第三話 紫陽花と毒殺し

 紫陽花あじさいは夏のついには負けてしおれてしまった。少し寂しいように思う。でもこれは梅雨明けの合図なのかも知れない。長い長い雨の。川の氾濫の。湧き立つコバエの。カビ臭さの。それらすべての終わりの合図なのかも知れない。


 利千佳りちかの実家の呼び鈴を鳴らすと、梨水温子なしみずあつこが扉を開けて僕の顔を見てまずぎょっとした。なんのアポイントメントも取らずに来たから。

 だが彼女は僕の表情を見て、すぐに口角を上げた。


「金。払う気になったようね。あの子を連れて来てないってことは、もしかして内緒で払ってくれるのかしら? いじらしいわね。ま、そういうことなら入って。お茶くらい入れるわ」


 この発言が出ると言うことは、どうやら利千佳は手紙通りにやってくれているらしい。


 僕は玄関で脱いだビジネスシューズをきちんと揃えて上がった。

 畳の部屋に通される。


 冷茶が茶托ちゃたくもなくちゃぶ台に置かれた。既に汗をテーブルに零した湯呑を手に取り、僕は一言お礼を言ってからそれを咽喉のどに通した。


 僕は何気ない動作で懐からバタフライナイフを取り出した。組み立てている最中に、彼女の視線は僕の手にあったが、しかし声を上げることも慌てて立ち上がることもなかった。窓から入って刃に跳ね返った光が彼女の頬をなぞったとき、ようやく状況を飲み込んだらしい。


 ガタッと立ち上がり、視線が交わる。同時に僕も立ち上がり一気に距離を詰めた。


 彼女が言葉を上げる前に僕のナイフは正直な思いを伝えた。


「アナタは居ちゃいけないんだ」


 おかあさんは僕の顔を見て、震えながら言葉を吐き出す。


「ぐ、あ、アタシが産まなきゃ利千佳は居ない。アンタとも出会ってない。アンタが利千佳と出会えたのも、アタシの、おかげなのよ! 恩知らず!」


 致命傷じゃあなかったようだ。まあいい。何度でも刺そう。死ぬまでそうするだけなんだ。別に。回数など関係ない。


 二度目を突き立てると、震える指で僕の髪の毛を掴んできた。ブチブチと髪の毛が引きちぎれる音がするが、関係ない。


「アンタ……! わかってるの……!? な、なにを、やっているのか……!?」

「わかっていますよ。僕は正しくあなたを殺したいだけです。それよりあなたの方こそわかっているんですか?」

「な、に、を……」

「利千佳にやってきたことをですよ」


 その声が聞こえたかどうかはわからないタイミングで、彼女の目玉はぐるんと回り、ドシャリとその場にくずおれた。


 そのまま数秒、そこでただ立ち尽くしていた。


 ちゃぶ台に置かれていたタバコを手に取った。タバコをやめて久しいが、なんだか無性に吸いたくなった。ラーメンを食べたあとと、コーヒーを飲んでいるときは、今でもたまにあのときの感覚が呼び覚まされる。その都度誘惑に打ち勝ってきた。けれど、まあ、今回くらいは良いだろう。


 僕は血まみれの手で触らないように箱から直接タバコを咥え、ライターで火をともし、スマフォを取り出した。

 指紋認証の読み取りが上手くいかなかった。それが血のせいなのだと気付いたのは、呑気に3回ほど試したあとだった。

 暗証番号を入れ、110とパネルをタッチした。






「なるほどねえ。つまり罪を認めるわけだ」

「はい。僕が殺しました」

「ではのう君、動機はなんだい?」

「前に彼女の娘の利千佳りちかさんと結婚させて頂くためにご挨拶に伺ったときにお金を要求されまして」

「ほう? 金を」

「はい。それからもずっとしつこくて」

「なるほどね。被害者の娘と親戚周りの話をかんがみるに、君の言っていることは矛盾しなさそうだ。それで?」

「こっちから出向いて、ケリをつけてやろうと思いました。でもまた揉めてしまって、ついカッとなって……いや、もともとそのつもりがあったんですね。ナイフを持っていたわけですから」

「ふむ。殺意もあり、計画性もあった、と」

「はい」

「しかしそうすると君は、もしかしたら……利用されていたのかも知れんね」

「誰にですか?」

「君の婚約者の梨水なしみず利千佳さんにだよ」

「どうしてそう思うのでしょうか?」

「んー……非常に言い辛いのだがねえ。君が殺人を犯しているただなか、彼女は男性とデートをしていたんだよ。いや、まあ、状況証拠的に見て犯人が君なのは明確だったから、一応形式的な事情聴取だったんだけど、彼女のアリバイを証明したのがその男だったからねえ」


 僕は思わず笑ってしまった。


「それは良かったです」


 目の前の刑事さんは目を丸くして僕を見た。


「さっきも言ったが君は利用されたのかも知れないんだぞ? 結婚するためには母親が邪魔で、君に殺させた。つまりもともと二股を掛けられていて、君は本命じゃあなかったわけだ。悔しくないのか?」


 少し前のめりになって、不機嫌そうな口調で言う。もしかしてこの僕を哀れんで、代わりに怒ってくれているのだろうか。

 ますます笑いが込み上げてくる。僕は天井を仰いだ。本当は白い。でも薄暗いせいで灰色に見えるそれは、今まで見てきたどんな空よりも透き通って見えた。


「ああ……! 僕が彼女を幸せにしたんだ……!」

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