第25話 嗜虐的な

 シャノンは閉じていた瞼を開く。そこはアリエの家だった。


 自分がここで何をしているのか、いまいち思い出せない。混濁する記憶を辿ろうとしていると、足音が近づいた。


「ようやくお目覚めかな?」


 微笑むアリエの表情を見て、記憶が解き放たれたようにシャノンの頭に雪崩れ込んだ。上擦った悲鳴を漏らし、シャノンは身体を起こした。


「そんな怪物でも見るような顔しないでよ。お姉さん、傷つくなあ」


 言葉に反して、彼女が浮かべているのは笑みだった。うっとりとした表情で、手に付いた茶褐色のものを舐めている。


 それが自分の血液だと気づいて、シャノンはすぐに自らの腹部を見下ろした。服には腕が通るくらいの穴が空いていて、その周りには彼女の手と同じように茶褐色の凝固した血液がこびりついていた。しかし、腹には傷一つない。


 アリエの腕が腹部を貫いた記憶があった。内臓をかき回して恍惚の表情を浮かべていた彼女の顔が、想像を絶する痛みとともに思い出される。シャノンは思わず腹部を押さえた。


「安心して? ちゃんと治したから。けど、もう少し頑張って欲しかったな。三回くらいかき混ぜたら意識飛ばしちゃうんだもん」


 アリエは後ずさろうとするシャノンの足を掴んで引っ張り、仰向けに倒れた彼の上に馬乗りになった。抵抗する腕を押さえつけ、彼女はニッコリと微笑む。


「そんなに身構えなくてもいいんだよ? もう少し遊ぶことにしたから。お姉さん、上手だから。痛くしないから、ね? 時間いっぱいまで、楽しもうよ」


 アリエはシャノンの唇に自分のを強引に重ねた。


 唇をこじ開けられ、舌が歯を撫でる。シャノンは歯を食いしばってそれ以上の侵入を拒もうとした。


 だが、アリエにとってそんなことは折り込み済みだった。


 アリエの口が完全にシャノンの口を塞いだ。シャノンの腕を頭上に持っていき、それを片手で押さえつけた。


 シャノンはチャンスとばかりに腕の拘束を解こうと暴れるが、アリエは肉体強化をしているのかびくともしない。


 彼女の空いた方の手がシャノンの鼻を摘まんだ。


 顔が内側から圧迫されるような感覚が強まっていき、肺が悲鳴を上げる。耐えようとするも、すぐに限界は来た。


 口を開くと、すぐに舌が入ってきた。だが、鼻は摘ままれたまま。苦しみに喘ぎ、暴れるも彼女は離さない。意識が遠のき始め、死を意識した瞬間にようやく呼吸を許された。鼻からしか息をできないせいで、息苦しさは続く。


 一方で口内は貪るようにかき回され、くすぐったさと嫌悪が混じり合っていた。だが、それもすぐに快楽に変わり始める。絡み合う舌が理性を消し飛ばそうとする。頭が真っ白になりそうになる。必死で自我を保って、シャノンは抵抗する。


 アリエの唇が離れ、糸を引いた。それをペロリと舌で舐め切って、アリエは狂気を帯びた笑みを浮かべる。


 その手がシャノンの首に伸びた。


「お姉さんね、好きなの――」


 握られた手に、徐々に力が込められる。再び息苦しさに襲われ、シャノンは表情を苦悶に染めた。喘ぎながら手を外そうと藻掻くも、その手は離れない。


 シャノンの細い身体では、肉体強化したアリエの拘束から逃れることはできなかった。


 じんわりと頭が温かくなり、意識が霞み始める。不思議と苦しみが和らいでいく。目の焦点が合わなくなり、視界が明滅を始めた。何も考えることができない。


 絞めていた手が放され、沈もうとしていた意識が浮上した。すぐに苦しみが襲い、喘ぎながら呼吸を繰り返す。


「あー、ゾクゾクする。シャノンちゃん本当にいい顔してくれるね。あたし、可愛い子をいたぶるのが大好きなのよ」


 再び首を絞められ、シャノンに苦しみが襲いかかる。それが何度か繰り返されて、シャノンは抵抗する力を失った。意識が朦朧として、身体を動かすことができなくなった。


「あー、もう壊れちゃったか。どうせ殺すからいいけど、もっと楽しみたかったなー」


 首から手が離れて、身体を押さえつけていた重みが消えた。ぼやけた視界の中で、アリエがベッドを離れ、反対側の壁に向かっているのが見える。そこには彼女の愛銃があった。


 ――本当に殺される。


 シャノンは言うことを聞かない身体にむち打って、緩慢な動作で身体を起こす。そのまま這うようにしてベッドから落ち、覚束ない足取りで扉へ向かう。


「どこへ行くの?」


 真後ろから聞こえた声に、シャノンは悲鳴を漏らした。慌てて扉を開け、無理矢理に走ろうとして足がもつれた。樹木の上を転がり落ちる。身体の至るところが痛んだ。


 梯子の付近でようやく止まって、立ち上がりながらアリエの方へ顔を向ける。


 アリエはニヤリと口端を吊り上げ、銃口をシャノンに向けた。


「早く逃げないと、撃っちゃうよ?」


 シャノンは梯子へ駆け寄り、地上へ向けて降りていく。急ごうとする気持ちとは裏腹に、足取りは遅い。気持ちばかりが急き、見上げる先で今にもアリエが顔を出すのではないかと不安が募る。そのせいか、雨で濡れていた足場で足を滑らせた。


「あっ――」


 心臓が縮み上がり、血の気が引いた。滑り落ちるようにして梯子を下っていく。何とか地面に叩きつけられる前に梯子を掴むことができたものの、握る力はすぐになくなり、地面に背中を打ち付けた。息が詰まり、再び苦しみが襲う。だが、動くことはできた。


 身体がバラバラになったように全身が痛む。しかし、休んでいる暇はなかった。立ち止まれば殺される。ゆらりと起き上がり、シャノンは足を進める。


 冷たい雨が全身から温度と体力を奪っていく。草に躓いて、シャノンは水たまりに倒れ込んだ。泥水が跳ねる。すぐに身体が水に浸された。それでも止まることは許されない。四つん這いになって、這うように進む。今のシャノンには水の重みですら苦痛だった。


 銃声が轟いて、近くの水たまりが跳ねた。たちまちそれは凍り付き、そこだけ別世界のような寒々しさを放つ。


 石造りの巨人が氷漬けにされた場面を思い起こして、シャノンは顔を青ざめた。あんなものを食らえば、ただの人間であるシャノンは即死だ。


 足をもつれさせながらも、シャノンは起き上がって走り出す。


 振り返ると、アリエはまだ木の上にいた。


 このまま銃弾に当たらなければ逃げ切れるかも知れない。そんな淡い期待は、肩に受けた衝撃で砕け散った。バランスを崩してまたしても地面に倒れ込む。


 すぐに肩口がカッと熱くなって、燃えるような痛みが広がった。生暖かい滑りとした感触が流れ落ちる。


 水たまりに赤が滲んだ。だが、それは激しい雨のせいですぐに薄まり、透明に戻った。


 シャノンは歯を食いしばって起き上がる。止血しようと傷口を押さえるものの、痛みで意識が飛びそうになった。


 一歩、一歩と足を進める。振り返ると、もう木の上にアリエの姿はなかった。それどころか、どこにも姿が見当たらない。


「いったい、どこ、へ……」


 分からない。それでも、やれることは一つしかない。


 正面を向いたシャノンは、しかし、すぐに足を止めた。


 そこに絶望がいた。


「いつの、間に……」


「驚くことないんじゃない? 肉体強化してれば、これくらい普通だよ」


 アリエが道を塞ぐようにして立っていた。綺麗な髪も服もびしょ濡れだが、そんなことを気にした様子もなく、シャノンを見据える。

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