第16話 放たれた弾丸

 涙を拭い、家に戻る。部屋に戻り机の前に座る。机の上にある星空、ベッドにある星空。そしてこの手にある星空を持って僕は走り出した。タクシーに乗るとか、自転車に乗るとか、そんなもの僕にはなかった。ただひたすらに走り行く。緩やかな下り坂は僕の足を前へ前へと進める。僕の背を押す風が気持ちいい。街を行く子ども達とは逆の方向に走り続ける。こんなにも長いのか。坂の上に見えるそこはまだまだ遠くにある。大きく息を吐き、また駆ける。


 「ついた」

どれくらい走っていたのだろうか。僕は休むことなくここまでやって来た。心臓が激しく鼓動する。肩で息をしながら辺りを見る。辺りはもう暗くなってきた。人の声は聞こえない。虫の鳴き声が響き渡る。空には月が顔を出していた。外にはもう誰もいない。遠目で入り口を見ても、カーテンが掛かっている。

 誰にも見つからないよう、建物の周りをゆっくり回る。入れるような入り口は見当たらない。急患用の所はバレてしまうし、入れるわけがない。試しに奥にあった関係者用の扉を開けてみた。しかし鍵が閉まっていて開かない。諦めて帰ろ。そう思って振り返ったとき、

 ガチャ。鍵の開く音がする。

「え、雫くん!? あなたここで何しているの。今日はもう来院時間過ぎているし、面会時間も終わっているわよ」

薄い黄色のワンピースに、白いカバンを持つ女の人がそこから出てきた。白衣かジーパン姿のラフな格好しか見たことがなかったから、一瞬誰だかわからなかった。それでもこの甲高い声で僕の名前を呼ぶ人は一人しかいない。

「梨奈さん……」彼女の後ろからザワザワと人の話し声が聞こえる。見つかってしまう。それに気付いた彼女は

「とりあえずこっちに」僕の腕を掴んでその場を離れた。


 病院の裏の方まで来て、息を潜める。何人かの人が反対側の駐車スペースに向かう。ガヤガヤと話しながら車のエンジンを掛ける。車に乗り込みエンジン音が遠くになると、梨奈さんが先に口を開く。

「全く君はここで何をしているの。私じゃなかったら怒られていたわよ」腰に両手を当てて厳しく言った。

それでも声にそこまでの怒りは込められてない気がしてならない。

「あはは……」

頭を掻きながら謝る。視線は泳ぎ、梨奈さんの目を見られない。何をしていたのか。ただがむしゃらに走っていただけだ。どうしてかと言われてもわからない。でもここに来なくてはならないと思ったのだ。


 目線を上げて、梨奈さんの目を強く見つめる。

「梨奈さん。僕は僕のトリガーを引きました。僕のこの安寧の世界を変えてでも、知らなきゃいけないことがある気がするんです」

目を見開き驚いたような顔をした。しかしすぐに微笑んだ。

「そう。決めたのね。それでどうだった?」

「まだ全部は思い出せません。でも何をすべきかはわかりました」

「それでどうするの?」

「春田さんに会いたいんです」

「え、春田さん? どうして春田さんなの?」曇りのない目でこちらを見つめる。

「春田さんに会えばわかる気がするんです。確証はないけれど」段々と声に自信がなくなってくる。僕のこんな言い分を信じるわけないじゃないか。もっと別の理由にしないと。頭を一気に回転させるが、何も思い浮かばない。

「春田さんに会いにって今日いるかどうか知っているの?」

「あっ、そんなこと考えていませんでした……」

「君はおバカなのかな?」

「……。そうだったみたいです」

「まあ、奇跡的にも春田さんはいるんだけどね」

「えっ、本当ですか?」

「ええ。本当は休みだったんだけど、今日入る予定だった人が体調を崩しちゃったみたいでね。代わりに春田さんが入ってくれたのよ」

「それならよかった」

「ってそんなことも確認せずに来るなんて。いくら春田さんがいたとしてもどこにいるかわかんないじゃない。どうするの?」

「それは……。でも僕にはわかる気がするんです。春田さんの居場所が」

なんでかはわからないが自信がある。春田さんはあそこにいるって。どうやってこれを信じてもらおうか。またもや頭を悩ませる。

「じゃあ、会ってらっしゃいよ」突然放たれた言葉。梨奈さんはにっこりと笑って言った。

「え、信じてくれるんですか?」

「だって雫くん、嘘つかなそうじゃない?」どきん。鼓動が早まる。どうしてこの人は僕にこんなに優しくしてくれるのだろうか。

「ありがとうございます」僕は頭を下げた。

「そうと決まれば行きましょう。こっちよ」

肩を押されて、さっきの出入り口とはまた違う、奥まったところに案内された。今にも消えそうな電球が裸のままぶら下がる。この建物に相応しくない、薄暗い所だった。

「さっきの所もここも普通の職員用の裏口なんだけど、こっちはあまり使われてないの。昔は喫煙する時とかに使っていたんだけどね。色々と規則が厳しくなってからは誰も使ってないわ。取り壊すわけにもいかないから鍵だけは厳重にかかっているしね。向こうの方が綺麗で明るいし、帰りもラクだからそっちを使うのよね」

カバンの中から鍵を取り出してフェンスの扉を繋ぐ南京錠開ける。南京錠を外して扉を引く。ギギィと音を立てた。

「念のため途中まで行ってあげるわ。この時間なら看護師もステーションで引き継ぎ後の書類整理であまり巡回してないしね」

携帯を取り出し、時間を確認して言った。慎重に辺りを見渡し中に入ると、すぐ横に階段があった。そのまま階段を上がる。こっちに行けばいい。そう信じて進んだ。梨奈さんは何も言わずに僕の後に付いてくる。


 「梨奈さんはどうして親切にしてくれるんですか。もし見つかったら梨奈さんも怒られてしまうのに」

後ろで僕の背を押す梨奈さんに言った。いくら元患者といってもここまでする必要はないだろう。梨奈さんにメリットがあるとも思えないし。僕は何もお返しできない。後ろを振り返ると思ったより顔が近かった。僕の口元くらいに梨奈さんの顔がある。

「バカね。雫くんは。人を助けるのに理由なんて必要?困っている人は助けなさいって学校で習わなかったの?それに前に進もうとする人の背を押すのは先輩として当然じゃない」

トンっと僕のおでこを押す。窓から入る月の光が彼女を美しく照らす。この人はこんなにも美しかっただろうか。

「まあ、どうしてもって言うなら、全部思い出した時に私に会いに来て。そこで雫くんのことを教えてくれたらチャラにしてあげる」いつもの悪戯な顔で笑う。

「はい」この人には敵わないと思った。

「一つだけいいですか?梨奈さんに話したいことがあるんです。梨奈さんには聞いてもらいたい。あなたは信用できるから」彼女にだけは話したい。そう強く思った。

「あら、なにかしら?」

「僕の右手のことなんですけど……」


 「あれ?そこで何しているの? 」

下から少し枯れた女の人の声がした。背中を押され階段を二段程上る。踊り場に足が着いた時、グイッと奥に押し込まれた。咄嗟に手すりの影に身を潜める。

「あっ、相澤さーん。この辺で鍵見ていませんか?家の鍵どっかにやっちゃって」両手を広げて振っている。

「あら、誰かと思ったら梨奈ちゃんじゃない。怪しい人かと思ったわよ。びっくりさせないでちょうだいな。それよりまた鍵を失くしたの?とりあえずステーションで聞いてみなさいよ」呆れたような声が聞こえた。

「はーい」梨奈さんは元気良く下っていく。一瞬こちらを見て、背中をポンっと叩かれた。がんばれ。そう言われた気がする。


 二人の声が聞こえなくなって、足音が遠くなる。僕はまた進んで行く。今度は僕一人だからより慎重に。ただ闇雲に上っていたが、ここは前に僕が上がっていた階段だと気づく。ということはこの先に屋上があるはず。もう何度目かの踊り場を超えたころ、階段の突き当たりに来た。目の前にはあの扉がある。


 ドアノブに手を掛ける。何の確証もないのにここに来た。でも春田さんは、僕のトリガーはここにある。ふぅ。ギィっ、と音がする。扉を開けた。足を踏み入れ、静かに閉める。反対側を向き、真っ直ぐに進んで行く。そこに春田さんがいると信じて。

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