夏時間の少女（元）

【月曜日】

　まだ青く短い稲穂が、風にゆれる棚田のあぜ道を下っていく少年すばるの右手は、深い広葉樹の林になっており、はじまったばかりの夏の太陽をうけて、黄緑色のかおりが強烈ににおっている。

　蝉の声は空気を震わせるほどに、はるか高いぬけるように真っ青な天に響き、すばるは自分がまるでたったひとり、巨大な箱庭の中に閉じこめられたような気分だった。それでも引き返そうという気にはならない。あまりにもったいない。このでっかい夏の中、その中にいないということは、少年にとってとてつもない損失なのだ。

　駆け下っているうちに、分かれ道になった。あぜが左にゆるやかに湾曲するこれまでのつづきの道と、右手の林の奥に上っていく小道とに分かれている。右手の道はあぜとは違い、山肌を削って赤茶けた土がむき出しになり、左右からは樹々が太い枝を思い思いに伸ばしおおいかぶさった、木立のトンネルだった。そこだけひんやりと、夏から切り離されたかのようで、まるで別の世界への入り口みたいだ。

　そして夏の木漏れ陽がきらめく木立のトンネルの中、その少女は信じられないほど色鮮やかに、すばるの中に飛びこんできた。

　少年と間違えてしまいそうな、でもそこにいたのは、まぎれもなく少女だった。びっくりするほど眼が大きく、真っ黒に陽に焼けた顔。すばるとほとんど同じくらいに短い髪。Ｔシャツと短かいデニムのパンツからのびる手脚は、まっすぐ細く、そんな風にして伸びた木の枝のようにみずみずしく、そしてやっぱり真っ黒に焼けている。

　すばるの眼にその少女の身体は、樹々をとおしてふりそそぐ夏の光を織って作られたみたいに、淡く輝いて見えた。

「どこ行くの、すばる」

　初めて会ったはずなのに、少女はすばるの名を知っていて、平然と呼び捨てにした。それをおかしいと思うこともなく、すばるは応えていた。

「どこにも……」

　本当に、どこに行こうってあてもなかったのだ。

「じゃ、こっち来なよ」

　いたずらっぽく笑いながら、少女が手招きをする。その笑みに、すばるは不思議にためらいを感じることもなく、右手の林へとつづく道へと脚を踏み出した。

　ひんやりと香る土のにおい、幾層にも織りなす樹々の気配、光の純度……まるで絶対の夏に入りこんでいくようであり、そしてすばるは、その中のひとつのかけらになったようだった。

　木立のトンネルはどこまでもつづく。そのはてに、ぽっかりと光の出口が待ちうけている。少女は駆けていく。すばるは少女を追う。どんどん透明になっていく。

　トンネルをぬけると、不意にまばゆい空間へと出た。四方を林にかこまれ、夏の太陽が音をたててきらめき降りそそぐ。

　そこは今まですばるがいたところから、ぽっかりと切り離され、止まってしまった時間の中に、誰かの大っきな手で優しくそっとしまいこまれたかのような場所だった。

　一瞬、呑みこまれてしまうような錯覚をおぼえた。こんなにまばゆくて暑いのに、そして穏やかで静かなのに、すばるの身体に、なぜか奥底から震えがはしった。

　蝉の声がひときわ轟いている。奥に廃屋があった。わらぶきの屋根は、あちこちがへしゃげ、雑草が生えている。雨戸はところどころが外れてしまって、ほとんどのこっていないので、中の様子もうかがえる。

「おいで、すばる」

　少女がさし招く。ひざまでもない雑草をかき分けて、少女は廃屋の縁側に腰をかける。草の間から熱気が立ち上った。すばるも少女の隣に腰をかける。乾いた縁側は太陽にあぶられて、飛び上がるほど熱い。

　屋内はすっかり畳がはらわれ、古い床板がむき出しになっているのがわかった。薄暗いけれど、隅々まで眼が届く。爺ちゃん家と同じように田の字状に区切られた奥の部屋には、まだ囲炉裏がのこっており、天井からはくすんだ自在鉤が、所在なげにぽつんとぶら下がっている。もうとっくに誰も住んでいないのは瞭然だったが、不思議に不潔な感じはしない。人が住み終え、そしてそのまま乾いていくように、静かに静かに朽ちているのだ。

「ようこそ、すばる」

　少女の大きく真っ黒な瞳が、まっすぐすばるをのぞきこむ。小学五年生の自分と同じくらいだろうか？でもクラスの女の子たちとはまるで違うとすばるは思った。何が違う――じゃない。何もかもだ。色彩も輝きも動きも、においも放熱しているようなまばゆさも、まるで別のものだ。どきどきしながら訊ねる。

「名前……」

「－－－」

　間髪入れずに少女が応える。

「－－－？」

　すばるは口の中で少女の名を転がした。解き放たれた夏のような響きだ。

「すばるは何で爺ちゃんの家に来たの？」

「……母さんの実家なんだよ」

　そう応えてから、何で知っているんだといぶかしく思ったが、ひと呼吸遅れて、こんな田舎だから、お互いの家のことなんて、きっとみんな知っているんだろうと考えた。母さんが前にそう云っていた。

「ふぅん……」少女は首をかしげる。「ひとりで？」

「うん」

　わずかに胸が痛んだ。

「爺ちゃんと婆ちゃんは好き？」

「うん」

　これは胸を痛めずに応えられる。街でも学校でも、誰も彼も“のっぺらぼう”だったのに、爺ちゃんと婆ちゃんの顔は、はっきりとしている。その爺ちゃんたちを好きになれない理由なんてない。でもそう云えば……どうして少女の顔は、こんなにはっきりとしているんだろうか？

「アタシの顔、はっきりとわかるだろ？」

　どきりとした。すばるはびっくりしてうなずく。胸の中で考えていること、どうして少女にはわかったんだろう？驚いたすばるの表情に、少女はおかしそうに、くすくす笑う。まるでお陽さまのようだ。

「－－－初めてだよね、会うの？」

　不審に思って訊ねる。

「すばるがアタシと会いたいと思ってるから、アタシはやってきたんだよ」

　また妙なことを云う。でもそう云いながらみつめる少女の瞳は、眼をそらすことができないほど、まっすぐすばるの中に入ってくる。

「アタシが友だちになってあげるよ」

「え……？」

　少女がぴょんと縁側から跳び、夏の陽射しの中に降り立つ。振り返ってすばるをみつめる笑顔は、まぶしいほどだった。

「アタシがここにいられるのも、ちょっとの間だからね、うん、その間すばると遊んであげるよ」

　すばると同じぐらいの歳ごろなのに、ずいぶんと年上ぶってそう云う。すばるにはそれがおかしくって、つられてくすくす笑ってしまった。不思議な子だなぁと考えた。

　それが、すばるにとって初めてできた本当の友だちとの、忘れらない一週間の第一日目だった。

（つづく）