドアが開く音だ。


 ここのドアは力を入れると開閉時に大きめの音が出るのだ。一度それを経験すると音を立てずにそっと開閉するようになるから、この人は今会場に着いたばかりの人なのだろう。


 そう思いながら何の気なしにドアの方を向くと、シルク素材のドレスに黒髪ロングヘアをなびかせた、大和撫子然とした小柄な少女が立っていた。“お嬢様っぽい”といえば外山明里が浮かぶが、長身の外山にはもっと親しみやすさがあるし、同じロングヘアでも外山は髪を染めているので、雰囲気は似ていない。ドアの前に立っている彼女には、淑女というイメージがピッタリとあう。


 目が合った。


 彼女は目を逸らした──いや、逸らそうとした。


 彼女は、僕の顔に釘付けになったように動かなくなったのだ。


 彼女は手に持っていたトートバッグを漁り始めた。震える手でプログラムを取り出してそれの内容に視線を走らせた後、信じられないというような表情で言った。


 「からきだ……」



 唐木田?彼女はそう言っただろうか。


 僕の名字はありふれたものではないから、この状況下で僕以外の誰かを指しているとは考えにくい。


 彼女はカッと顔を赤くしてから、小さく息を吐いて僕の方へ近づいてきた。


 「あの……。唐木田さんですか?」


 「そうですけど。あなたは?」


 「藤友ふじとも道歌といいます。突然お名前を呼び捨てしたりして、ごめんなさい。非常識でした」


 「大丈夫です。それより、どうして僕のことを……いえ。僕に何か用でも?」


 「あなたの顔は、これで知っていたんです」


 藤友道歌は素早くスマートフォンを操作して、画面を差し出した。それは、とあるピアノコンクールのホームページだった。


 『20XX年度全国大会結果』と書かれたそのページには中学一年生の僕の顔写真が確かに載っている。この全国大会で銅賞を受賞したためだ。


 「私は、高峯アキラくんの連弾パートナーでした。アキラくんは、あなたと会えましたか?」


 『あなたはアキラくんと会えましたか?』ではなく、『アキラくんはあなたと会えましたか?』。妙な聞き方をする。


 「……ええ」


 「そうですか……」


 会話が途切れ、沈黙が訪れた。


 気まずさから逃れようと顔を横に向けると、長机の上に開きっぱなしになっていたプログラムが目に入った。


 僕の名前のすぐ上に藤友道歌の名があった。曲目は〈バルトーク ピアノソナタ全楽章〉。


 バルトーク?


 目の前のほっそりとした少女のイメージとは対極にある選曲に、つい彼女の顔を見た。また目が合った。


 「あの、やっぱり僕に何か──」


 「唐木田さん。私、負けないですから」


 ぽそりと、まるで自分に言い聞かせるかのように発された言葉だった。


 僕とじゃない。この子はきっと……


 自分と戦っているのだ。


 僕だって、負けたくない。


 中途半端に終わらせてしまった僕には、もう負けてはいけないんだ。


 自分の手の震えに気が付く。


 違う。


 違う。


 武者震いだ。


 大丈夫。


 大丈夫──


 「唐木田くん!」


 大丈夫です、先生。

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