元勝ち組女子による負け犬人生脱出講座

一集

第1話 勝ち組女子の転落



 深山みやまはるかは生まれながらにして、すべてを持っていた。


 裕福な家に優しい両親はその最たるもの。

 容姿に関しても、人より色素の薄い茶色の髪と瞳は彼女の特別感を殊更に演出していたし、白い肌は彼女のほっそりとした体を実に繊細に見せていた。

 整った目鼻立ちは10人いれば9人は振り返るもので、穏やかな性格が表情に現れ、たいてい口元は笑みを形作っている。


 勉学で苦労した覚えはない。身体を動かすのだって嫌いではなかったし、周りの友人・先輩後輩・恩師に親戚、近隣住民に至るまで多くの人に恵まれ、欠けたところのない人生を送ってきた。


 要するに努力ではどうにもならないものを全て持っていたのだ。

 容姿端麗、成績優秀で運動神経もよかった上に、環境にも恵まれた。

 まさに神に愛された娘と言っても過言ではない。


 当然、蝶よ花よとちやほやされて生きてきたが、遥には幸いにも何かをしてもらったらそれ以上になにかを返そうと思う生来の気質が備わっていた。


 そう、なによりも恵まれた環境に驕らない素直な性格こそが、彼女の最大の魅力だといえるだろう。


 だが、ある日のことだ。

 まるで神が与え過ぎた過剰恩恵分の回収を図ったかのごとく、大した困難を経験してこなかった彼女に突如災厄が降りかかった。


 17年の順風満帆な人生の反動は、とても大きかったと言える……のかもしれない。




§   §   §




「あ、ハンカチ落としましたよ!」


 始まりは標準装備の親切心を発揮して、そんな一言を声にしてしまったこと。

 少し前を歩いていた、別の学校の制服を着た少女。彼女が目の前で落とし物をしたのだ。


 遥にとってそれは意識するより先に出た行動。目の前で落とし物をした人がいたら声をかける。当たり前だ。そうしない理由を探す方が彼女には難しい。


 けれど多分この場合に限っては、きっと正解は『見なかった振り』だった。


「え? ああ、すみません」


 声をかけた彼女は自然な動作で振り返った。

 幾分かゆっくりと目線を落とし、自分の持ち物が道端に所在なさげに落ちているのを確認してからしゃがみ込む。

 同時に、慌てて駆け寄っていた遥もまた手を伸ばす。


 ――そして一瞬だけ、偶然にも指が触れた。


 なんてことのない日。

 なんてことのない一場面。


 変化に必要だった時間は一瞬より更に少ない。


 ぐるりと視界が回って、遥は目を瞬いた。

 それは違和感と呼ぶには小さすぎて、だが見過ごすにはあまりにも不明瞭。


 なにかが起こった。けれど、何かはわからない。

 怪訝な表情になるくらいには、不可思議な感覚が遥を困惑させた。


 内心で首を傾げながら拾い損ねたハンカチから目を離し、遥は顔を上げる。


「え?」


 人はあまりにも驚くと大仰な反応は返せないらしい。

 遥はごく小さな声を出すことによって、やっと感情を表に出した。


 目の前には自分の顔があった。

 ……それ以外に言いようがない。


 目の前の、自分の顔をした少女も時を同じくして戸惑いの声をあげた。


「あら?」


 穏やかに聞こえるほどに、ゆっくりとしたトーン。

 自分の顔であるならば、あれは自分の声なのだろう。傍から聞くとこんな風に聞こえるのだな、なんてこちらもまた呑気なことを考える。


 しばし無言になった遥と遥。

 ようやく思い当たる推論を完成させて遥は目の前の自分に声をかける。


「……ドッペルゲンガー??」


 鏡の中で見慣れた顔が寸分たがわず目と鼻の先にあるのだから、そんな発想にもなるだろう。

 出会ったら死の予兆ではなかったか、なんて考える隙もない。


「なるほど。そうなるのね」


 遥の言葉に反応したのか、鈴のような声でドッペルゲンガー(仮)がくすくすと笑った。


 あら、かわいい。

 よくよく考えると実にナルシスト臭い感想だったが、遥は素直にそう思った。

 見慣れたはずの自分の顔が、なぜか自分と同じものとは認識できなかったことが大きいだろう。


 変化をもう一つ見つけて、そういえばと遥はきょろきょろと周りを見渡した。


「……あれ? さっきまでいた女の子は?」


 先ほどまでいた、ハンカチ少女の姿がいつの間にか消えている。


 つまり状況を整理すると一人の少女が消えて、目の前に自分が増えている。という事になるのだが、それを紐づける余裕は遥にはなかった。


「ハンカチを落とした女の子がここに居たハズなんだけど、」


 知ってる? と、ドッペルゲンガー(仮)の存在を一先ず置いて、それをドッペルゲンガー(仮)本人に尋ねたことが、遥の混乱ぶりをよく示している。

 質問されたもう一人の遥はきょとんとした。


「なにを言ってるの? あなたも、私も、ここに居るじゃない」

「……はい?」

「私が『深山遥』で、あなたが『鈴代すずしろ冬子とうこ』。冬の子、と書いて冬子」


 ね? と可愛らしく首を傾げて、彼女は物わかりの悪い子供に言い聞かせるようにそう言った。


「え?」


 聞き覚えのない名前。訳の分からない状況。

 相手も一緒に混乱してくれていれば、少しは冷静にもなれただろうが、自分の顔をした誰かは遥の混乱に拍車をかけるだけで、遥に頭を整理する時間を与えてくれたりはしなかった。


 ……とはいえ、中途半端に時間を与えられても、冷静になれる自信は遥にはまったくなかったが。


 そこからの記憶は実に薄い。

 遥が「え?」を100回くらい連発している間に、すべては済んでいた。


 つまりは、見知らぬボロアパートの中で、一人佇んでいるのである。


 ドッペルゲンガー曰く、何かが起きたのは確かだ、と。

 そこの「なにか」を詳しく! と言っている暇はなかった。その間、遥は「え?」をどうにか音にすることに大変忙しかったのだ。


 新たな情報を開示されるたびに先の「え」を上回る疑問に上書きされて、ついぞ意味のある文章どころか単語すら発することも叶わなかった。

 むしろ混乱していることを声に出来ていただけでも上出来だと自分では思う。


 そして強引に手を引かれ「ここが今日からあなたの家よ」と置いていかれて今に至る。


「じゃあ、頑張ってね!」

 とてもいい笑顔で去って行った自分。


「え?」

 目が点とはまさにこの事だ。


 靴を履いたまま閉じられた扉を呆然と見ていた遥は、伸ばしかけた手も、自分のあらゆる感情を一声に込めた「え?」も、もはや届くことはないのだと遅まきながら気づく。


「……ええと」


 暗いままの玄関。先ほどから視界の端でちらちらと存在を主張してくる全身鏡。……の中に映るもの。


 幾度かの深呼吸を挟んで、遥はぎこちない動きで玄関横の鏡に向き直り、現実の第一歩をやっと踏み出す気になった。


 映った姿。

 たっぷり時間をかけ、全身をくまなく観察してから、バンと鏡に手をついて遥は叫んだ。


「えええええええええ!!!!! 誰!!!!????」


 いつもより低い声。

 お世辞にも鈴を転がすような、とは言えない掠れ気味の音は遥の心情を如実に表した言葉となって飛び出した。


 その先は言葉にすらならない。


「ななんあcmflktじあえrjt」


 別人である。

 鏡がマジックミラーでもない限り、そこに居たのは遥ではない。

 共通するところを探す方が難しいくらいに、かけ離れた見た目の、完全なる他人。


「まままっまままって。待って、ちょ、まって。そう、覚えは、……ある、かも!」


 いつまでも驚いてはいられない。

 混乱のさなかにあって、遥は一つの事実に気づいた。


 この顔に、姿に、見覚えはなくはない。

 そう。

 「なにか」が起こる前に出会ったハンカチ少女。

 彼女その人だ。


 少々ぽっちゃりで(お世辞)、少々青春の象徴が目立って(社交辞令)、少々……清潔感がない(オブラートにも包めない)。

 道幅をなかなかに占領していたので、遥も彼女が落とし物をしたことにすぐに気付いたくらいだ(視界の大部分が彼女だった)。


 ぺたぺたと顔を触る。

 いつものサラサラな感触ではないけれど、ちゃんと触れている感覚はあった。

 むにりと分厚い頬の肉を引っ張る。痛い。

 行動と感覚がちゃんとリンクしていた。脳はコレが自分の顔だと認識しているらしい。


「なにコレ。ドウナッテンノ?」


 うそでしょ。

 現実?


 受け入れ難過ぎて脳がオーバーヒート気味だ。自己防衛機能が作動して、無理矢理意識がシャットダウンしそうな気配に慌てて頬を叩く。

 いま倒れても何の解決にもならない。自分に対する叱咤だった。


 が、痛みは感じても、分厚い肉に阻まれて脳まで衝撃が通らない。なんてことだ。


「……つまり?」


 うんうんと唸りながらいまいちまとまらない思考を必死にかき集める。

 努力空しく『冷静さ』は帰還の気配もなく、なんだかいつか見た有名映画のキャッチコピーが頭の中をどたばたと駆け回っていた。


 すなわち、

「わたしたち、入れ替わってる!!!????」


 そういうことなのだろうか。


「…………いや、んなわけないでしょ」


 ふっと笑う。

 ニヒルに決めたつもりだったが、鏡の中の顔はぴくりともしなかった。肉が厚すぎる。

 感情を周囲に知らせるには表情筋を最大限に使役する必要がありそうだ。たぶん、舞台俳優並みに。


「ないない。絶対夢だ、コレ」


 寝よ。

 ぼそりと呟いて遥は精神的疲労からくるものではない、物理的に重い体を引きずってベッド、もとい引きっ放しの布団に倒れ込んだ。


 どすんという音に床が抜けないかと一瞬ひやりとする。

 いつもの調子で行動していると痛い目を見そうだ。


 湿った布団の冷たい感触は初めて味わうものだったが、まったく許容する気にはなれなかった。


「やっぱ夢だわ」


 重量級の体も、べたつく長い髪も、混合肌っぽい荒れやすい皮膚も、なにもかも。

 自分とは共通点の一つも見つからなくて逆に現実感が薄すぎる。


 夢にしてはオリジナリティあふれ過ぎてやしないかとか、これを自分の脳が作り出しているのなら天才級の想像力なんじゃないのかとか、取り留めのない思考が行き過ぎる。


「――なんの生活音もしないのね、この家」


 するのはミシミシとどこかが軋む音だけ。歩いてもいないのに家が鳴るとは、これ如何に。


 実は布団に辿り着くまでに襖やら扉やらを片っ端から開けたが、家には誰もいなかった。

 すでに日も沈んで久しいというのにである。

 いつでも小さな生活音がしていた深山家とは大違い。人の気配のない家というものは、逆に耳に痛いくらいだと初めて知った。


 普段なら今頃明るい食卓を囲んで家族団欒をしている時間。

 彩りにあふれ栄養を考えられた暖かな食事。料理自慢の母と仕事から帰ってくる父を待って、一日の出来事を話しながら和やかな夜を過ごす。


 だというのに誰もいないなんて。


「登場人物を削る低予算映画かよって、……ね」


 自分で言って笑ってしまった小さな呟きは部屋の澱んだ空気に吸い込まれた。




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