5-2 着水、そして上陸

「え?」


 空を渡る舟が、水しぶきを上げながら湖面に降り立つ。


「うわ! ……あれ?」


 舟縁ふなべりで身構えたヒタクが間抜けな声を上げた。体が全く濡れていないのだ。どうしてだろうと見回す湖面には、いくつもの波紋が広がっている。大きく跳ね上げられた水滴は、全て舟の外側に向けて落ちていったのだ。


「すごい。すごいよ……! こんなに綺麗に降りるなんて」


 派手でありながらも乱れのない着水に称賛の声が贈られる。尊敬の眼差しを向けられ、アヌエナは顔を赤らめた。


「ほ、褒めたって何も出ないわよ」


 ごまかすように帆綱を振るい、舟を軽快に進める。


 対照的に、やることのなくなったヒタクは大きく深呼吸した。


「ふー」


 湖畔を吹く風は水気を帯び、常夏の空気に涼を感じさせる。森の空気とは違うなと思っているうちにも舟は水上を軽やかに滑り、やがて湖岸が見えてきた。


「この先にわたしの故郷、ウラネシア出身の人達が管理してる港があるの。おかで商売するなら、どうしても舟を空ける必要があるからね。その間預かってもらうの」


「へえ。それで舟着き場」


 岸から突き出ているのは防波堤だろう。彼女の言う港はその内側にあるらしく、飛舟とぶねの帆柱がいくつも頭を出している。


「おー」


 空の森ではまずお目にかかれない光景に、ヒタクは目を見張った。地面を歩くのは数年ぶりだという事実をいまさらながらに実感していると、アヌエナの声が耳に届いた。


「さて。そろそろ着岸準備ね」


「え?」


 振り向くと彼女はいつの間にか帆を畳み、踏みかいに足を掛けている。さらにヒタクの視線に気付くと、機先を制するように口を開いた。


「あ。あんたはそのままでいいわよ。舟を岸に着けるのって結構難しいから、全部わたしがやる」


「うん、分かった」


 少年と少女を乗せた舟が、波止場をゆっくりと回り込む。桟橋が目と鼻の先まで来たところで、アヌエナは足元に準備してあった縄を投げた。


「はっ」


 縄の先に結わえられた輪が桟橋の杭にはまり、舟と港が結びつく。それを見て次の予測がついたヒタクは、彼女に申し出た。


「それで岸に着けるの? 力仕事なら僕も手伝えるよ」


「そう? あんた筋肉なさそうだけど」


「な、縄を引っ張るぐらいできるよ!」


「あはは。じゃ、おねがい」


 力を合わせて縄を引っ張る。二人に手繰り寄せられるかのように舟着き場が近づいてくる。桟橋とぶつかる寸前まで来たところで、アヌエナは手にした縄を舳先に縛り付けた。


「よっ。……ほい。到着っと」


 無駄のない動きで舟を固定し終えると、少女はひょいと跳んで桟橋に降り立った。軽やかに着地を決める彼女に続こう、としてヒタクは戸惑う。


「えっと……」


「無理に真似しない方がいいわよ。慣れてないと湖にどぼん、だから」


「え! じゃあ僕、ここで留守番?」


「んなわけないでしょ。ほら、手を貸して」


「あ、ありがと。……よっと」


 危なっかしい足つきながらもどうにか上陸を果たすヒタク。だが空の旅の影響は、すぐには消えてくれなかった。風もないのに桟橋がきしんでいるような錯覚を覚え、知らず喉から困惑の声が漏れる。


「なんか、まだ揺れてる気がする」


「すぐ慣れるわ。我慢なさい」


「そ、そう?」


「お~い。嬢ちゃん!」


 ヒタクが足元が揺れるような感覚に耐えていると、太い声が聞こえてきた。定まらない視線をどうにかそちらへ向けると、短身ながらもがっしりとした身体つきの男が、手を振りながらやって来るところだった。


「あのおじさんが、ここの管理人さんよ」


「あ、こんにちは」


 ヒタクが挨拶をすると、男は目を丸くした。


「こりゃ驚いた。嬢ちゃんがまさか男連れてくるとはな。そっか。もうそんな年頃か」


「はい?」


 思わぬ言葉に、今度はヒタクの目が点になる。反応に困ってアヌエナを見やると、彼女はバタバタと両手を振りまわしていた。


「ち、違うわよ! この子はちょっと、取引先の人にクロロネシアを案内するよう頼まれただけで……」


「そう照れるなって。お前さんのほどの器量よしなら、むしろ堂々としてりゃいいんだ。しっかしまあ、ウラネシアにもまだ若いのが残ってたんだな」


「だから違うって!」


「うんうん分かってるぜ。付き合い始めってのはみんなそんなもんだ」


「なにがそんなもんなのよ!」


「だから照れるなって」


「だから違うって!」


「うんうん分かって……」


 おおらかに笑う男と必死になって否定する少女。二人は似たようなやりとりを延々と繰り返し、話が一向に進まない。


「あの~」


「おっと悪いな。せっかくの二人の時間を邪魔しちまって」


「い、いえそんな」


「お。謙遜かい。若いのにできた坊主じゃねえか。いや若いからできたのか、なんてな。わははははは」


 ヒタクが会話の軌道を修正するつもりで口を挟むと、背中をばしばし叩かれた。親愛の情を示しているつもりなのだろうがかなり痛い。


(え~と。これからどうすれば)


 どうにも判断がつきかねた。相手の勘違いをまじめに訂正した方がいいのか、笑って受け流せばいいのか。こちらは舟を預かってもらう立場だから失礼のないように、というのは分かるのだが。


「ああ、もう。遊んでないでさっさと行くわよ! ほらこっち持って」


「あ、うん。……わっとと」


 相手の興味がそれた隙に、アヌエナはさっさと商売の準備を済ませていた。投げるように荷物を渡してくると、そのまま足早に歩き出していく。


「それじゃ、おじさん。舟の番と汲み取りの仲介よろしく」


「おう、任せとけ」


 管理人は胸を叩いて請け負うと、人懐っこい顔で豪快に笑った。


「じゃあまた後でな、お二人さん。デート、しっかり楽しんで来いよ!」


「だから違うって!」


 一度背を向けた相手に怒鳴り返し、次いで少女はヒタクをにらみつけた。


「勘違いしないでね。わたしはあくまで、カグヤさんとの取引であんたを連れて来ただけなんだから」


「う、うん」


「間違っても、デ、デ、デデートだなんて思わないように」


「ワカリマシタ」


 その剣呑けんのんな目つきを前に、少年はただうなづきで応じるほかなかった。

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