第5話

東京駅の新幹線乗り場を歩くのは久しぶりだった。最後に来たのはもう五年以上前の事だ。会社勤めをしていた頃、いっとき仙台のクライアントとの打ち合わせに行くために、週に二回、ビジネスマンと観光客が混じり合うこの駅の雑踏を半ば駆けるようにして通ったものだった。

今、観光客の一人として歩いてみるとビジネスマンたちの行動は、いかにも忙しなく心の余裕に欠けて見える。雑踏を早足で歩き荷物が人にぶつかっても振り向きもしやしない。

以前の自分自身もそんな風だったのだろう。時間に余裕のないことが勲章のように思えていた時は確かに僕にもあったのだけど・・・今となってはそんな昔の僕の姿が気恥ずかしくなる。

売店でちょっと考え、ミネラルウオーターにオレンジジュースを一本ずつ買った。エスカレーターでプラットフォームに出ると、僕らの乗る十二時十二分発の新幹線は既に入線していた。人ごみの中を切符に記された車両番号を探し目当ての車両に乗り込むと僕らの指定席の通路側に斎藤さんは座って僕を待っていた。僕が軽く手を振ると、斎藤さんはくりくりした眼で柔らかく笑って、僕に向かって小さく挨拶した。麦わら帽子に白いワンピース姿の斎藤さんは初夏の朝に咲く花のように涼やかだった。窓側に行ったら、と僕が言うと斎藤さんは少し嬉しそうに奥の座席へと移動した。

「旅行なんてしばらくぶりですよ。若い女性と一緒だなんて、高校の時の修学旅行以来かな」

腰かけながらそう言うと、斎藤さんは

「ご迷惑をかけて申し訳ありません」

と、深く頭を下げると「あ、これ」と膝の上に置いていた大きなバッグから風呂敷に入った包みを出した。

「今朝作ったお弁当です。サンドイッチですけど。足りるかしら」

「ありがとう」

僕は二本のペットボトルを斎藤さんに差し出した。斎藤さんは

 「どっちでもいいんですか?」

 と首を傾げしばらく考えてからオレンジジュースを指した。うん、いいよと言うと白く細い指がためらうようにして橙色のペットボトルを掴んだ。

「ほんとうに?西尾さんもオレンジジュースを飲みたかったんじゃないんですか?」

「いや、どっちでもOKだと思ったからこの二本にしたんですから。オレンジジュースと同じくらい水もいいかなって思っていた。だから気にしないでね」

そう答えると僕は自分のキャリーバッグと斎藤さんの大きなバッグを網棚の上に載せた。オレンジジュースを開けずに掌に当てている斎藤さんの横に座り喉に冷たい水を流し込むと、斎藤さんもオレンジジュースのキャップを開けて口をつけた。すぐに発車のアナウンスがして、ゆっくりと新幹線は動き始めた。

斎藤さんは上越新幹線に乗るのは初めだと言った。

「東京に来るときは飛行機だったんです」

へえ、贅沢ですねと僕が言うと斎藤さんはくすりと笑った。

「お父さんが一回乗ってみたかったんですって。なんだかわからないけどプロペラ機っていうものだからって・・・。私はそれからは飛行機って乗ったことないですけど。いつか飛行機で遠い外国の街に行ってみたいです」

「どこに行きたいんですか?」

「リオデジャネイロかザンクトペテルブルグ、あとはバルセロナとか」

「珍しい選択ですね」

「そうですか?」

「なんか、パリとかニューヨークとかだと思った」

「東京とか、そういう大きな街とは違う街に行ってみたいんです」

そんな街並みを思い浮かべるかのように斎藤さんは眼を閉じた。

新幹線は見渡すばかりの平坦な平野をするすると抜けるようにして走っていく。窓からの景色の中にはどこかしらに人が住んでいる家が見えた。きっと僕と永遠に混じりあう事のない人々がそこには住んでいるのだろう。でも、中には突然の出会いがあるのかもしれない。そう思うとなんだか不思議だった。斎藤さんもつい最近まで近くに住んでいたのに出会うことはなかった。でも、一瞬で僕らは交差して、その時に手を繋ぐことができたんだ。

 その事を眩しく思いながら、しばらくの間、外の景色を僕は眺めていた。暫く感傷に浸ってから、ふと何気なく横を見ると斎藤さんはさっき目を瞑ったままの姿勢ですやすやと寝息を立てていた。サンドイッチを作るためにきっと睡眠時間を削ったんだろうな。長い睫が電車が振動するたびに揺れている。その無防備な寝顔を見ながら、僕はあのでこぼこだらけだった丘に続く坂道は今どうなっているんだろうかとふと思った。今でもサイトウと一緒に登った時のように涼しい風が吹いているのだろうか。そんな風に思えたのは眠った斎藤さんがまるであの頃のサイトウのように思えたからなんだろう。

僕の視線を感じたのか、斎藤さんは眼を覚ました。

「あ、すいません。眠っちゃった」

思わず僕はサイトウを相手にしてるような錯覚に陥って、彼女を揶揄からかった。

「よだれが垂れていたよ」

「え、嘘です」

慌てて口を拭う斎藤さんに

「冗談だよ。ごめん。中学生の頃にお母さんにそんな悪戯をした思い出があるんだ」

僕が笑ってそう言うと斎藤さんは軽く僕を睨んだあとに、くすりと笑った。

「そんな風にしてもらった方が気が楽です」

「え?」

「だって、西尾さん、さっきまでなんだかよそよそしい喋り方だったから」

 それは・・・彼女の背後にお父さんの影を感じていたからに違いない。

「そうだったかな。久しぶりに若い女性と二人っきりで緊張してたんだ。君のお父さんにちゃんと守れって頼まれているんだし・・・でも東京を離れて気が緩んだのかもしれない」

 それは・・・きっと彼女の稚い寝顔を見たからだ。

「そうですかね」

斎藤さんは疑いの混じったような視線で僕を見ると

「お弁当を食べましょうか」

 そう言って風呂敷を解くと、包みの一つを、はいどうぞ、と僕に手渡した。

電車の窓の外にはいつの間にか山が迫ってきていた。包みを開けると斎藤さんが作ったサンドイッチにはBLTとチキンカツが挟んであった。チキンカツにはきちんとマスタードが塗られていたし、BLTのレタスは新鮮で、トマトは甘くベーコンは厚切りだった。

「足りますか」

心配そうに尋ねた斎藤さんに

「十分。それにとってもおいしいよ。僕はカツにマスタードをつけてあるのが大好きなんだ。それにこっちもおいしい。しゃきしゃきしていて」

食べかけていたBLTサンドを指さすと、斎藤さんは嬉しそうに白い歯を見せて笑った。

「良かった。私、人のためにお弁当を作るのって初めてだったんです」

長いトンネルを抜け日本海側に出ると、車窓越しに雨が窓を真横に滑るように流れ始めた。斎藤さんは身を乗り出しすようにして窓越しに空の様子を心配げに覗きこんだ。

「大丈夫。明日からは天気が良くなるらしいよ」

スマホで調べた新潟の天気予報を見せると斎藤さんの頼りなげだった顔がほっとしたように緩んだ。

「少しは新潟の街のこと、私、思い出すでしょうか」

斎藤さんはぽつりと呟いた。

「難しいかもね。本当に小さな時に引越ちゃったんだから」

僕の言葉に斎藤さんはそうですよね、と言うと結んでいた指をほどき、その細く長い指で濡れ羽色の髪を撫でた。


 新潟駅に着いた時も、細かい雨は降り続いていた。タクシーでサイトウの実家まで行くという斎藤さんと駅前で別れて僕は万代口から傘をさして雨の中を歩き出した。斎藤さんのお父さんが用意してくれたホテルは駅から見える場所に雨に濡れてひっそりと立っていた。チェックインを済ませ部屋に入ると雨に濡れたキャリーバッグの中の荷物を整理してから僕は熱めのシャワーを浴びた。

 部屋は僕が一人で泊まるには広すぎた。風呂から上がり冷房の良く効いたその部屋でバスタオルを巻いただけの姿で僕はテレビをつけ、高校野球をぼんやりと観戦した。しばらくすると体が冷えて来たので服を着るとテレビを消し、スマホを取り出してリストのピアノ曲集を聴きながらアメリカの犯罪小説を一冊夕方まで読み耽った。

 六時過ぎ、部屋から眺めた新潟の街は雨のせいか人通りも車の数も少なかった。雨の中、外に出るのは気が進まなかった。夕食のことを考えつつもベッドに寝転びもう一度最初からリストのピアノ曲を聞き直す。二度目の「愛の夢」を聞き終えたところで空腹に耐えられなくなり僕は傘を借りて外に出ることに決めた。ロビーに降りて外を見るといつの間にか雨はやんでいた。近くの蕎麦屋でさっさと夕食を済ませると夕闇が覆い始めた雨に濡れた街を僕は彷徨うように歩き始めた。

幼い頃は市のはずれに住んでいたせいか、中心部は賑やかな場所だと思っていたが、歩いてみると繁華街の大きさは東京の郊外の大きな街、立川や町田とさして変わらない。いや、それどころかまだ夜も早いと言うのに飲食店以外の店はシャッターを閉じ始めているし、人影も少ない。酔っ払いやホステスの姿はなく、駅の近くでキャバクラの呼び込みをする若い男の姿が眼につく程度だ。客を引くでもなく暇そうに仲間同士で路上に腰かけて談笑している彼らを避けるように道を横切ると僕はそのまま万代橋の方向にまっすぐ歩き出した。

思い出と現実の新潟の街はなかなかうまく重ならなかった。万代橋を渡り信濃川に添って歩き始めると子供の頃の感覚が甦って来るのを感じた。それが海から吹く汐を含んだ重たい潮風のせいだと気付いたのはしばらく歩き続けた後だった。

 橋のたもとから川の土手に降り、遠くに見える新しい高層のホテルの方へ向かって歩いていくとジョギングをしている人々が僕とすれ違いながら走っていく。しだいに夜は更けていき、やがて行き先を失った僕はホテルへの道をゆっくりと戻った。


翌日の朝。

部活に向かうのだろうか、ラケットや竹刀袋を手にした制服姿の女子高生の群れに混じって僕が待ち合わせの小さな駅に降りようとすると、白いブラウスにベージュ色のチノパン姿の斎藤さんが右手を横に振りながらプラットフォームを走って来るのが見えた。電車を降りないように身振りで僕に伝えると斎藤さんは一つ手前のドアから車両に乗り込んで来た。左手には昨日と同じ大きなバッグを持っている。

「二十分に一本しかないんですよ。この電車。たいへん。東京じゃ考えられないです」

僕の近くまで電車の人ごみを分けて来た斎藤さんはドアのそばにいた僕の脇に立つと大きく息をついてそう言った。

「あの丘に行く前に・・・行きたいところがあるんです。そこまで行く次の電車は四十分後しかないみたい。この電車に乗っても途中の駅で乗り換えしなければならないし、そこで三十分待つんです」

「どこに行きたいの?」

斎藤さんが答えたのは弥彦神社だった。子供のころに僕も二、三回は行ったことがあるがどんなところだったかもうはっきりと覚えていない。

「どうして?」

「昨日母の荷物を整理していたら弥彦神社のお守りがあったんです。急に私も行ってみたくなって」

時間は余るほどあった。海岸べりを散歩したら昼に一度新潟の街に戻ってランチを食べ最後に目的の丘に行こうと漠然と考えていたのだけど・・・。

 でも・・・お守りを買ったサイトウはその時、神社で何を願ったんだろう?と僕は思った。

「うん、そうしてみよう」

そう答えると、斎藤さんは嬉しそうに両手を合わせた。

「そうしましょう。良かった」

 駅に停まるたびに乗客がパラパラと電車から降りやがて空いたボックス席に斎藤さんと僕は向い合せに座った。僕は後ろに流れていく景色を、斎藤さんは前に進んでいく窓からの眺めを飽きずにじっと見つめていた。車窓にはずっとずっと田んぼが続いていた。青い稲穂が風にさらさらと揺れていてところどころに古い農家がぽつんと見える。

「はっきりと覚えていないけれど・・・、こんな景色をむかし母と一緒に眺めたような気がします」

斎藤さんは遠くを見るような眼つきをしながらぽつりとそう言った。乗り換えの駅で降り、時刻表を確かめるとやはり乗り継ぎの電車は三十分待たなければならない。駅前の小さな商店街を一巡りしたけれど開いている喫茶店はなく、仕方なく僕らは駅のベンチに腰かけた。

「タクシーで行っちゃおうか」

僕が目の前に停まっているタクシーを指して言うと斎藤さんはかぶりを振った。

「きっと母もこうやって電車が来るのを待ってたんでしょう。学生ですもの。だったら私、母と同じ道を辿ってみたい」

「そう・・・」

やがてプラットフォームに電車が到着したのが見えて僕らはベンチから立ち上がった。三両編成の小さな古びた電車は年老いた犬のように、同じくらい年を経た駅舎の下で乗客を待っていた。線路の向こう側には黄色い小さな花をつけた背の高い草が思い思いに伸びている。ドアの脇のボタンを押すと電車の扉が面倒くさそうに開いた。先頭の車両には地元の男子学生らしいグループが四人でボックス席を占めて小声で話している。日によく焼けた彼らは時おり、おー、と太い声を出しては、すぐにひそひそ話に戻っていく。女の子の話でもしているのだろう。あとは老人が四人、思い思いの席にばらばらと座っている。

電車は走り出すとあっという間に終点に到着した。駅で待っていた時間の方が遥かに長かった。降りた人々はてんでばらばらの方向に歩きだしていく。乗客の中で観光客は僕らだけだった。駅舎の前には距離や方角がかなりデフォルメされたような地図が立て掛けてあり僕はそれを頼りに神社の位置が示されている方角をあやふやに指した。正しいのか自信はなかったのだけど緩やかな坂道を登りきると右手に朱塗りの鳥居が見えた。

「ほら、みつけたよ」

僕がちょっと得意げに指さすと斎藤さんはにっこりと笑みを返した。石段を上がりきった所にもう一つ木の鳥居が立っていて、その手前に手水場ちょうずばがある。斎藤さんは僕の真似をしながら手水を取った。

「なんだか私・・・本当に西尾さんの娘みたい」

そう言うと斎藤さんは恥ずかしそうに柄を洗ってから柄杓ひしゃくかぎに掛けた。

「私、神社にとか行ったこともなくて・・・本当にお祈りの仕方とかも知らないから。真似させてください」

広い境内の向こう側の本殿の周辺に観光客らしい人たちが集まっていた。参詣の列の後ろで斎藤さんは列の前の人々がお詣りする時の仕草をじっと観察していた。並んで拝み終えた僕がそっと横を見ると斎藤さんはまだ手を合わせたまま祈っていて、最後にぎこちなく小さな一礼をした。

「何を拝んでいたの」

あまりに真剣に拝んでいたので列から離れてからそっと尋ねると、斎藤さんはひとみを揺らした。

「内緒です」

小声でそう返事をすると斎藤さんは僕の背後に視線を移し、あ、と声を上げた。

「あそこでお守りを売っていますよ」

振り向くと向かいの社務所で巫女姿の女性がおみくじやお札を売っていた。小走りに駆け寄って行くと、斎藤さんは熱心にお守りを見比べていた。近寄っていった僕に、斎藤さんはお守りのデザインがサイトウが遺したものと違うみたいで残念です、と呟いてバッグから古いお守りを出した。濃い緑の布に包まれ、シンプルに守札と真ん中に書いてある古いお守りだった。

「これと似たものはないですか?」

尋ねた斎藤さんに巫女さんは、ちょっと待ってくださいね、と奥に入っていった。暫くすると一緒に出てきた若い神官が、

「これは随分と昔の物ですね。私の子供の頃のデザインです。申し訳ないけど、今はもう置いていません」

と残念そうに答えた。じゃあ、これと絵馬をください、とピンク色のお守りを指さすと斎藤さんは

「西尾さん、絵馬にお願い事を書くから・・・見ないでいてくださいね。恥ずかしいもの」

と眼を伏せた。

分かったよ、と素直に答え僕は境内を一回りすることにした。境内を歩くと白い小石がざくざくと僕の足もとで音を立てる。家族連れの子供たちが駆けるしゃっしゃというせわしない音と重なってそれは不思議な音楽のように聞こえた。ゆっくりと歩いて半分ほど境内を巡っていると斎藤さんがこっちの方を向いて手招きをしていた。斎藤さんはもう片方の手で境内の案内板を指でさしている。

「西尾さん、ほら奥宮って書いてあります。奥宮ってなんでしょう?」

「山の上にあるもう一つのお宮さんだと思うよ」

「え、じゃあこの神社とその奥宮というのがセットという事ですかね」

「セットというと変に聞こえるけど、まあそんなようなものじゃないかな」

「そこにも行ってみましょう。そうしたらきっと願い事が叶うような気がします」

真剣な眼付きで言った斎藤さんに僕は笑って頷いた。案内板の通りに道を行くと停車場があり、そこから無料の送迎バスが緩やかな坂を登ってロープウェイの麓駅まで僕らを運んで行った。切符売り場でチケットを二枚買って僕らはロープウェイに乗り込む。先に乗っていた家族連れの中の斎藤さんと同い年ぐらいの女の子がヒールの高い靴で山道を歩き切れるかしら、と心配しているのが聞こえた。真っ黒に日焼けした彼女の弟は、

 「そんなので頂上まで歩くなんて無理だよ、姉ちゃんは駅で待っていなよ。いっつもださいんだから」

 と言って姉を怒らせている。僕とたちはそっと眼を見合わせて笑った。

 ロープウェイが動き始めると麓側の窓に遥かな景色が広がり、訪れたばかりの神社が森の中へ次第に小さくなっていく。その先に広がる田園のところどころに小さな町がぽつりぽつりと見えた。ロープウェイは時折鉄柱でくんと高く昇っては、再びたわんだロープに沿って緩やかに小さく下降し、その度に斎藤さんは首を竦めた。

山頂の駅にはお決まりの展望台や売店があった。こわごわとロープウェイを降りたばかりの斎藤さんはそれらに目もくれず案内板に駆けより、ほらあそこに奥宮に行く道がありますよ、と指さした。案内板には奥宮までの距離が記されている。

「けっこう遠いみたいだよ。山道だし、大丈夫?」

「大丈夫です、行きましょう」

さっきの家族連れが前を歩いていくのが見える。姉も一緒に歩いていくことにしたらしい。おっかなびっくり腰をひいて歩くその姿は陸に上がった水鳥のように危なっかしかった。私は大丈夫ですよ、というように斎藤さんは自分の履いているスニーカーを指さしにっこりと笑った。

石段は空の方へと連なっていく。右手に海が広がり左側には遠くに山々の峰が見える。オニヤンマが斎藤さんを追い越してから、彼女のほんの眼の前でホバリングをした。立ち止まり息を止めるようにしてその姿を見ていた斎藤さんはトンボが飛び去るとびっくりしたような眼をして僕を見た。山道は時おり下ったり上ったりしながらも山頂に向かって続き、やがて電波塔の脇を抜けると彼方に鳥居が見えた。

「着きましたね」

ほっとしたように言った斎藤さんの額にはかすかに汗ばんでいた。奥宮で斎藤さんはさっきよりも更に長い時間をかけて拝み、僕は脇に立って熱心に祈っている斎藤さんを眺めていた。お詣りを済ませると僕らは備え付けてあったベンチに腰かけた。

隣で世間話をしていたおばあさん達の一人が斎藤さんを見て、

 「ほれ、あんたも食べるかい」 

 と言って梅漬けを斎藤さんに爪楊枝を刺して渡し、「あんたもどうだい」と僕にも一つくれた。

「どこから来たの」

おばあさんは斎藤さんに尋ねる。

「東京からです」

貰った小さな梅を齧りながら斎藤さんは答えた。

「でもあんたは新潟の出でしょう。新潟のめんこい女の子の顔をしとるもの。色も白いで」

頷いた斎藤さんはくすくす笑って

「はい、母がこっちなんです。それにこの方も新潟生まれなんですよ」

と僕を指した。

「あら、あんたら親子じゃないのかい」

おばあさんは急に疑わしげな眼になって僕を見た。

「この娘さんは僕が中学校の時の同級生のお子さんです」

僕がそう言ってもおばあさんの眼から疑いの色は消えなかった。弥彦の奥宮に来るとは怪しいとか、変なことを言う。そんな僕とおばあさんのやり取りを面白そうに眺めていた斎藤さんが

 「梅漬け、おいしかったです」

 とお礼をすると、

「母はもうだいぶ前に亡くなっていて、私が頼んで母の思い出の場所を一緒に訪ねて頂いているんです。弥彦に来たのは母の遺品の中にお守りが残されていて私が連れてきてほしいと言ったからなんです」

そう助け船を出してくれた。

「そうかね」

おばあさんは斎藤さんの方を向いた。

「お母さんはいくつで亡くなったの」

そう斎藤さんに尋ねる。

「二十七です」

「それは大変だったね。かわいそうに。なんか事故にでも遭ったのかい」

「いいえ、病気です」

「お父さんは?」

斎藤さんは眼を伏せると首を横に振った。それをどう受け取ったのかおばあさんはあらまあと呟くと優しい眼で斎藤さんを見た。

「あんたも大変だったね」

「いえ、母の叔父が引き取って育ててくれましたから」

そう答えた斎藤さんにおばあさんは飴やらガムを次々に渡しだした。斎藤さんは両手いっぱいに貰ったものを受け取って、「ありがとうございます」とお礼を言い、一緒に話し込み始めた。仕方なく、僕は梅漬けが刺してあった爪楊枝を指先でくるくる回しながら海を見ていた。小声で話していたおばあさんと斎藤さんが急に高い笑い声を上げた。振り向くと斎藤さんとおばあさんがこっちをからかうような眼で見ていた。

「さあ、私らは行くかね」

僕が振り返ったのを見たおばあさんは急に無表情になるとその前まで一緒に世間話をしていた二人のおばあさんを促して、杖をついて立ち上がった。

「あんたらも気を付けて行きなさい」

そう言って去っていく三人の小さなおばあさんに向かって斎藤さんは手を振った。僕も軽くお辞儀をした。

「さっき、何の話をしていたの?」

斎藤さんはくすくす笑う。僕が首を傾げると、

「お母さんの昔の友達だからって気を許しちゃいけないよ、男なんてみんなスケベだから、って言われました。同情したふりをしているのかもしれないからあんたも隙を見せては駄目よ、ですって。あと、この奥宮には恋愛を叶える力があるそうです。だから怪しいって思ったんですって。でもここに来たのは私がお願いしたからだってちゃんと言っておきました」

そう言いながらまだ笑っている。

「ひどいな。なんだか一緒にいると僕の評判が一方的に悪くなるみたいだ」

二人で前田さんのレストランに行った時のことを思い出して、憮然と言った僕を見て、

「そんなことないですよ。西尾さんが良い人だって、私は知っていますから。でも私たちしばらく親子の振りをすることにしましょうか。そうしたら変な風に思われないでしょうし。それとも年の離れたお兄ちゃんにしましょうか」

斎藤さんはくすくす笑いのまま僕を慰め、急に大真面目な顔をして言った。

「ね、お父さん」


ロープウェイで麓まで降りJRの駅に戻ると、電車が出るのはやっぱり三十分後だった。乗り継ぎ重視の東京ではちょっと考えられないわ、と斎藤さんは首を傾げた。「なぜでしょう?」

東京の川って水が流れやすく洪水が起こらないように真っ直ぐに作っているんだ。だからそれを真似て時刻表もそうなっている。でもこっちでは川の流れを変えることはあんまりしない。ゆったりとしているんだよ。だから時刻表も時間の流れをせき止める堤みたいに、わざとそんな風に作ってあるのさ。

 そう斎藤さんに言うと彼女は小説家さんらしい表現ですねと笑って頷き、僕らはゆっくりとした時間の流れに身を任せることに決めた。駅の近くに小さな川の脇の木陰においてあるベンチに座って僕らは自動販売機で買ったお茶を飲んだ。

「さっき、西尾さん、私が神様に何をお願いしたか、聞いたじゃないですか」

斎藤さんは川の流れを見つめている。流れに映るきらきらとした陽の光がその眸にも揺れている。

「うん」

「西尾さんはなんてお祈りしたんですか?」

「君が教えてくれたら僕も言うよ」

「わたし、ちゃんとした大人になれますようにってお願いしたんです」

 暫く躊躇ってから斎藤さんはぽつんと呟いた

「え?」

「ちゃんとした大人になれますようにって。変でしょう・・・。でもそれが私の願い。西尾さんは?」

「この旅が最後まで無事で楽しいものになるようにって、お願いしたんだ」

拾った小石を水面に投げ入れながら僕がそう答えると、斎藤さんは不思議そうな眼をして僕を見た。

 僕は僕で「ちゃんとした大人になれますように」と書いてある絵馬が、神社の境内で風に揺られている様子を思い浮かべていた。絵馬を見た人はそれを書いた人のことをどんな人間だと想像するのだろう。そして、神様はその祈りにどんなかたちで応えてくれるのだろうか。

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