第7話

 現実世界に人ではない何かゾンビが出現した。

 すでに校門には複数人の感染者がいるはずだ。

 最低でも三人。不審者、高橋、榎戸だ。


 中でも高橋は教師という立場上、生徒を守らなければいけない義務がある。

 おそらく職員室に駆け付け沈静化のために動き始めるだろう。

 避難警告を発出するよう持ちかけるかもしれない。


 さらに榎戸が目の前で食い殺されている。警察や消防にも通報するはずだ。

 なにより不審者アレがお約束通りの存在なら、噛み付かれたり、引っ掻かれた人間は、新たな感染者となり、パンデミックを引き起こす展開だ。

 職員室に戻った高橋が人間をやめた瞬間、他の教員や生徒が彼の餌食になるのは想像に難しくない。校内がパニックになるのも時間の問題だろう。


 ここで俺が考えるべきことは三人の中で最優先で救出する人間の選定、そして籠城か脱出の選択だ。まず前者だが、剣道全国大会の覇者――霧島彩綾先輩は後回しだ。

 彼女の腕は手合わせしたときに身をもって知っている。


 もちろん何も知らない中で一瞬の油断が命取りになるかもしれないが、放っておいても三人の中で生存率がズバ抜けて高いのは先輩だろう。

 なによりあれだけ洗練されていながら、自分の身一つも守れないようであれば俺の背中は預けられない。


 問題は学校医の村雨静かクラスメイトの瀬奈美月だ。

 ここの取捨選択が難しい。

 教師の高橋は腕を不審者に噛み付かれている。最初こそ職員室に足を運ぶだろうが、いずれ保健室に足を向けるだろう。治療中に感染者となり村雨先生を襲う――十分にありえる。


 想像が容易なだけに嫌な予感もする。だが、村雨先生の性格を考えれば人間ではない何かは知的好奇心が刺激される存在だ。もしも彼女なら高橋に襲われても俺と同じように笑っていることだろう。なぜなら変人、いや変態だからだ。


 となると、消去法で残るのはやはり瀬奈か。

 彼女もそれなりに普通じゃない生徒とはいえ、やはりまだまだ精神は子どもだ。

 まだゾンビという存在を認知していない中で彼女を納得させ、共に行動させるのはそれなりに骨が折れるだろう。


 だが、それでも彼女にこだわるのには理由がある。

 後者である籠城か脱出かを選択するにあたって欠かせない人物だからだ。

 ――瀬奈美月には

 それは彼女が数学が得意たる所以の才能だ。


 もしも読み通りだった場合、瀬奈美月は俺のチームに絶対に欠かせない人物となる。

 これはつまり投資だ。

 霧島彩綾先輩と村雨静先生を後回しにしてでもそれを回収できるだけのリターンがあると。そう踏んでのリターン。


 方針が決まった俺はすかさず教室へと戻る。

 もちろん現在は授業中。視線の集中攻撃。注目の的だ。

 だがそこに瀬奈の視線がない。


 嘘だろ……おい。

「どうした秋葉。授業を聴く気になったんならすぐに座れ」

「あっ、いや……」


 さすがに瀬奈の不在は想定外だった。やはり人生何が起こるか分からない。

 全てが計算通りに行くとは限らないわけか。


「瀬奈はどこに行ったんでしょうか?」

「五分ほど前にお手洗いに行ったが、それがどうかしたのか」

「すみません。急にお腹が痛くなったのでもう一度席を外します」


「あっ、おい……!」

 俺はすぐに扉を閉めてトイレに駆け出す。

 教室を後にする直前、お調子者の「覗く気じゃね?」という一言で教室がドッと沸いていた。呑気なもんだなと思う。


 彼らは授業を受け、部活で汗を流したあと、友人と下校する。家の中でダラダラ過ごしたあとは布団の中で一日が終わると思っている。

 だがもう間も無く平和な日常は突然終わりを迎える。なんの前触れもなく。


 順応できなかった人間から餌となっていく。

 俺は教室から一番近い女子トイレに駆け付け、躊躇なく中に入る。

 世界が終わろうとしているときにその程度のことに躊躇いなどあろうはずがなかった。


「瀬奈! 瀬奈はいるか!」

 俺の呼びかけに返事はなかった。

 なんで教室から一番近いトイレにいねえんだよ!


 取りこぼしがないよう一つずつ扉を開けていく。

 授業中ということもあり、施錠されているものはない。

 ということは――。


 当然と言えば当然だがうちの高校は各階にトイレが設置されている。

 二階のトイレに瀬奈がいないということは一階か三階のどちらかだ。

 予想していない展開にシンキングタイムが発生する。


 瀬奈を探索すべきかどうか。探索する場合、一階か三階どちらからにすべきかだ。

 俺が通う高校は東西南北に棟が分かれている。また階数と学年は一致している。

 三階は三年生、二階は二年生、一階は一年生というわけだ。


 今の俺に全ての階を調べるという選択肢はなかった。

 なぜなら三階に上がって瀬奈が見つからなかった場合、一階まで降りなければならない。

 タイムロスだ。何より情報が少ない今、むやみやたらに走り回ることは避けたかった。


 いつ、どこで、どういう形で感染者と遭遇するか分からない。

 そもそも一人目の感染者が校外からやってきたという裏付けもない。

 俺はただあの現場を目撃してしまっただけで他にも知り得ないことがあるかもしれない。


 さらに三階には霧島先輩が、一階には保健室――すなわち村雨先生がいる。

 瀬奈一人の探索だけに時間をかけ過ぎてしまうことだけは避けたい。

 そろそろ決断すべきか。この間およそ一秒。俺は一階に降りることを決意する。


 理由はいくつかある。

 まず授業中にトイレに行っておきながらすぐに用を足せる二階にいない現実。

 同 級生や教員と同じフロアには心理的に抵抗があったとみていい。


 しかし授業中に抜け出したことを考慮するに上がるよりも降りる方が身体的には楽だろう。

 次に一階には保健室がある。瀬奈が空振りに終わってしまった場合、次に感染のリスクが高い村雨先生の救出に向かうことができる。

 あの決定的瞬間を目撃してからまだ時間はそんなに経っていない。高橋の治療もまだ始まっていないだろう。


 これが下駄箱や校内への出入りに直結している一階に降りることに至った思考の経緯だ。

 校門に近付けば近付くだけ感染者に遭遇する可能性は跳ね上がる。

 正直に言えばそれなりに覚悟がいる決断だった。


 だが、迷いや悩みが命取りになる環境だ。動き出すことに躊躇いなどなかった。

 結果から言えば俺は正解だった。

 階段を降りたところで、トイレからちょうど瀬奈が出てくるところが目に入る。


 長い渡り廊下を直進すればすぐに合流できる。

 だがここで幸運中の不幸。

 なんと瀬奈のすぐ近くに不穏な足取りで迫る榎戸の姿が窓ガラス越しに写る。

 どこかで榎戸も食事を済ませていたのだろう。額にべっとりと血痕が残っている。


 瀬奈もようやくその存在を視認したのか、拭っていた手ぬぐいが宙を舞い、腰を抜かしてしまう。

 なんとか逃げようと後ずさるものの、変わり果てた教師の姿に平常心を奪われてしまっているのだろう。


 その光景を見たとき。俺は不幸中の幸いだなと思った。

 なぜなら瀬奈にバイオハザードについて説明する手間が省けたからだ。

 彼女自身が先に化け物に遭遇していれば、俺の言葉に耳を傾ける時間が圧倒的に減少するだろう。


 とはいえ俺と瀬奈の距離と比較して瀬奈と榎戸は至近距離だ。

 世界最速の男でも間に合わない。

 じゃあ瀬奈のことを諦めるのか。とんでもない。

 このチャンスを無駄にしているようじゃ先が思いやられる。


 俺は階段下の倉庫から硬球を手に取る。

 脱臼しないよう肩を回してから狙いを定め、振りかぶる。

 全力投球と同時に金属バットを手にして盗塁のごとく疾走する。


 硬玉は窓ガラスを突き破り、榎戸の顔面にヒット。

 バランスを崩して倒れたのだろう。窓ガラスから姿が消える。

 急いで瀬奈の元に駆け付けて、彼女の視線の先と対峙する。


 そこには感染者がすでに四、五人並んでいた。

 これ以上ないタイミングの良さ。

 まずは瀬奈美月との合流に成功した。

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