第21話 勘違い

 翌朝、シャノンはいつものように冷水で顔を洗い、アリエから手渡された布で顔を拭った。


「だいぶ慣れて来たね。これなら、そろそろリベンジしてもいいかもしれないよ」


「はい。アリエさんのおかげです」


 数日前の自分と格段に違うことは、シャノン自身がよく分かっていた。強くなった実感がある。それもこれも、彼女が快く面倒を見てくれたおかげだ。


「そっかー、シャノンちゃんはあたしに恩を感じてるんだね」


 何か企んでいる笑みを浮かべ、アリエはシャノンににじり寄る。


「そろそろ、いいよね? お姉さん、我慢したんだよ?」


 耳元に吹き掛かる熱を帯びた甘い言葉。


「悪ふざけはよしてくださいよ。今日もよろしくお願い――」


 戻ろうとしたシャノンの身体は強い力に引かれ、危うく井戸の中に落ちそうになる。背後に井戸、前方にはアリエ。彼女はシャノンの動きを封じるために身体を寄せ、石を積み重ねて出来た井戸の枠に手を乗せた。


 そのせいでシャノンは石に腰掛けざるを得ず、後ろに身体を反らす。だが、腹筋と背筋が限界を迎え、不本意ながらアリエの背中に腕を回した。


「ようやく、その気になってくれたんだね。お姉さん、嬉しい」


「いや、こうしないと落ちるんで……」


 瑞々しい、ふっくらとした唇が迫る。そこから漏れる吐息が艶めかしく、シャノンの心臓が跳ねる。


 鼻先が触れ合おうとしたところで、シャノンは諦めて回していた腕を放した。落下を始めようとする身体は、しかし、アリエが腕を掴んだことで引き留められた。


「何やってんの!? 死んじゃうよ!?」


 青ざめた顔で、アリエは慌ててシャノンの身体を井戸から引き離した。


「アリエさんがキスしようとしてくるからじゃないですか」


「それはごめん。けど、だからって手を放す? お姉さん、寿命が縮まるかと思ったよ」


「エルフは不老不死じゃないんですか?」


「うん、物の喩えだよ? やめて? 馬鹿を見る目で見ないで?」


 シャノンはどっと疲れを感じて、盛大なため息を漏らした。


「もう今日は何もしたくない……」


「ご、ごめんね!? そんなこと言わないで? 今日もえっ――ちじゃない普通の特訓を頑張ろう?」


 さすがに自分でもやり過ぎたと思っているのか、アリエの表情に焦りが浮かぶ。


 反省はしているようなので、シャノンは許すことにして話題を変えた。


「あの井戸もアリエさんが掘ったんですか?」


「うんうん、そうそう! 結構大変だったんだよ。あまり水湧いてこないし」


 いつも通りに話しかけるシャノンの態度に、アリエは安堵したのか嬉しそうに語る。


「けど、結構水溜まってませんでした?」


「ああ、それはあたしが魔法で水や氷を入れてかさ増しをしてるから」


「……何ですか、その魔法の無駄遣い」


「無駄じゃないよ? 魔法の平和利用だよ?」


 平和利用と言われると、なるほど確かにと言わざるを得ない。魔法とは戦うために習得するものだと思っていたので、日常生活で使うという発想がなかった。


「魔法で作ったものも、自然のものと変わらないんですか?」


「そうだよ。水は飲めるし、氷は冷たい。溶ければ水になる。魔法っていうのは元々、自然を定義するために文明が作り出したものらしいよ。だから魔法で作り出したものも、自然のものと同様に循環するんだ」


 長く生きているからか、アリエは博識だった。


 アリエの隣を歩きながら、シャノンはふと思った。


 魔法とは自然を定義したもの。自然と同じ摂理に則って循環するもの。


 だが、固定魔法は違う。魔力を自然のものに変換せずに、魔力として物質化する。だとするなら、それは一体何に還るのだろう。


 家に入っていくアリエの後に続く。ベッドを見ると、まだファリレが寝ていた。布団を頭まで被っていて、断固として起きる気がないことが窺える。


 シャノンは考えるのをやめて、ベッドに寄った。


 そろそろ機嫌も直っている頃だろう。けれど、素直じゃない性格だから、きっと普通に接するためのきっかけを掴めずにいるのだ。


 やれやれ、とシャノンは布団の端を掴む。どうせなら驚かせてやろう。


 シャノンは布団を捲ると同時、ファリレに抱きつき、鼻先が触れるほどに顔を近づけた。


 しかし、視界に移ったのは可愛らしい寝顔でもなければ、驚きに目を見開いた顔でもなかった。


 ファリレは口を押さえて声を殺し、目尻から静かに涙を流していた。


 シャノンは息を呑み、眉尻を下げる。


「ファリレ、どうしたの?」


 涙を拭おうと伸ばしたシャノンの手は、ぴしゃりと撥ね除けられた。起き上がって出口に向かおうとする彼女の身体を抱き留め、シャノンは涙の理由を問いただそうとする。


「待ってファリレ。いったい――」


「触らないで!」


 一際、大きな声が響いた。部屋の中が静まり返り、朝食の準備を始めていたアリエの視線が注がれる。シャノンも唖然として、抱き締めていた力を緩めた。


 涙をこぼしながら、それに構わずに睨む眼差しを前に、シャノンは戸惑い押し黙る。


 場の空気が凍り付いたことに気づいたのか、ファリレは目を見開き、瞳を揺らして何か言いかける。だが、言葉は出てこなかった。


 拳を強く握り締め、息を吸い込んだ彼女は再びシャノンを睨め付ける。


「離して」


 シャノンは胸が詰まるのを感じた。


 怒り。嫌悪。悲愴。それらがごちゃ混ぜになった感情が、向けられる瞳から伝わってくる。


 どうしてそんな風に泣いているのか、まったく分からない。それでも、ここで彼女の気持ちを留めなければ、取り返しが付かなくなるような予感があった。


 だから、シャノンは彼女の身体を抱き締めようと手を伸ばす。


「ごめん、ファリレ。とりあえず、落ち着いて――」


「何がごめんなの?」


 必死に涙を堪え、真っ直ぐに向けられた眼差し。それを見て、シャノンは何も言えなかった。

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