この農村は、領主の館をなだらかな丘の上に頂く構造であり、全体的に村全体が傾斜の上になりたっている。

 村の奥へと進むためにある石畳パヴェの路は全て、緩やかではあるものの坂になっており、周囲の家々同様にところどころその石が欠けていた。けれど、ゴミが散らかっていたり、動物の死骸がその場に捨てられているわけでもない事からも、先ほど感じたようにさほど豊かというわけでもないが、かといって貧村というわけでもないのだろう。

 それを裏づけるようにその坂を上り切ってすぐ視界に飛び込んでくるのは、この集落には珍しい二階建ての大きな建物。その前にはちょっとした広場があり、昼時のためか人の姿で賑わっている。

 他の民家とは違って漆喰が剥がれ落ちている様子もないし、恐らく富農の有する居酒屋なのだろう。人々が出入りしては、何やら食べ物や飲み物を持って出て行く姿が見てとれる。


「随分混んでおるようじゃのぉ」

「昼飯時だからな。ま、どっかには座れんじゃねーの」


 身長的に、どうやっても人に溺れそうになってしまう黒づくめの幼い魔女の肩を掴み、ひょい、と片肩へと担ぐと、レオニダスはきょろきょろと辺りへと視線を流す。すれ違う人が思わず二度見をするのが目に入るが、荷物のように抱えられるアリスにしても、彼女を抱えるレオニダスにしても既にこの状況に慣れ切っているので、特に気には留めない。

 ぷらんぷらんと、視界の端で少女の革靴ブーツが揺れる。


「……麦がゆオートミールを食べておる輩が、目立つの」

「あ? そか?」


 肩口で後ろを向きながら喋るアリスに、レオニダスは語尾を持ち上げながら、ふ、とテーブル席へと視線を向けた。僅かな量のチーズに根菜のスープ、地産のエールを楽しんでいるようで、恐らくすぐそこにある居酒屋で買ったものなのだろう。

 そして、アリスの言う通り、それらと共にテーブルの上にあるものは、どろどろに煮込まれた麦がゆだった。彼らの職種の大半が農民である事を考えれば、歩きながらでも畑に向かえるパンの方がいいだろうに、見回す限りパンを食している人間は確認出来なかった。


「まともにパンも売ってねぇくせに、何がパン屋だ!」


 この村では、パンよりも麦がゆの方が主流なのかと思ったちょうどその時、突然大声が前方で上がる。レオニダスは開きかけた口のまま、同じように肩の上でそちらへと視線を向けたアリスの菫色ヴァイオレットと自身の琥珀アンバーを合わせると、騒動の場所へと人を掻き分けるように進んでいった。

 石畳にやや駆け足を落として行った先に、アーチ形の大きな窓の外に台を出した民家があった。他の家とは違い漆喰はしっかりと塗り固められており、瓦も欠けたところはなく、建物をきちんと管理している事が伺える。

 その建物の前にいたのは、赤毛を編み込み、白い頭巾コアフを被る女。腹が大分せり出ている様子からも、恐らく妊婦だろう。そんな彼女を囲むように、農民とおぼしき数人の男がいた。


「何だいっ、まともに売ってないたぁ聞き捨てならないねっ! ここにあるビスキュイが、アンタにゃ見えないのかい!?」

「はっ、まともなパンひとつ売らずに、ビスキュイだけ並べといて偉そうな顔してんなって事だよ!」

「はぁ!? 何、寝ぼけた事ぬかしてんのさ! まともなパンを焼いて欲しけりゃ、ちったぁ小麦持ってこいってんだ!」


 大柄の男相手に怯むことなくポンポンと言い返す女に、「どっかのクソチビと同じで気が強ぇな」と唇の端を吊り上げると、ぷらぷら遊んでいた少女の小さな革靴が、彼の腹部へとガッ、と入り込んでくる。


「……ぐっ!」

「何ぞ言ったかえ?」

「お前な……、まず、その物理的解決に走るクセどうにかしろ……」

「躾のなってないわっぱには当然の仕置きじゃ」

「ちんちくりんのクソガキに言われたかねーよ!」

「全く。おんしは、わらわのような幼き乙女の一撃如きで、めそめそと。情けない限りじゃのぅ」

「どこに、幼い乙女とやらがいんだっつーの。お前みてぇのは――」


「クソアマぁッ!!」


 誰かが自分の胸中でも読み取ったのかと思ったほどにタイミング良く、前方から荒々しい声が響く。レオニダスは一瞬ギョ、と目を見開き、その言の葉が自身の口から出ていなかった事に、内心ほっと息を吐いた。

 そして、ハッ、と声の上がった前方へと視線を再び走らせれば、パン屋に群がっていた農夫たちが、どうやらあの赤毛の女との諍いの終着点として太い腕を振りかぶる事を選んだようだ。


「チッ!」


 少年は魔女の小さな身体を抱えたまま、足裏を弾き、両者の間に飛び込んでいく。その腕が女へと振り下ろされた、その瞬間――。


「キャァアアッ!!」


 その悲鳴を上げたのは、いままさに殴られようとしている赤毛の女か。それとも周囲にいる人間からだっただろうか。

 農具を持つ事に慣れている拳が力任せに降ってくるのを、レオニダスは自身の手のひらで受け止めた。パン、と弾けるような音と共に、彼の手のひらが軽い痺れを滲ませる。

 少年の眉間に、やや不機嫌そうな皺が刻まれた。


「な……んだ、何だよ、お前は……」

「あ? 見りゃわかんだろ。よそモンだよ」

「だ、だから、何だってよそ者が……」


 頭に血が上っていた状態を突然止められたせいか、それとも見知らぬ人間の登場に驚いたのか。先ほどまでの剣幕が嘘のように、男は一歩、二歩後ずさりながら、もごもごと口を動かした。

 日頃、農作業で身体を鍛えている為、筋力は十分ありそうだが、自身の頭上に落ちるレオニダスの影に体格差では叶わないと怯んでいるのかもしれない。腹に子を抱えた女相手にやりたい放題やっていたくせに、どうやら思っていた以上に根性なしらしい。


「何だよ? まだ何か用なら、受けて立つぜ」


 乾いた笑いを鼻先で弾きながら眉を持ち上げると、男たちの顔が悔しそうに歪められた。自分たちよりも十近く年下と思われるレオニダスに、ここまで馬鹿にされていながらそれでも言い返して来ない辺り、筋金入りのクズである。


「おい」


 対峙していた彼らの姿が、じりじりと下がり、ついに人だかりの中に消えた頃、肩口から突然傲慢な声がかけられ、視界の端でもぞりと黒が動いた。レオニダスが荷物のように担いでいた小さな身体から腕を離すと、ぴょん、と少女が飛び降りていく。

 ふわ、と遅れて豪奢な巻き毛がその後を追い、革靴ブーツの裏が小さな音を立てながら石畳を舐めた。

 豊かに巻かれた黒髪ブルネットに白い肌。長い睫毛に珊瑚色の唇。世間的には恐らく「愛らしい」と呼べる外見の少女の存在を、周囲はようやく認識したらしい。遠巻きに事態を眺めていた人々の視線が、彼女の行動へと集まる中、全く気にする素振りもないように、少女はパン屋の台の前まで歩を進めていく。


「ふむ。ほんに、ビスキュイばかりじゃのぅ」


 レオニダスが彼女の後を追い、台の上を見下ろせば、確かにそこに並べられているのは材料こそパンと変わらないものの、ふわりとした食感とは程遠い硬いビスキュイばかり。二度、火に通すのでパンに比べかなり日持ちがする事から、旅人や船乗りなどは好んで買うものだが、確かにそこに住む住人へ売るものとしては適していないのかもしれない。

 他の村で売っているのを見かけたことがないとは言わないが、あくまでも非常食という扱いだったように思う。


「おや。お嬢さんも冷やかしかい?」

「随分なご挨拶じゃのぉ。先ほど助けてやったのは誰だったか、お忘れかえ?」

「……確かに、まずは礼が先だったね」


 女はふ、と頬に柔らかさを滲ませて、声を温度を上げた。


「いや、実際ほんと助かったんだ。アタシはともかくとして、腹のこの子に何かあったらって思うと今更震えがくるよ。ありがとうよ、お嬢さん」

「うむ」

「いや、『うむ』じゃねーだろ。何、当たり前みたいな顔してお前が礼受けてんだ。助けたの俺じゃねーか」

「あはは。兄さんにも感謝してるよ。強いんだねぇ、アンタ。あのドニたちがビビって逃げちまうなんてさ」


 周囲へ視線を巡らせれば、騒動が片付いた事でみんなまた各々の昼食の時間へと戻っていた。すでにドニという名らしい男の姿もこの広場にはないようだ。


「そういや、ふたりはどういう関係なんだい? 見たとこ、兄妹……家族にゃ見えないけど」


 不意に、向けられた質問に、レオニダスの身体がぴくりと小さく動く。

 彼女と出会って以降、行く先々で、この質問は何度も何度もされてきた。

 周りから見て、明らかに他国よその出自とわかるレオニダスと、ようやく幼子から抜け出したばかりのように見える・・・・・・・年齢のアリス。そのふたりが連れ立つ関係性など、一般的な価値観からかけ離れている事だけは確かである。

 ちら、と彼女を見下ろすと少女の菫色の瞳もまた彼へと一瞬向けられている。その奥に、どうにも意地の悪そうな光が宿っている事が何とも腹立たしい。


「下僕じゃ」

「赤の他人だ」


 吐き捨てるように告げた声に被せるように、少女の声が重なった。途端に、眉間に皺を寄せたレオニダスに、女はぶはっと堪えきれないように笑いを吐き出す。


「あははっ、了解、了解。深い追及はしないでおくよ。って、あ、そうだ。どうだい、昼がまだなら、お礼に好きなの持ってってくれていいよ」


 ま、好きなのったって、ビスキュイしかないんだけどさ。

 笑いながら台の上に転がるビスキュイへと女が手を伸ばしたその時に、ゴォン、ゴォン、と空に鐘の音が響いた。どうやら時刻はちょうど正午を迎えたようだ。

 先ほどちらりと見えた教会で、修道士たちが鐘をついているのだろう。


「ぼちぼちうちの亭主も畑から帰ってくる時間だねぇ」


 そう呟いた女ちらりと見ながらをもらったビスキュイへと歯を当てると、さくりとした香ばしさが口の中で解けるように広がった。

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