第29話 破滅

 玄関を出ればそこには誰もいなかった。エンジン音が聞こえガレージに行く。ライトの付いた黒いベンツ。運転席に座る父は隣にいる母のシートベルトを止めていた。僕も母側の後ろのドアを開けて乗り込む。シートベルトをして前を向くと父が振り返った。

「それで、どこに行けばいいんだ?」

「このまま病院に向かって。僕がいた病院の裏に丘があるだろ。そこにいるよ」真っ直ぐ向こうを指さした。

「わかった」ギアをドライブに入れて、アクセルを踏む。僕らはそのまま進み出した。


 太陽はいつのまにか低くなり、影を落とす。僕らを乗せた車は帰路につく子供たちと反対方向に進む。前を見上げる笑顔とは真逆に肩を落とす僕ら。恐ろしいほど冷静に僕らを運ぶ黒い箱は、まるで処刑台に進むかのように冷酷だった。それを指し示すかのように車内は静まり返っていた。気を抜けば淡々と脈を打つ心臓の音が聞こえてしまいそうなほどに。丘に近づくにつれ、早まる鼓動。それを悟らせないように胸を強く抑える。顔を上げれば、ミラー越しにチラチラとこちらを見る父。それに気付いたが、僕は目を合わせなかった。助手席の母は全く動かない。まるで本物の人形のようだった。カバンからスマホを取り出し、画面を見つめる。煌々と放たれる光の中に浮かぶ文字が、刻が進み続けることを知らせる。ポチッと電源を落とす。窓の外は暗く、静かになりだした。


 病院を超え、丘の麓についた。車を乗り捨て、丘の前に立ち尽くす。太陽は姿を消し、月が闇夜を支配する。冷たい光が僕らに影を落とした。母はまだ意識がしっかりしていないようだ。父が身体を支え、何とか立つので精一杯に見える。それを確認して僕は丘を登る。胸の前に掛かるカバンの紐をしっかりと握りしめて。時折振り返っては足取りが重い二人を気にする。辺りは暗く、足元が見えにくい。それでも父は細心の注意を払って、母を歩ませる。一言も話すことはなかった。ただ互いの乱れた呼吸音、地面を踏み締める足音だけが暗闇に消えていく。空気を読まぬように発せられる虫の鳴き声。これだけが生を感じさせる。

 暗い道を一歩一歩確実に進んだ。そして闇が開かれる。その瞬間だけ強い光に包まれたように感じた。やっと真波の元に辿り着いたのだ。そこは僕が来たときと全く変わっていなかった。何の変哲もないただの丘の頂上だ。そこに一箇所だけ土が掘り返されたように色が違うところがある。ここにいるんだ。ずっと待たせてごめんね。カバンを強く握った。


 少し遅れて二人も到着したようだ。僕が何も言わなくても気付いたみたいだ。父が母から手を離し、僕を押し除けて走り出した。一箇所だけ目立ったそこで土を触る。感触を確かめるかのように。そしておもむろに掘り返した。いつも身嗜みに気を使う父が土汚れなんか気にしないように。地面に膝をついて素手でひたすら掘り返す。爪の隙間に土が入ろうともお構いなしに。僕の後ろにいた母はその姿をぼうっと傍観する。どこを見ているかわからなかった視線は、父の姿を捉え始めた。そして視線の先に白い物体少し見えた。さらに掘り進めるとそれが腕だとわかる。母がふらふらとおぼつかない足取りで歩き出した。そして安らかに眠る真波が姿を見せた。まるで空を見上げたまま眠ってしまったようだ。それ程までに綺麗な姿だった。いつのまにか僕の隣にいた母は膝から崩れ落ちる。顔を覆い泣き出した。父も真波の手を掴みながら嗚咽を漏らす。

 よかったね真波。君の死を知り、あの人達はこんなにも泣いているよ。あんな扱いをしていても、心のどこかでは君を思っていたのかもしれないよ。君はこの姿をどう思う。

「本当に雫がやってしまったの?」足元から声が聞こえた。

「ああ。これが真波の望みだったんだ。父さんと母さんはどうしてこんなことを、って僕を叱るの?それともこの人殺しって僕を罵るの?どっちも出来ないよね?僕らは同じなんだから。みんなして同罪なんだよ」僕の裾を掴みながら首を左右に振る。父さんも僕をずっと見ている。

「ねぇ、どうする?僕はあの時どうすれば良かったの?この世にいる意味がないって言われてなんて返せばよかった。生きていればいつか良いことあるって無責任にでも言った方が良かった?それとも殴ってでも目を覚まさせればよかった?今はただ堪えろって。あの時誰かにそう言われたとしても、きっと僕は変わらない。僕は何度あの時に戻っても真波を殺すよ。星が輝くこの場所で。あの時の真波も僕も狂ってなんかなかった。真波は僕なんかよりしっかりと現実に向き合っていた。狂っているのは僕らの方なんだよ」母の手を足で払いのけて、真波の方に近づく。


 カバンからあの写真を出した。

「ねえ、どう思う。あんな幼い子の夢がこの星空を観ることだって。新しい洋服が欲しいとかゲームが欲しいとか、遊園地に行きたいなんかじゃなかった。ただ満天の星が観たいって。そんな夢すら叶わないって言われる人生って何なの?真波は何のために生まれたの?僕と真波の違いは何だったの?僕の、僕らの幸せは真波の上じゃないと成り立たなかったの?」

「やめて、やめて雫……。もうこれ以上私を苦しめないで。私の雫を壊さないで」後ろから聞こえる泣き叫ぶ声。私の雫。僕は結局、母さんの駒でしかなかったの。僕らは母さん達が幸せになるための道具だったの。再び写真をポッケにしまう。

「もう壊さないで?とっくに壊れていたんだよ。もう終わりにしよう」バサッ。カバンからモノを取り出し、投げ捨てる。そして父の元にゆっくり近づく。

「これで僕らは元に戻れる。幸せになれるんだよ」父は泣きながら僕を見つめる。キッチンから取ってきたものを目の前で両手で握り占める。それに気付いた父は一瞬目が泳いだ。その目には恐怖に怯えているようだった。父さんは父さんなりに、ずっと幸せな家庭を築こうとしてくれていたんだよね。

「ありがとう」僕は一思いに心臓目掛けて一直線に刺した。手には生暖かい感触があった。父さんは僕の手を強く掴んだ。そしてどこか優しい目で僕を見つめた気がした。段々と手の力は弱まり、倒れてしまった。バタッと。

「きゃあぁぁ」

後ろから悲鳴が聞こえる。この静かな空間に響き渡るが、誰も来やしない。ただ闇に吸い込まれる。

振り返り、母の元へと向かおうとする。僕に怯えた表情が浮かぶ。まるで妖怪でも見たかのように、瞳が強く揺れる。腰が抜けて動けないのか、おしりを着いたまま腕と足だけが身体を後ろに下げようとしている。どうせ無駄なのに。僕が近づこうとすると、母さんの瞳は定まった。

一瞬だけ悲しそうな顔をしてから、何かがわかったかのように真っ直ぐと見つめ合う。突然母さんは立ち上がった。そして母さんの方から僕の元にやって来た。今度は確かな足取りで、地面を踏み締めながら。

「雫、ごめんね。あなたは何も悪くないわ。正しいことをしたのよ。何があってもあなたは私達のかけがえのない宝物よ。私はあなたを誇りに思うわ」

彼女の右手が僕の頬を撫でる。左手が僕の両手を掴む。そして右手もそこに重ねられ、思わず引っ張られた。それはぐさりと刺さった。段々と力が無くなり足元から崩れていく。その目が閉じられる最後まで僕の瞳を見つめた。あの瞳だ。病院で目を覚ました時の。いつも僕を愛おしく見つめる、あの温かい眼差し。

 母さんは笑っているようだった。ありがとう。そう聞こえた気がする。だるんと垂れてしまった母さんの右手をもう一度僕の頬に添える。


 涙が溢れた。何も気にせず大声を出して泣いた。



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