第4話 人魚の川

 モニカが言葉を失くして立ちすくんでいると、人魚はサッとこちらを向いた。

 凛々しい顔つき。琥珀色の瞳。目尻がキリリときつめに上がっている。魚の部分は、濃紺と銀色が絶妙に混ざった何とも言えぬ美麗な色合い。

 これは、モニカが意図して見ている夢ではない。どうして自分はこんなところに居て、こんなものを見ているのか。モニカはやや萎縮しながら、人魚を上目遣いに見ていた。

 当の人魚は、存外優しげな声で言った。

「やっと来たのね。七年間待ち侘びたわ。モニカ・ブルシュティン」

 モニカは何回も瞬きをしてから、細い声で言った。

「あなたは、私の名前を知ってるんですか?」

「私がつけたのよ」

 小さなモニカは、状況を理解するのにしばらく時を要した。

「つまり、あなたは私のお母さん?」

「ええ。カヤと呼んで」

「カヤ……」

 沢山聞きたいことがあると、モニカは思った。だがそれを口にする前にカヤはこわい声で言った。

「話は後。早く息を吸いなさい、モニカ」

 はっとモニカは目蓋を開けた。目の前には心配そうな子どもたちと看護師さんの顔があった。モニカは、現実の世界に──庭の隅に戻ってきていた。

 モニカはしばらく肩で息をしながら、混乱して座り込んでいた。

「大丈夫?」

 みんなは口々に言った。一人の子どもがコップに水を汲んできてくれた。それを一口飲んでから、ようやくモニカは口を開いた。

「あの……夢を見てたの」

「夢? いつものやつ?」

「違うの。……初めて、自分に魔法をかけた……」

 それからモニカは黙ってしまった。じっと座って動かないモニカを心配して、看護師は彼女を救護室で休ませることにした。

 心配顔の子どもたちが、見舞いに飽きて外へ遊びに出ると、モニカはまたハミングを始めた。具合はちっとも悪くなかった。それよりもあのカヤという人魚にもう一度会いたかった。

 霧の中を抜けて、モニカは再び、あの川辺にやってきた。丸い石ころがころころしている地面を、弱い足腰で懸命に走ると、今度はカヤが正面を向いて待っていた。

「今度はうまく息ができているようね」

 カヤは言った。

「はい」

「たまにここに会いに来なさい。私はあなたを心配しているから」

「あの、……お、お母、さん?」

「カヤと呼んで」

「は、はい……」

 カヤはちょっと安心して、言い直した。

「カヤは、どうして私を、ドム・シェロトに預けたんですか?」

 カヤは少し寂しそうな、それでいて愛おしそうな表情になった。

「あなたが、人間の姿で生まれてきたから。あなたはここでは暮らせないのよ」

「ここ? ここは、どこですか。これは夢じゃないんですか?」

「ここはワルシャワのヴィスワ川。私の住処よ」

「でも、本物のヴィスワ川は、街の中にあって……」

「本物の?」

 カヤは悪戯っぽく笑った。

「人間界と人魚界、どっちが本物の世界かしら」

 それから、こんな歌を歌った。


 夢か現か 誠か嘘か

 この世は正に胡蝶の夢なり


 聞いているとモニカは、頭がふわふわと心地よくなる感じがした。でも、歌の意味はよく分からなかったので、黙っていた。

「たまに来なさいとは言ったけれど、あまり長くここに居続けるのもよくないわ」

 カヤはモニカの頭にそっと触れた。

「そろそろ戻りなさい。またいつでも来て。ここはあなたのもう一つの故郷なのだから」

 こくりと、モニカは頷いた。教わらなくても、戻り方は分かっていた。

 窓ガラス越しに夕暮れの光が差す部屋で、モニカはゆっくりと目を開けた。

(カヤ)

 モニカは頭の中で反芻した。いかにもポーランド人らしい名前だと思った。それから自分の名前が「モニカ」であることにも納得がいった。

「モニカって、どういう意味ですか?」

 昔にこう尋ねた時、コルチャック先生は丁寧に教えてくれた。

「ポーランド系の名前だね。意味は、そうだな、『一人』というところかな」

「ひとり?」

「つまり、この世界でたった一人の大切な人、という意味だと、私は思うよ」

 先生の言う通りだった。母親はポーランドに住む人魚だったのだ。我が子を人間界で育てるため、カヤはモニカを手放した。

 そして恐らく父親が、ユダヤ系ポーランド人なのだろう。ゆえにモニカは、ユダヤ系の子らが集まるドム・シェロトに預けられたのだ。

(わお!)

 素晴らしい発見をしたと、モニカは嬉しくなった。

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