第2話 Run,don't walk

 橋を渡り終えた先は、昼間とは別世界だった。


 土手を下りて辺りを見渡すと、あまりの暗さに背筋が冷えた。

 街灯が極端に少ないのだと気付く。

 何度も来たことがあるはずなのに。

 この道はこんなに細かっただろうか。

 少し歩くと坂になる。郵便局のところで三叉路さんさろになっている。

 誰ともすれ違わない。車も通らない。

 もちろん人は住んでいる。あそこのアパートにだって明かりはついているんだし。

 ……それでも、知っているものは何も無い気がした。


 郵便局は閉まっていた。

 当たり前だ。もう十一時を過ぎているはず。


 家を出た瞬間からスマホの電源は切っていた。

 位置がばれても、母が追って来ないことは分かっている。

 把握されること。ただそれだけが嫌だった。

 外へ。遠くへ。

 痛みより大きなベクトルが、私を動かしていた。



 ダッダッダッと異様な足音が、向こうから急速に近付いてきた。

 私はビクッと顔を上げ、足を止めた。

 仄暗ほのぐらい路地の一角から、真っ黒なシルエットが飛び出した。

 すごい速度でこっちに走ってくる。


 少年だった。

 私と同じくらいの年、背格好。


 一度斜め後ろを振り返り、更に速度を上げた。

 明らかに何かから逃げている。

 追っ手の姿は見えてこない。

 あっという間に私の横を通り過ぎる。

 その直前、目が合った。

 見開き、私の顔を明確に捉えたという表情をした。

 まるでどこかで会ったことがあると言わんばかりに。


 足音が止まる。


 振り向くと、道のど真ん中でぜえぜえと息をしながら、真っ直ぐに彼は私を見ていた。

 ……やっぱり、知らない人。


 夜道でもはっきり分かるほどぎらりと鋭い目付きをしていた。

 Tシャツの肩で口元をぬぐう。その間もずっと私を見ている。

 そして何かを封じ込めるように一層眼光を鋭くしたと思うと、急に片足を上げ、履いていた靴を脱ぎ始めた。


 ギョッとして固まる私をよそに、両方脱いで裸足になるとくるりと背を向け、片方を遠くへぶん投げた。

 あまりに豪快なフォーム。

 ナイキのしゅっとしたマークがほんの一瞬空中で止まって見えた。

 静止画のように焼き付いたそれは回転の残像を描き、バタリと本でも閉じるような音を立てて車道に着地した。


 そうしてまた走り出した。

 来た方とも靴を投げた方とも別の路地へ。ためらうことなく裸足で。

 闇へ消えていく。

 さっきまでが嘘のように足音はしなかった。

 あまりにも静かに走り去ったから、錯覚か、幽霊を見た気さえした。


 私は再びスニーカーへと視線を戻した。

 目の前には、捨て置かれた方。

 そしてだいぶ遠くに、投げ捨てられた方。

 どちらも捨てられたものなのに、靴底が行儀よくコンクリートに接地しているのを見て、めちゃくちゃ足の長い走り幅跳び選手のようだと思った。

 ストライドの模型。

 その先の巨大な黒い川を、飛び越えていったのですよと示すジオラマ。

 夜道の底で、ナイキの白抜きマークはやけに光っていた。

 流れ星の軌道。

 乗せられたイメージこそ本体なのかもしれない。

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