3-4 取引と駆け引き

 思いがけない提案に、喉の奥から間抜けな声が漏れる。喜びから一転、アヌエナは不審もあらわに相手を見返すが、しかし世界樹の管理者は動じることなく続けてきた。


「私のお願いを聞いてくれませんか? 聞いてくださるなら、このフソウを登る許可をお出します」


「は? どうしてあなたの許可がいるのよ。こんなバカでかい木、誰がどう登ろうと勝手じゃない」


「管理者ですので。勝手に登られては困るんです。それに馬鹿でかいからこそ、登り方があるんですよ」


「登り方?」


「フソウの上層は、空気がものすごく薄くて火が使えません。気球ではまずたどり着けませんし、飛舟とぶねでも無理でしょう。たとえ到達できたとしても、普通の人間はまず無事ではすみません」


 空を生活の場としているのなら、高高度飛行の危険性はよく理解しているはず。


 そう諭すように言われ、アヌエナは押し黙った。にらむように眉根を寄せ、次いで空の森の中央へ目を向ける。そこには天をくように長く伸びる樹影と、夕闇をも覆うように広がる雲影があった。


(高度が増せば気温も気圧も下がるし、あの雲も世界樹が見えた時からずっとかかってる。防寒も防水も用意してたけど、実際どこまで上昇すればいいのかは分からない。もし飛舟とぶねで届かなかったら――最後は世界樹の幹を直接登るしかない)


 商人としての理性が告げる。


 安全に進めるのならばそれに越したことはない、と。


 アヌエナはカグヤの目をまっすぐに見据えて応じた。


「分かったわ。わたしも空を渡る民の娘だし。交易を生業なりわいにする以上、正当な取引には正当な対価を払うわ」


「ありがとうございます。商談成立、ですね」


 とにもかくにも前進だ。背中に負った荷物を一つ降ろした気分になって、湯船の中で大きく体を伸ばす。


「それで取引って、なにが欲しいの。言っとくけど、そんなに高価なものは払えないわよ。……後払いでいい、っていうならまだ何とかなるかもだけど」


「いえ。モノが欲しいのではありません。お願いを聞いてほしいのです」


「そう言えばそうだったわね」


 思い返しながらうなづき、目線で続きを促す。すると、自身を人形という管理者はとんでもないことを言い出した。


「ヒタクを一度、フソウの外に連れ出してくれませんか? どこかの近くの土地……帰りの風を考えるならクロロネシアでしょうか。そこへ交易に行く形で、ヤタを案内役に」


「はあ? なんで!?」


 お湯をはね上げる勢いでアヌエナは問い返した。だが、返ってきた答えは簡潔だった。


「社会勉強です。あの子もずっと、この森で暮らすわけにはいきませんから」


「いやいや」


「案内料は別に付けますから……ヤタ」


「クァ」


 主の呼び掛けに応じるように、朝焼け色のカラスが鳴いた。小さく羽ばたき浴槽へとやってくると、足につかんだ小箱をカグヤの手の中に落とす。柔らかに受け止められた小箱は、そのまま流れるように少女へと開封された。


「こんなのはどうでしょう。普通の島ではまず採れない逸品です」


「え? なにそれなにそれ。初めて見る石なんですけど」


琥珀こはくです。この森から流れ落ちた樹液が大気の奥深くにたまり、高温高圧の環境に長時間さらされることで鉱物と化したものです」


「ほえー」


 月明かりを浴び黄褐色に輝くその小石は、間違いなく宝石の原石だった。まだ年若いアヌエナは取り扱った経験こそないが、先輩商人から宝石に関する基礎知識は学んでいる。この透き通った輝きを加工すれば、極上の逸品に仕上がるのは確実に思えた。


「ヒタクに外を経験させる対価として、これを。交易を終えて、あの子を無事に送り届けてくれた暁にお支払いします」


「これはこれは……」


 輝きに引き込まれるように顔を寄せ、じっと原石に見入る少女。その耳元へ、管理者がささやくような調子で語りかける。


「あなたが望むのなら、そのまま取引を継続してもかまいません」


「え? それって、ずっと続けられるってこと? 一回切りじゃなく? 正式な交易ルートと思っていいの?」


「はい」


「おお……はっ!?」


 思わぬ好条件に興奮したアヌエナだったが、我に返ると慌てて首を振った。魅力的な話だが、同時に怪しく感じる。身の安全に関わるだけに、ここは慎重にならなければならない。


「いやいやいや。空を渡る間、狭い舟に何日も男と二人っきりってまずいでしょ。もし何かの拍子になにかあったらどうしてくれるのよ」


「その点に関してはご心配なく。不埒ふらちな振る舞いをするようには育てていませんから」


「と、言われてもねえ」


「それでも万が一、なにかありそうになった時は――」


 なおも渋っていると、彼女はすっと笑みを消した。そのまま、真剣な目で続けてくる。


「空に突き落としてくれて構いません」


 それはつまり、あの少年に危険を感じたら大気の底に沈めてもいいということだ。地面に激突する恐れこそないが、だからこそどこまでも落ちて――あの灼熱の赤い空をも越えて――いくのだろう。羽ばたき機さえ封じておけば、まず助かるまい。


(弟の育て方によっぽど自信があるのか、意外に厳しいだけなのか。どっちにしても、取引自体は悪いものじゃないわよ、ね? というかもう、これ以上もの考えるの無理。頭がゆだってきた)


 長湯でのぼせてきたこともあり、アヌエナは折れた。火照った顔を冷やすように空を見上げながら答える。


「ま、まあそこまで言うんだったらいいわよ。それに考えてみれば、おもてなしされてるんだからお返しは必要よね」


「ありがとうございます。これでヒタクにも、お友達ができるといいんですけど」


「そーねー。できるといいわねー」


「ふふ……ッ!」


 突然、汗一つかいていないカグヤの笑みが強張こわばった。そして次の瞬間、文字通り糸の切れた人形として湯船に沈み込む。


「ちょっと!?」


 驚く間もなく、アヌエナは助け起こそうと反射的に身を乗り出した。だが温水の抵抗を受け思うように動けず、先に彼女が何事もなかったかのように起き上がった。


「大丈夫です。少し頭がクラッとしただけで。もう大丈夫です」


「本当?」


「はい」


「だったらいいんだけど……」


 前髪から湯を滴らせながら微笑む姿は、つい先ほどまでと変わらない。だがその変わりのなさが、かえって人形を思わせた。今更ながらヒトならざる者と相対している実感が湧いてくる。本当に、彼女は取引相手として信用できるのだろうか。


「クァッ」


「は!」


 袋小路に入りかけた思考を、カラスの鋭い鳴き声が断ち切った。我に返って現実を見ると、こちらをのぞき込む瞳と相対する。


「アヌエナさん?」


「あ、あー大丈夫。わたしもちょっと、のぼせてきたみたい」


 改めて向き合うと、彼女は人間にしか見えない。少なくとも、こちらを心配しているその表情は本物だ。思い返せば空で遭難したヒタクを保護したのも、この女性ヒトだったのではなかったか。


(わたしにとっても命の恩人なのは確かなのよね。あの赤い森から自力で脱出するなんて不可能だもの。なによりも、この機会を逃したら何のためにここまで来たのか分からなくなる――うん)


 空を渡る娘は覚悟を決めた。


「もう上がりましょう。無理に人間わたしに合わせたみたいで悪かったわね」


「そんなことないですよ。こうしてお話しできてよかったです」


「そう?」


「はい」


 カグヤは安心したように柔らかな笑みを浮かべると、パートナーに呼びかけた。


「それじゃヤタ。明日はお願いね」


「クァ」

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