朝焼けの獅子と夜明けの魔女

笠緖

序章

 それに気づいた事は、ただの偶然。

 そこに意識が向いたのは、きっとほんの気まぐれにすぎなかった。

 南の空が禍々しい赤に染まっており、神経を研ぎ澄ませるように耳を傾ければ、怒号と悲鳴、金属のぶつかり合う音が聞こえる。

 すん、と鼻を鳴らせば、流れてくる風が血と煙、微かな死臭を運んできた。

 集落同士の小競り合いか、それとも奴隷集めのための人狩りか。

 いずれにせよ、物騒な状況になっていることは想像に難くなかった。

 だが、残念ながらそんな光景が珍しいという世の中でもなく、幾度も幾度も、何百年にも亘り人の世で飽きるほどに繰り返されてきたそれに、もはや同情も憐憫もとうの昔に消え失せている。

 ――けれど。


(これは……)


 風に乗って、やってきた血と煙と死臭と。

 そのほかに、自身の肌に確かに刺すように触れてくるものがあった。

 痛々しいほどの怒りと憎しみと――そして、生きようとする強い意思。

 なにを犠牲にしようとも、立ち上がるのだという強い意思を風に感じた。

 南方より届いた風に孕んだそれに、瞼の奥にかつての自身を思い描く。


  ――こんなところで、終えてたまるか。


 終わってたまるか。

 自分は、ここで終われない。

 強い意思は、時に運命の歯車をいくつも廻していくものらしい。


(まぁ、取り立てなにか急ぐ用があるわけでもなし……)


 誰へ聞かせるわけでもない言い訳を胸中で呟きかけ、ふぅ、と息を吐く。

 理由などない。

 理由など、いらないのだ。

 ただの気まぐれに、身体を任せるのもいいだろう。

 なにせ、時間は嫌というほどあるのだから・・・・・・・・・・・・・・・

 そう独りごちながら、赤く燃える空の許へと足を運ぶと、火で炙られ熱した空気が肩口を零れ落ちる豪奢な巻き毛の黒髪を、掻き乱す。空の高い場所からゆっくりと降下した小さな身体が、石畳の上へと音もなく革靴ブーツ裏を落とした。

 ふわ、とスカートの裾が風を孕み揺れ、黒の巻き毛が背中で遊ぶ。髪を手で抑えながら周囲へと視線を流していけば、その場所は想像通りの惨状だった。


(確か……)


 この地方は、確かいくつもの小さな都市を属州とする巨大な軍事国家が治める土地だったはずだ。けれど、その小さな都市ひとつひとつは元々敵対していた都市同士であり、より大きな国家に飲み込まれひとつの国となったところで争い事も日常茶飯事、小さな小競り合いから諍いが始まり、そして都市同士の戦争となることも珍しい話ではないと噂に聞く。


(さぁて、此度もその下らぬ戦争か)


 それとも、新たに生まれた侵略者によって潰えたのか。

 長い長い歴史の中で、幾度も幾度も似たような出来事は繰り返される。


(毎度毎度、名と、場所が違うだけじゃの)

 

 長い睫毛の先に広がる景色は、凄惨のその一言に尽きた。

 菫色ヴァイオレットの双眸が捉える城壁に囲まれた中の街は、火の海に包まれていた形跡がはっきりと見られ、真っ黒に煤焦げている。激しく抵抗したのだろう。奴隷として連れていかれることを拒んだらしい人々が、幾重にも折り重なり倒れていた。

 折り重なる人間の大半が成人男性であることからも、もしかしたら、その他の者を逃すために残り戦ったのかもしれない。否、もしくは彼らはこの街で使われていた奴隷で、見殺しにされた可能性も否定できない。


(ふぅむ。だが、流石にこうなると、生きておる者もおるまいの)


 ここへと自身を誘わせたあの強い意思を持つ人間は、その生命力故に、奴隷として浚われたのか。それともそんな運命に抗い、ここで既に命潰えてしまったのか。火災の痕と絶望の色が濃く滲むこの場所では、風が伝えてきた意識の欠片がなかなか見つからなかった。

 夕陽に染められ上げた城壁の中は、いまはただ全てが壊れた後の静寂があるばかり。


(まぁこれも人の世の定めかのぅ)


 少しずつ、でも確実に世の中は時間が進んでいくというのに、それでも人の生きる場所は、常に残酷な現実が足踏みしている。


「血と炎の先にあるものなぞ、いつの世も絶望の色ばかりじゃの」


 辺りへと視線を巡らせながら呟けば、ふ、と強い視線を感じ、肩越しに振り返る。視線の先には、陽が西の空へと傾きかけるその絵を背景に、積み重ねられた瓦礫の上に立つひとつの影。

 軽く目を細めながら、その影が内包する真実を菫色ヴァイオレットに馴染ませると、紫水晶アメジストのようにその色は夕日の色を弾いた。


「……おんし、」


 年の頃は、十を数えたばかりか。

 まだ親が必要な年頃にも思えるが、彼の傍にはそれらしい人影も気配も全く感じられなかった。


「棄て子か?」


 軽く小首を傾げながらそう問うてみれば、釣り目がちなまなこでキッと睨み付けてくる。既に日常が全て壊され燃やされた城壁の中で、それでもギラギラと命を燃やすように琥珀アンバーの瞳だけが光っていた。

 間違いない。


(こやつだな)


 風にあの意思を乗せてきた輩は。

 珊瑚色の唇は、知らず三日月を食む。


「おんし、名は?」

「……人に名を訊ねるときは、てめぇからいうもんじゃねーのか、よ……っ」


 熱した空気の中、長い時間いたせいかどうやら喉を軽く痛めているらしく、彼の掠れた声が言の葉の終わりを紡ぐその前にケホッ、という空咳に取って代わった。けれど、短く刈られた金の髪が、まるで威嚇するかのようにふわりと宙に揺れている。

 骨と皮だけの痩せっぽっちのくせに、気だけは一丁前に強いらしい。


「おいこらわっぱ。死にたくなくば、わらわに着いて来やれ」

「あぁ!? お前の方がガキじゃねーか」


 くるりと踵を返しながら、肩越しに金の髪を持つ少年へと声をかけると、やはり返ってきたのはどこまでも可愛げのない減らず口の一言だった。

 もっとも、彼がそう返すのも無理はない。

 なにせ自身は、彼よりも三つ、四つほども年下の姿をしているのだから。

 ふ、と唇へと薄く刷いた笑みを弾くと、視線を彼から再び周囲へと流す。

 そこにどんな理由があったかは与り知らぬ話だが、とにもかくにも多数に攻め込まれ、高熱の炎で日常を奪われた城壁の中の世界。

 煙と血と、死のにおいが漂うその場所にありながら、黄金の色彩を持つ少年から感じるものはただただ生きようとする強い意思。

 何者にも屈しない、強い魂。


「せっかく死に損ねた命だというに、これこのような場所で無駄遣いするなど阿呆のすることだとは思わぬか」

「俺は死に損ねたんじゃねぇ。生き残ってやったんだ!」

「なればこそ、無駄な意地を張らず、着いて来いというておるに」


 これ以上の問答が面倒くさくなり、指先で軽く宙を切ると、少年の骨と皮ばかりの細い身体がふわ、と浮いた。


「……ッ!? な、んだ、こりゃ……ッ!! おい、下ろせッ!! なんだこれッ!!」

「あぁ、これ。暴れるでない。おんしのような骨と皮だけの喧しいわっぱ、誰も取って食やせんわ」


 それでもジタバタと宙で暴れていた彼は、自身の目の前へと下すとようやく喚いていた口を閉じた。けれど、頭ひとつ分上にある琥珀アンバーが、戸惑いの感情を孕みながら見下ろしてくる。


「…………お前、あれか。魔女ってやつか?」

「そう言うたら、恐ろしいかえ?」


 睫毛の先を彼へと向け、真っすぐに菫色ヴァイオレットの瞳で挑発的に微笑んでやると、瞬時に険が瞳に走り、鼻筋に不機嫌な皺が刻まれた。


「お前みたいなチビに、誰がビビるか!」

「……これはまた、勇ましいわっぱじゃの」


 菫色ヴァイオレットの瞳を向けながらそう嗤ってやれば、彼は一瞬で鼻に皺をいくつも刻み、唸るように歯を見せた。


わっぱじゃねぇ! レオニダス、だ!」


 橙に染まる空に、黄金の髪が揺れる。

 噛みつくように紡がれたその声は、未だ声変わりも知らないというのに、何故かその名が示す通り獅子のように思われて――。


(まぁ、百獣の王にしてはカワイイもんじゃな)


 減らず口を叩く小生意気なそのサガに、唇に溶かしていた笑みを果実を愉しむように口の中で転がした。


「……アリスじゃ」

「アリス??」

わらわの名じゃ。そう呼べ」


 のぅ、わっぱ

 血と煙と炎に包まれた石畳の都市から背を向けて、一歩踏み出した魔女は、いまだそこへ立ち止まったままの少年へと肩越しに振り返る。


「……ッ、誰が呼ぶか! このクソチビが!!」


 アリスの豪奢な巻き毛が遊ぶその向こうで、夕焼けを背に小さな獅子が金色の髪を逆立て吠えた。







 ユートネルと呼ばれる大きな大きな大陸が、あった。

 西方にどこまでも果てしなく続く海を臨むその大陸は、神と呼ばれる存在の零した涙の上に浮かんでいるとも、その大陸そのものが神の御手なのだとも伝説は云う――。

 神の恩寵の許、永遠にも思われたそのゆりかごで、いくつもの国が戦火の中から生まれ、そして再び戦火の中へ消えていった。

 何十年も何百年も、飽きることなく繰り返されたそのわざわいは、神の涙からなる海のあぶくから突如生まれた「悪魔」が引き起こし、その悲劇は糧となるらしい。

 その忌まわしき「悪魔」に忠誠を誓い、彼の者の血を呑み、交わった存在。

 それを、人は「魔女」と――。


 そう、呼ぶ。

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