第9話

翌日の昼、僕は前田さんの店に行った。客は相も変わらず少ない。・・・というより僕のほかに誰もいなかった。夏いっぱいこんな状態が続いてやっていけるのかと心配になってくる。入って来た僕を見て前田さんは、こくりと頷くとメニューを書いた小さな黒板を持ってきた。

「今日は一人なの?」

「うん、今日もお客さん少ないですね」

「夜はそこそこお客さん来てくれるから大丈夫だよ。本当はお昼は閉めてもいいんだけどね、ランチを楽しみにして来てくれるお客さんもいるし、君みたいにランチ以外では会えなくなっちゃうお客さんもいるから」

そう言うと前田さんはにやりと笑った。

「すいません。これからはなるべく夜も来るようにします」

「いいんだよ。そのうち小説が売れてがっぽり儲けるようになったら高いワインでも飲みに来てよ。夜はどうしても高いからね。無理しなくていいよ。ランチは趣味でやっているようなものだけど、時々夜のメニューにするために新しい工夫をする場でもあるんだ。実験的なメニューってやつだね」

前田さんはそう言ってから、

「それにしても今日はなんか元気なさそうだね」

と僕に尋ねてきた。その言葉で僕は突然理解した。そうだ、僕がここに来たのは怜が旅立ってしまう喪失感を話せる相手が今の僕には前田さんしかいないからなのだ。

「分かりますか?」

「だってさ、来てすぐに溜息ついていたじゃない」

「気が付かなかったな」

「ずいぶん大きな溜息だったよ。この間やってきたあの子と何かあったの?」

あ、そうじゃないんです、僕は手を振った。

「前田さんは覚えていないかも知れないけど、だいぶ前に女の子の友達を連れて来たでしょ。あの子が外国に行っちゃうんですよ。なんだか淋しくなっちゃって」

ああ、あの元気そうな女の子ね、と前田さんは笑った。

「九州から来たって言っていた子だ」

「ええ」

前田さんはふうん、と眉を顰め、

「そうか、それは淋しいね。彼女とは・・・つきあっていたの?」

と、探るような眼をした。

「いえ、単なる友達でした」

 一度そうなりかけたこともあったけど、とは口にしなかった。

「へえ、そうか。僕はてっきりこの間の娘さんと喧嘩でもしたのかと思ったよ」

「そんなことはないですよ。昨日まで一緒に旅行していたくらいですから」

前田さんは僕を、びっくりしたようにまじまじと見つめた。迂闊に旅行などと口走ってしまったおかげで、僕は斎藤さんのお父さんから呼び出されたところからのいきさつを前田さんに話さざるをえなくなった。サイトウと一緒に夕陽を僕が見たその丘に行きたいと言ったあの子と旅行したけど、でも当然泊まりは別でしたよ。そう僕が言うと、

「そりゃあ、まあ」

口を尖らして前田さんは腕を組んだ。

「あの子のお父さんもずいぶんと思い切ったことを頼んだものだね」

「そうですね、普通に考えれば」

前田さんは水の入ったコップを僕の眼の前に置いて僕の前に座ってしばらく考え込むとゆっくりと切り出した。

「この前、あの子と西尾君を見てね、昔よく通ってきてくれたお客さんを思い出したんだ。二人で・・・ご夫婦なんだけどね」

「はい?」

「旦那さんが四十半ばで、奥さんが二十八くらいだったかな。とても仲良しの夫婦でね」

前田さんが何の話をしようとしているのか分からなかったけど僕は、じっと聞き耳を立てた。前田さんはえへん、と咳をすると

「ご主人は設備会社に勤めていてね。仕事の関係で今は日本にいないんだけど、前は良く来てくれてたんだ。それである日見ちゃったんだ。奥さんの方の左の手首さ、いつもは隠しているみたいなんだけどリストカットの痕があってね」

「ほんとうですか?」

「とても綺麗な奥さんなんだけど、そこだけは随分ひどい傷跡になっていてね、はっとして運んで行った水を溢しちゃったんだよね」

「はい」

「そうしたら、みつかっちゃいましたね、って奥さんが言ってね、話してくれたんだ。深刻な話だったけど、でも話してくれた時はもう吹っ切れていたんだろうな。明るく話してくれたんだ」


その奥さんは中学生の時に両親が離婚して、その時親同士の泥仕合に巻き込まれたんだ。結局お母さんの方に引き取られたんだけど自分の両親が相手を傷つけあうのに耐えられなくてぐれちゃって、一時はドラッグにも手を出したこともあったそうだ。

 根は真面目だったんだろうね。十八歳の時に悪い仲間からなんとか抜け出した。でも抜け出しても明るい未来なんかどこにも見えなかった。高校も中退しちゃってまともに働ける先なんかなかったらしい。住むところを見つけるのだって大変だったって言っていたよ。保証人が必要だからね。水商売は嫌だと思ってバイトを掛け持ちしていたんだって。でもやがてバイト先とアパートを往復するだけの生活に疲れてしまったんだね。そんなこんなで昔と同じような暮らしに戻るか自殺するかどちらかしかないと思うほどに精神的に追い詰められた彼女は後者を選んだ。小さなアパートの風呂場で本当に死ぬ気で彼女は手首を切った。殆どためらいもしなかったって言ってたよ。でも薄れていく意識の中でドアをがたがた鳴らすような音が聞こえたんだそうだ。

 そのまま意識を失って、翌日眼が覚めたとき彼女は病院のベッドの上で眠っていた。手首には包帯がきちんと巻かれていた。どうしたんだろう、誰が私を助けたんだろうって考えても彼女には誰も思いつかなかった。昔の悪い仲間とも手を切っていたし離婚した両親とは音信が途絶えていた。バイトも長続きはしなかったしようやく見つけたバイト先でも友達なんかできなかった。

 誰一人として彼女の部屋を訪れた人もなかったのに・・・。そう考えながらベッドで寝ていると一人の男性が見舞いの花束を持って彼女の病室に入ってきた。どこかで見たことのある人だなあ、と思ったけど誰なのか最初は分からなかった。

「大丈夫?」

その人は優しく聞いたそうだ。

「僕のこと分かるかな?斜め向かいの部屋に住んでいるんだけど」

ああ、そうだ、と気が付いた。時々廊下で見かけたことがある。挨拶くらいはしたこともあった。でもなぜ?

「昨日、君を見かけた時ね、なんだかとっても変な気分がしたんだ。あ、この人死のうとしているなって。どうしてだろうね」

白い歯を見せてその人は言った。

「僕も時々死にたくなることがあるよ。勤めていた会社が潰れちゃってからは特にそうなんだけど。助けて迷惑だったかな?」

彼女は首を横に振って、何で死ぬしかないと思ったのかなと思った。誰も見てくれていない、誰も相談する人なんかいない、そう思っていたのに一度も話したこともない人が私を見ていてくれた。

「悪かったかもしれないけど大家さんと一緒に部屋の中を探してお父さんの連絡先を見つけておいた。たぶんお昼ごろにいらっしゃると思うよ」

父親は北海道に移り住んでいた。何年来あったこともない。それなのに彼女は急に父親が懐かしくなった。

「はい、済みませんでした」

彼女は素直に謝った。

「また、お見舞いに来るよ。仕事探し中だからさ、いつでも来れる。それだけが今の僕のメリットさ。でも良かったら相談に乗るよ。大家さんも心配していたよ。まあ、自殺されたらたまったもんじゃないと思ったのかもしれないけどね。大丈夫。僕がきちんと面倒見るって言っておいたから。追い出されるようなことはないと思うよ。根はいい人だからね」

「ありがとうございます。本当にご迷惑を掛けてすいませんでした」

「大家さんにもそう言っておいた方が良いよ。一緒に後片付けをしてくれたからね」

そう言ってその人は花束を花瓶に挿すと、

「まあ、ゆっくり休みなよ」

という言葉を残して病室から出て行った。

それから彼女は三日間入院した。傷は思ったより深く出血がひどくて、彼女は眠っていたから気が付かなかったけど自殺を図った当日は一時危なかったらしい。彼は毎日花を持って見舞いに来てくれた。退院する日に

「仕事が見つかったよ。君は僕の幸運の女神なのかな」

そう言った彼はとても幸せそうに見えた。

「君に最初に話したかったんだ」

「おめでとう。良かったですね」

そう言った彼女に

「今度は君の番だ。僕も手伝うよ」

彼女の仕事はなかなか見つからなかったけれど短期間のアルバイトを幾つか勤めたあと二人は引っ越して一緒に住み始めた。入院やら何やらで彼女の貯金が底をついているのに気づいた彼がそう提案し、彼女が受け入れたのだった。ただし一緒に住むだけということでそれ以外の関係はお互いに避けた。前より少しだけしか広くない部屋だったけど、二人で住むと以前住んでいた部屋より却って狭くなるほどだったけれどそれでも二人はとても幸せだったそうだ。そして彼女に彼が必要だったようにいつしか彼にも彼女が欠かせない人になっていた。やがて二人は付き合うようになりそして結婚した。


「何となくその夫婦の事を思い出しちゃってさ、なぜだろうね」

僕は前田さんを黙ってじっと見ていた。

「どうして、旦那さんの方は彼女が死のうとしているって分かったんだろう。それって運命じゃないか。運命で結ばれていることってあると思うんだよね。僕には西尾君が彼女を見つけたのも運命のような気がするんだ」

その夫婦の顔を思い浮かべたのだろうかふっと笑うと

 「あ、いけない。野菜をだしておかなけりゃ」

 慌てたように言って前田さんは厨房に入って行った。僕は黙ったまま眼の前のグラスを眺めた。冷たい水の入ったグラスの表面で水滴が涙のようにゆっくりと流れ落ちて行った。厨房から前田さんが

「西尾君の方から彼女を離しちゃだめだよ。彼女は今君を必要としているんだと思う。そしていつか君にとっても彼女は欠かすことのできない人になるような気がする。今は彼女の方がずっと傷つきやすいんだ。だから・・・離すくらいだったら最初に声をかけるのを止すべきだったんだ。逆さ回りさせると運命は残酷な仕打ちをする」

そう言った。僕は沈黙したままグラスを見つめ続けた。グラスの涙が落ち切って消えるまで・・・・。涙で濡れていたグラスはやがて光を孕んでグラスの向こう側の景色をはにかむように映し出した。

「ところで食事は何にする?」

前田さんが尋ねた。

「どれが実験的なメニューなんですか」

メニューの黒板を見ながら僕は尋ねた。

「あ、それ」

前田さんは一番下のメニューを指した。そこには冷製トマトパスタde Japonと書いてある。

「何が実験的なんですか?」

「そうめんで作ってみたんだよ。オリーブオイルに良く合うんだ。ちょっと時間を短く茹でると延びないんだよ。くっつかないようにオリーブオイルをたっぷりとまぶすのがこつさ」

「じゃあ、それで」

 僕がそう答えると前田さんは厨房に入って行った。ケセラセラを鼻歌で歌いながらフライパンを回す前田さんの姿を見ながら、ちゃんとした人間になるためには僕に助けてもらわないと、と言った時の斎藤さんの真剣な眼差しを僕は思い出していた。

 やがて前田さんが硝子の器に冷製パスタを入れて持ってきた。

確かに美味しかった。そうめんと冷たいトマトスープやオリーブオイルは相性が良くて、のど越しがとても良い。ニンニクの香りが食欲を誘い、大葉が爽やかに味を引き締めていた。

「美味しいですね」

そう言うと前田さんは眼を細めた。

「そう?そうめんていろんな食べ方ができるんだよ。茹でて冷やしてキュウリをのっけて食べるだけなんてもったいないよね」

「うん、これ夏の定番にいいと思いますよ」

僕は思わず声を強めた。その言葉に前田さんは嬉しそうに頷いて、冬には温麺でスープパスタを試してみようかな、と呟いた。


怜が日本を離れた四日後、シャルルドゴール空港の消印が押してある空色の封筒が郵便受けに届いていた。封筒の裏側には怜という見慣れたサインとウィンクをしている怜の似顔絵が描かれていた。僕は封筒を丁寧に鋏で開けた。

「諒クン。この手紙を諒クンが読んでいるころには私はパリのセーヌのほとりできっとお茶を飲みながら素敵なフランスの男性にさっそく口説かれていることと思います。ざまあみろ、諒。私は結構いい女だし自分で言うのもなんだけど日本人にしてはグラマーだし(グラマーっていうのは日本では死語かしら?)きっとパリではもてているに違いないよ。ははは。

 でも・・・私たちは、別れたわけじゃないよ。諒クンとはこれからもずっと友達でいたいもの。

 ずいぶん前からいつか行きたいと思ってフランス語の勉強をしていました。急にポジションに空きができたの。出発まで短期過ぎて他に応募者がなかったので、バタバタと決まってしまいました。諒クンにはきちんと話そうと思っていたんだけど、あの子のことで多分いっぱいいっぱいだったと思ったから。女の子のことを二人分考えられるほど諒クンは器用じゃないものね」

手紙の一枚目をめくった。

 「内緒にしていたけれどあの子のお父さん、私を一度尋ねてきたんだよ。調査の人から聞いたんだって。最初はとても戸惑ったの。恋人ですかって真面目な顔で聞かれたから、そうですって答えようかとも思ったんだけど。だって変でしょう?わざわざ私の所に来るなんて。なぜですかって聞いたら、いくら娘が心配でも、もしあなたたちが恋人同士なら、その関係を壊すのは忍びないって。だから私もちゃんと話を聞いたの。話を聞き終わって、ああ、ちょっと諒クンから離れたほうがいいかなと思いました。神様が、だから私を旅立たせるんだなってちょっと思ったくらい。だけど・・・だから、諒クンのことはすごくいい人だって褒めておいたよ。夢を持って頑張っていますってね。仕事もしてない諒クンに高校生の娘と一緒に旅行させるなんて(まあ、考えようによってはちゃんと仕事をしていないから自由に旅行にも行けるんだけど)なんか突拍子もない感じだけどもしかしたら本当はすごくまともな人なのかもしれない。諒クン、あの子は本当に諒クンを必要としているみたい」

もう一枚をめくる。

「私ね。諒クンのこと好きだし、諒クンも私を好きでいてくれると思うけど、二人はきっと相手なしで生きていけないほど愛し合ってはいないと思うよ。あの子が諒クンのことを愛しているのかは知らないけど、若しかしたら諒クンはあの子にとってかけがえのない存在なんじゃないかと思った。大切にしてあげなよ。諒クンは一人で生きていける人なのかもしれないけれど、誰かが諒クンをとても必要としているのかもしれない。ましてや初恋の相手の娘さんなんだから、手を目一杯差し伸べてあげなよ。

日本に帰ったらあの子に会ってみたいな。素敵なフランス人の彼氏と一緒にね。それまで楽しみにしておくよ。諒クンはあの子のためにも頑張って小説書いて有名になってね。

じゃあねAu Voir」

怜の手紙をもう一度読み返しながら僕は手紙に呟いてみる。僕らはかけがえのない相手を一人しか持てないの、怜?そして僕が小説を書いているのを斎藤さんのお父さんに漏らしたのは怜だったんだ、と知った。怜はきっと一所懸命に僕のことを良く言ってくれたのだろう。

怜の優しさが心に滲みこんできた。ピートが良く効いたスコッチウィスキーを飲みたいな、まだ日も高いのに僕はそう思った。そしてスマートフォンを取り出すと待受け画面にしていた玲の笑顔を向日葵の写真に変えた。

怜、それで良いんだよね。

画面に向かって僕はそう呟いた。

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