竹の下の皇(すめらぎ) 小野篁

西尾 諒

第1話 夢と現(うつつ)

生温なまぬるい風が首筋を撫で、ふっと背へ抜けていった。

額に浮かんできた汗をてのひらで拭うとたかむらは仄暗い洞窟の奥をさし覗いた。道はうねうねと視線の先へと続いている。岩肌は柔らかく地面は時折微かに揺れる。妙な洞窟であるが、壁に囲まれ薄暗く、遠くに水の流れる音が聞こえる以上、これは間違いなくほらであろう。

「さて、どれほど歩けば出口へ辿たどり着くのだ」

 ひとりごつと、篁は再び足重たげに歩を進め始めた。

 これが夢の中だと篁は承知している。だが毎夜同じ夢を見る理由がとんとわからない。夢を見始めたのはいつ頃か。おぼろな記憶を辿ってみると春、妹の三回忌を済ませた頃である。義母と別々の妙ないみであったが義母は妹の事で篁をあからさまに恨んでいるし、篁は篁で義母の仕打ちを心の底で憎んでいた。互いに顔を見合わせぬように三回忌を設えたのは温厚な父の配慮であろう。

それにしても今は冬。もはやあれから・・・指折り数えれば十ヶ月になんなんとしている。

夢を見始めた頃、同輩に毎夜同じ夢を見るのだと零したら、良い夢占ゆめうらを知っていると紹介してくれた。では、と足を向けたが話を聞いた占師は

「さような話はきいたことがございませぬ」

と途方に暮れた。そうか、と持参した値の米を置くと篁は占師の家を後にした。爾来じらい、洞窟を抜けた場所の景色を見る事のみを楽しみにして夢と付き合ってきているが、こうも長くなると一生同じ夢を見続けなければならぬのではないかと憂鬱になってくるのも致し方ない。だいいちこれでは自分が眠っているのかいないのか良く分からぬ。

「弱ったの」

と珍しく愚痴を零しながら緩くうねった道を曲がったその時、眼前に今迄見た事のない光が見えた。

「さて、ここは」

 洞窟を抜けた先で篁は凝然ぎょうぜんと立ち尽くしていた。漸く長い洞窟を抜けてみれば今度は茫漠ぼうばくとした霧の中である。せっかく洞を抜けたというのに、これからはこのとりとめない景色を見続けねばならぬかと思うとひどく腹が立った。

 その時、ふと霧の向こうにわらしほどの大きさの人影が見えたような気がして篁は霧を掻分けた。その仕草で向こうも篁に気付いたようで、

「はて、面妖な。ここで生きた人を見るとは、久しぶりの事じゃ」

太い声がした。童に見えたのは杖を突いた小さななりの僧である。

「御坊は?どなたでございますか」

 ほっとした思いで尋ねた篁に僧はからりと笑うと、

「ただの坊主じゃ」

とだけ答えた。

「わたくしは小野篁と申します」

と篁が膝を屈して名乗ると、ふむ、と僧は篁をすがめ見て、

「わしは善財ぜんざいと申す」

と名乗り返した。

「善財殿。教えて下され。ここはどこなのでございましょうか」

「うぬ?どこと知らずにお主はやって参ったのか」

僧は空を仰ぐと、深々と溜息をついた。

「ここはな、地獄じゃよ。お主の立っているところはその入り口よ」

入り口と聞いて篁は足元を見た。地獄の入口と言われても特に変わった様子はない。ただの砂である。

「地獄?」

「そうじゃ。時折死を想ってここらを彷徨うものがおるが、お主は違うようじゃの。それと知らずに迷い込む者がいるとは思わなんだ。いかにして参ったのだ?」

僧は興味深げに篁を見据えた。篁がしかじかと語ると僧はしばらく考え込み

「お主の母親は亡くなっておるか?」

と低い声で尋ねた。

「はあ」

篁の母は五年前、篁が十八の時に病を得て死んでいる。息を引き取った母の枕元で二昼夜泣きとおした篁だったが、父がもはや相が変わっておると言って亡骸から引き離した。

「ならばお主は死んだ母御の胎の道を通って来たのじゃ。その術を使うとはよほどの覚悟が母御にもござったのであろう」

「どういうことでございますか?」

「胎の道は前世へ戻る一つの道じゃが戻るだけで十月かかる。それだけではない。胎の道を戻るのは生死を跨ぐことじゃ。大概の者には耐えられぬ。母が何の考えもなく我が子を死ぬような眼に遭わせることはあるまいて」

「では、吾が母が・・・私をお導きに?」

「なにやら、仔細があるのでござろうよ」

そう言うと僧は篁を手招きし、

「せっかくじゃ。おいで」

そう言って手を取ると歩き出した。霧はいつの間にか晴れていて見れば辺りは荒涼とした岩と砂ばかりの景色である。木も草も生えておらぬ。歩く道筋は砂に覆われている。異朝よそのくににあると聞く沙漠とはこのようなものであろうか。

 僧は慣れているのか篁の手を引いて迷う様子もなく歩いて行く。その後ろをついていく途中で篁は僧の頭に古く深い傷跡があるのに気付いた。

「御坊、その傷はいかがなされたので」

「うむ?」

 と善財と名乗った僧は手で傷跡を撫でると、

「何、ここでは良くある事じゃ。気にするな」

 と何でもないように答えた。

「されど・・・」

気にするなと言うが、そんな眼に遭うのは勘弁してほしい。

「さような所には連れて行かぬ。」

篁の考えを読んだように僧は振り向いてにやりと笑った。

「さあ、ここじゃ」

小半時も歩き続けただろうか、いつの間にか歩くたびに足許を掬っていた砂は固い岩肌へと変わっている。僧の指さす先を眺めると断崖絶壁での下、谷間に溢れかえらんばかりの亡者を紅蓮ぐれんの炎が焼いている。

「ここは焦熱地獄しょうねつじごくでございますか?」

 思わず身を引いた篁を、僧は笑って見た。

「地獄とはこれのみじゃ」

「しかし・・・」

地獄にはいろいろあると聞いている。八大地獄と聞くこともあれば百三十六あるとも聞いている。

「方便じゃよ。衆生はとんしんの三毒を以って己の身を滅ぼすが罪障の様態は様々じゃ。ここにおる者の大半はの、各々の罪障ごとに各々違う苦しみがあると諭す事で何が罪障にあたるのかを教えねば何が罪とも分からぬ輩たちじゃ。それこそ以て癡よ」

 嘆かわしい、と呟いて僧は悶え苦しむ亡者の群を見遣った。

「じゃがまだここにおるものはいずれ五道ごどうのいずれかに帰る。だがそれさえままならぬ地獄が無間地獄むけんじごくじゃ」

「無間地獄・・・」

「無間地獄は涅槃ねはんと対極じゃ。もはや五道を彷徨うことがないという点では似ておるがな」

「はぁ」

「地獄はな。愚かな衆生が業火ごうかに拠って清められるところよ。言ってみれば湯で垢を落とすようなものじゃ。犯した罪障によって苦しみの度合いや長さは違うがの。なんだかんだと言って皆同じ所をぐるぐる回っておるに過ぎぬ。だが大悟たいごは涅槃に辿り着き大愚たいぐは無間地獄へ落ち、もはや動く事はない」

「さようなものでございますか」

ふむ、と僧は小さく鼻を鳴らすと

「さて、お主に用のあるはどの亡者かの」

と目を凝らした。

「亡者が私を呼んだのですか?」

「いや呼んだのはお主の母御じゃ。だがこの中にお主を呼んだ理由があるに違いない」

はて、そんな事があるものかと思いつつ篁も目を凝らした。亡者の顔は米粒ほどにしか見えない。これではとても見つけられまいと思ったが、眺め回しているうちにふと一人の女に目が釘付けになった。その女は遥か彼方の業火の中からひたと篁を見詰めていたが篁の視線に気づくと、ついと顔を逸らした。

「小春・・・か?」


小春とは義母と篁の間で今なお解けぬわだかまりの原因となった娘である。

今から数年前の事である。実母が亡くなった後、大学に通いだした篁は家に戻る事が少なくなっていた。父、岑守みねもりは後妻を持ったことで篁が家によりつかなくなったことを侘びて、義母の連れ子の娘を宮中に出仕させる為に邸で漢文を教えよと篁に命じた。継母は篁が家に来るのを喜んでいなかったし、篁にとっても継母は煙たい存在だったが、どういう訳か忽ちのうちに娘の小春に心惹かれてしまったのである。

 幾度となく通っているうちに二人は情を交わす仲となり、やがて小春は身籠った。岑守は二人を夫婦にすればよいではないかと言ったが、娘を帝の側に侍らせたいと考えていた継母は怒りの余り娘を蔵に閉じ込め、それを苦にした小春は食を断ち死んでしまったのだ。小春の弔いの後、篁は

泣く涙雨と降らなむ渡り川 水まさりなば帰りくるがに

という歌を詠んだ。三途の川が我が涙で溢れれば妹が戻って来るのではないか、という哀傷あいしょうの歌である。

 今となっても義母の仕打ちは許しがたい非道ひどうに思えたが、義母の方は篁が娘をたぶらかしたのが死の原因であると考えているに相違ない。


「見つけたか」

 僧は篁に尋ねた。

「おそらくは」

「亡者が山ほどいても見知った者は必ずわかる物じゃ。会うてやればよかろう」

「しかしどうやって・・・」

「念じてみよ」

篁は目を瞑ると強く念じた。小春を最後に見たのは蔵の鍵穴から瀕死の容体を見た時である。人を呼び蔵の戸を打ち毀した時、息も絶え絶えだった小春は篁を見て何かを言いかけたが言えぬまま死んだ。その時小春はいったい何を言おうとしていたのであろうか。聞かせて欲しいと願ったのである。

「おやおや」

僧の声に目を開くと小春は今にも手が届かんとする所にまで浮き上がっていた。だが十人余りの亡者が小春の経帷子きょうかたびらの裾を掴んで一緒に上がって来ている。

「これは弱ったのう」

のんびりした僧の声の調子にはさほどの困惑があるとは思えなかった。篁は手を伸ばして小春の指を掴もうとしたが小春は自分に纏わりついて上がってきた亡者たちを気にして頻りに下を見ている。構わずに引き上げようとした篁を悲し気な眼で制し、小春は無理に微笑むとゆっくりと下降し始めた。

「小春ーっ」

篁が悲痛な声を上げた時、小春の姿が弾けるように輝いた。その眩しさに驚いてすがりついていた亡者たちが次々に元の地獄へと墜ちていく。 篁も思わず眼を瞑りよろめいた。眼を再び開いた時小春はそこにいなかった。

「お前さん、あれを御覧」

僧の声に振り向くと僧は手をかざして宙を見ている。そこに小春が浮かんでいた。いつの間にか艶やかな裳裾もすそに身を包み、長い帯を翻しすように手にしてじっと篁を見詰めている。

「来世でお会い致しましょう、と申し上げたのでございますよ。篁さま。その願いが叶いました。ありがとう存じます」

耳元で懐かしい声が聞こえた刹那、宙に浮かんでいた小春はすっと天に向かって昇っていった。

「さても珍しい」

僧は篁と並んで小春が消えて行った一点を見据えていた。

「ここからじかに昇天したのをみたのは初めてじゃ。あの娘の罪障は今はの際に抱いたお主への執着であったのであろうよ。その執着がお主に会えたことで消え、お主に罪が生じるのを怖れ我が身を犠牲とせんとした気持ちが天に受け入れられたのであろう」

篁は呆けたように天を見たままである。僧の手は篁の手を引いた。油気のない乾いた手である。

「用事が済めばここに長くおるまでもない。さて行くぞ」

「どちらへと?」

「母御に会わねば元の世に帰れぬよ。あまり長く待たせると母御の五衰ごすいが早くなる」

五衰というのは天女の衰える相の事である。ということは母も天女なのだろうか、と思いながら篁は僧について歩いて行く。

「これから行くのは閻魔えんまの所じゃ。閻魔には気付かれてはならぬ。あの者、どういうわけか彷徨いこむ生者には殊更厳しいのじゃ。それと閻魔の顔は見た者の父御と同じ顔をしておる。驚いて声をあげてはならぬぞ」

心ここにあらずといった表情の篁に僧は渋面を作ると、歩を止めてもう一度同じことを言った。

「閻魔に気取られ、行き先を言われればお主はもう元に戻れぬ。現世うつしよとは暫し別れということになるぞ。十分に気をつけよ」

篁は頷いた。

「私の父が閻魔とは?」

「何、お主の眼にのみお主の父御に見えるだけじゃ。別の者にはその者の父に見える。みな己の罪状を父に諭されるのよ。それが掟と云うもの」

「なるほど」

「あと千由旬せんゆじゅんほどじゃ」

千由旬とは途轍もない距離だな、と篁は思ったが僧はほどなく歩みを止めると、

「ついたぞ」

と篁を振り向いた。やはり木も草さえも一本も見当たらない枯れた大地の上に石造りの大きな壁が立っている。遠くにぞろぞろと死んだばかりの者たちが獄卒ごくそつに引かれて歩いているのが見える。

「先ほどわしが言った事を忘れるではないぞ。さて、覗いてみるとするか」

僧は篁を連れて裏手に回り込んだ。建物と言っても裏と横に壁があるだけで正面は開いている。その中央の床几しょうぎに座っているのが閻魔らしい。獄卒に引かれてきた亡者一人一人を見ては、何かを告げている。

「あれは罪状と罪の深さを言っておるのだよ」

篁はこくりと頷いた。

「天を見よ」

僧の言葉に仰ぎ見ると中空にさきほどの小春と同じような衣装を着た天女が浮かんでいるが、顔が良く見えない。

「少しばかり前に出てみるか」

僧は言うと篁の手を引き、篁は腰を引きつつ僧に続いた。再び天を仰ぐと今度は天女の横顔が見えた。

「はて・・・」

声に出さずに篁は首を傾げる。五年経っているが母の顔を忘れた事はない。しかし天に浮いている女の顔とは明らかに違う。たいそう美しい女人であるが一向に見覚えがない。その時天女がふっと篁の方を見た。そして微笑むと視線を閻魔の方に動かした。釣られて篁は閻魔の横顔を覗き込んだ。

「あっ」

思わず口をついて出た篁の叫びに、閻魔がゆっくりと振りかえった。

「いかん」

僧が大慌てで篁の手をひいた。


「あれほど注意をしたに・・・」

僧は篁を睨んでいる。篁は息せき切って声も出せない。喘ぎに肩を揺らし、ぺったりと座り込んだ地面から篁は僧を見上げた。

「御坊。あの天女が私の母親、閻魔は私の父の顔と言うのはまことにございますか」

「そうじゃ」

「何かの間違えではございませぬか」

「間違えも何もない。それが掟であるからの」

「しかし・・・」

「しかし・・・何じゃ」

僧は怪訝そうな眼で篁の顔を覗き込んだ。

「あれは私の母ではございませぬ」

「何?」

「そればかりか、父も・・・」

「父もか?」

頓狂な声を上げた僧に向かって篁は頷いた。僧は首を傾げると、

「ふうむ・・・。ならば何やら仔細があるのだろう。だがお主の見た夫人がお前の本当の母である事は間違いない。さもなければ胎の道を通してお前をここに呼ぶことはならぬ。さてはお主の母御はあの女を助けようとしただけではなかったのやもしれぬ。お主一体何者じゃ?」

と尋ねた。

「わたしはただの文章生もんじょうせいでございます」

ふむ、と僧は呟くと暫く考え込んだ。

「なぜお主はここにこうして生きておれるのか。閻魔は確かにお主に気付いておった。なぜじゃ」

「では、私の命は風前の灯であったと?」

「風前も何もない。普通ならもはやお主も他の亡者と共にさっきの崖の下でおめき声を上げておったであろうよ」

ぶっきらぼうにそういうと、僧は

「で、父は誰だったのだ?」

と問うた。篁は暫し躊躇ったが、

今上帝きんじょうていにおわしました」

と言葉少なに答えた。

「なに?とすればお主は柏原帝かしはばらのみかどのお血筋か」

僧は呆れたようにまじまじと篁を見詰めたが、うむと一人頷くと

「天道にまさかはない。それがまことのことなのであろうよ。いずれにしろお主は助かった。もう、お行き」

そう促した僧の表情が、突然何かに思い当ったように揺らいだ。

「もしや・・・お主」

「もしや・・・なんでございますか?」

「いや、何でもござらぬ。さあ、行きなされ」

突然口調が改まった僧の様子を奇異に思いながら篁は尋ねた。帝の血筋と知ってとの事かと一瞬思ったが、どうやらそうではなさそうである。まじまじと見つめてくる僧の眼には興味と共にどこか畏れの色が浮かんでいる。いくら帝が尊いとはいえ、僧のいるこの地までその御稜威みいつが及んでいるとも思えない。

「御坊はいかがなさるので?」

「わしはここで成す事がありますでの。無間に落ちなんとしておる魂を救わねばなりませぬ」

「無間地獄でございますか」

「さよう。柏原帝のお血筋であるあなた様にも縁のあるお人ですがの。瞋に深く毒されておられます」

「瞋に・・・」

「覚えのないことで死なねばならなかったのでしてな。瞋はその時産まれたがその御方本来の物ではないのでございます。他人の貪が生んだ瞋じゃからこそ、哀れでございまして」

「さようですか・・・」

「お達者で・・・もし、ここに用があるような事があったら愛宕寺おたぎでらの井戸へ行きなされ。いちどここへ来たものはいつでもここにやって来ることが出来ます」

「さような事・・・二度とございませぬでしょう」

「さて・・・どうですか」

 善財は奇妙な表情を浮かべた。

「それより御坊と再びお会いするためにはどうしたら良いのでしょう」

篁の問いに、僧は莞爾にっこりと笑い、

大慈山だいじさんにおいでなされ」

そう言い残すと僧は再び湧いてきた霧の中へとそそくさと消えて行ったのである。


 はっと目覚めた篁は暫く暗く冷たい床の中で呆然としていた。

 自分はまさに死なんとしたのか?と深い息をく。夢の中で見た事はまことなのであろうか。あれほど自分を慈しんでくれた父母が揃いも揃って実の親ではないとは・・・。

 だが、夢は余りにも鮮やかであった。白々と明けてきた暁の中、鳥たちがそこここで鳴き始めたが、篁はじっと床の中で考え込んでいた。


比叡颪ひえおろしの冷えがしんしんと足許から這いあがって来る。

冷え切った手に息を吹きかけ暖めると、実家の門を潜り篁は真っ直ぐ父の住む母屋おもやへと向かった。とぶらうことは前もって使いの者に伝えさせてあった。参議に昇任してからというもの、父岑守は公私とも多忙を極めている。時は弘仁こうにん十三年(八二二)冬、太宰大弐だざいのだいにを兼務し、京と大宰府を行き来する生活であった。

「おお、よう参ったな」

岑守は久しぶりに見る息子に嬉しそうに笑いかけた。

「どうしたのじゃ。わざわざときを限って来るような事はいままでなかったに」

「父上にどうしてもお伺いしたいことがございまして」

「改まった話のようだの。まあよい。何を聞きたいのだ?」

そう言いつつ岑守は微笑を絶やさない。

「では率直にお伺い申し上げます。私はまことに父上の子でございますのでしょうか」

ひたと自分を見詰めた篁の視線に、僅かに岑守の微笑が陰った。

「何かと言えば、さようなことか。お前は私の子だよ」

答えた岑守の口ぶりはしかし、些かも動じていない。

「まことにでございますか」

「その通りだ。お前は私と亡くなった妻の子であるよ。なぜそのような事を尋ねる」

「夢を見ました。夢の中でこれが本当の父母であると」

「む。で、どなた、いや誰だったのじゃ」

「母は大変美しい御方でございました。亡き母も美しい方でしたが、美しさが違いました。闊達かったつでいらした母上と違いどこか儚げなお方で」

「なるほど・・・夢のぅ」

篁は岑守をふと見上げたがそのまま黙っていた。夢で見た父が帝であったという話をするのは憚られたし岑守も重ねて尋ねなかった。岑守は目をつむりそのまま口を利かぬ。夢など本当にするなと言う意味なのか、知ってしまったなら仕方がないと言う事なのかわからぬまま沈黙を貫き通して半刻が過ぎた。

ついに堪えきれなくなった篁が、

 「では」

 と立ち上がると、岑守は目を開き、うむ、と答えただけである。篁はそれ以上仕様もないまま父を残して邸を辞した。


十日後、その篁の姿は長岡京の大慈山乙訓寺おとくにでらにあった。僅か十年で廃都となった長岡京は道を歩く人影もなく、乙訓寺は雪の中にぽつねんと立っている。案内を乞うた篁に粗末な袈裟けさを纏った若い僧が応対した。

「実は以前お会いした僧がここを尋ねよと申されまして」

「なるほど、それはそれは遠いところを良くおいでになられました」

実直そうな僧は頭を下げた。その応対に心を強くして

「善財と申されるお方で・・・」

と尋ねたが、

「はて、そのような名の御方は存じ上げませぬが」

僧は顔をしかめた。似非坊主えせぼうずが寺の名を騙ったとでも思ったのであろう。

篁は自分の頭頂を指し

「ここらあたりに大きな傷がございました」

「傷・・・いや、そのような者はここにはおりませぬ」

「おられぬ?」

「はあ。わたくしがここでお勤めを始めて十五年、さような方をおみかけしたことはございませぬ」

「そうですか」

なら、あの僧の話は僻事ひがごとであったか。篁は礼を述べると僧堂を後にした。竹をざわざわと鳴らす風が冷たい。ふと背後に呼び声が聞こえたので振り返ると先ほどの僧が追い掛けて来る。

「このまま京へ戻られるのでございましょうか?」

「さようですが」

「では申し訳ございませぬが、これを東寺とうじ俊性しゅんしょうさまにお届けして頂けませぬか」

「構いませぬ」

受け取ろうとした篁の手がかじかんでいたのか、書状はするりと指の間から滑り落ちた。

「これは申し訳ない」

そう言って拾おうとした篁の眼に一体の石地蔵が映った。雪に隠れかろうじて袈裟けさの裾がのぞいている。

「これは?」

「ああ、これはいわくつきの地蔵でございましてね」

優しげな顔つきになると僧は地蔵の前に膝をついた。

「昔この寺に幽閉された早良親王さはらしんのうさまが御怒りのあまりこの地蔵を剣で叩かれたのでございますよ。それで傷がついてしまいましたが、そのままにしております。親王のお怒りを示すものとしてでございますが・・・。その後、親王様は母御とともに淡路へと流される途中で食を絶って亡くなられました・・・お気の毒な方でございます」

それを聞いて僧の並びに跪き、急いで雪を払った篁の手の下に見えたのは地蔵の頭にある大きな傷であった。


 京に留まっていた岑守はその日一日邸に籠っていた。方違かたたがえである。端然と坐し、身動ぎもせずに篁のことを考えている。陸奥守むつのかみから帰任した三年前初めて篁を率いてあのお方にお会いした時、あのお方は

既為其人之子 何還為弓馬之士乎

立派な人の子なのに なぜまた弓を射、馬を駆るような者になるのか、と嘆いたが、「既為其人」とは誰の事なのだ、と岑守は苦笑いを零した。わしであろうか、あのお方ご自身であろうか?たぶんご自身の事であったのだろう。しかしあの時、篁は私がそしられたと思ったのか顔色を変え、武芸はその日を限りにして、勉学に発奮し、たちまち頭角を現したのだった。そんな強い性格は確かにあのお方にそっくりだ。

あのお方と初めて会った時、あのお方は今の篁よりもお若くていらした。

延暦二十一年、後に柏原帝・桓武天皇と呼ばれる帝が統しめしておられた時の事である。

当時、岑守は卑職ひしょくにあった。官位は従七位上、その頃は今より官位の制度はきちんとしていて例え親が貴顕であっても、誰もが同じ身分から官職を積み上げていった。しかし柏原帝が打ち続く困難を切り抜けて世は治まりつつあった。そうなると官職も治世の中心に近い所にいたものほど優遇を受けて流動性が低くなる。藤原緒継おつぐ内麻呂うちまろら藤原家の者は昇任がことごとく目覚ましく他の家の者たちはそのあおりを食らい始めていた。

 小野とて基を辿れば春日皇子かすがのみこの血脈であるから由緒正しく、父永見ながみも征夷副将軍として功績もある。だがそんな由緒だけではなんとかなる時代ではなくなりつつあった。

何より政治力がものを言い始めていた。橘の家が失脚してからというもののまずは南家、ついで式家と藤原が他を圧して栄えつつある。ともかく小国でもいいから国司になるのが手っ取り早い。京で頭角を現すのは難しいだろうと岑守が考え始めていた頃であった。

そんな或る日、岑守は突然親王の一人に呼び出されたのである。親王と言っても次の帝に決まっている安殿あて親王ではない。弟の神野かみの親王であった。岑守は神野親王の事はほとんど知らない。なぜ自分を招いたのかの心当たりもない。そのような時は警戒するにしくはない。下手をうてば碌なことにはなるまいと岑守は心積もりをして参上をしたのだった。

おもを上げよ」

 親王は甲高い声で岑守に言った。親王は朱を注いだように顔を紅くして岑守を見ている。顔は思ったより近くにある。

「お招きに依りまして参上申し上げました」

うむ、とまだ少年っぽい顔を精一杯大人びさせるように顰めて

「岑守に頼みがある」

囁きながら、親王は更に顔を近づけた。

「何でございましょう」

「みな、控えよ。岑守と二人きりで話をしたい」

 親王は周りの者に命じた。そう命じられてもそのまま退出する事は普通はないが、側近の者は親王がかんのきつい性格である事を熟知している。皆が心配げに二人を振り返りつつ退出したのを見ると、親王は表情を和らげた。

「ようよう、本心で話ができる。面倒なものだ」

「お話とは・・・どのようなことでございましょう」

岑守にはそれが気に懸かる。面倒な話を二人きりでさせられ、その上お怒りでも買ったら何があるかもしれぬ。

「さてな、どう話をしたものか」

 躊躇うようにちらりとあたりを見回すと、

「岑守は妻があるか」

と親王は囁いた。

「はあ。ございます」

「そうか・・・あるか・・・」

何の話だ、と岑守は内心首を捻ったが親王はいよいよ顔を近づけて来た。

「そなたも知っておるかもしれぬが、田口より入侍にゅうじしたものがおる」

「存じております」

念のため神野親王について少し調べておいた事が早速役に立った。田口とは橘清友たちばなのきよともの妻の実家だ。清友は橘一族の長である奈良麻呂ならまろの失策で地に墜ちた橘家の再興を期待された逸材であったが僅か三十二の若さで病で死んだ。入合という名の弟がおり血筋は絶えてはいないと聞いてはおるが・・・。岑守には没落しかけている家に同病相哀れむの気持ちがある。

「名を嘉智子かちこという。将来のわたしの妻にするつもりだ」

「それは何よりでございます」

取り敢えず祝いは述べたが、東宮であったならまず橘の者を正妻にすることは許されまい。内親王か藤原式家であろう。東宮と言えど没落し始めた貴族から妻を得ることもあるが、橘は叛乱を起こした家柄でその記憶がまだ生々しすぎる。

「だが事は単純ではない。父帝からは高津内親王こうづないしんのうめとれと命を受けておる。たがえる事はなるまい。それは嘉智子も知っておる。とはいえその事はいずれ何とかはなろう」

我の強そうなこの親王であれば、誰かを押し付けられても自分の意を通して最後は気に入った娘を妻とするやもしれぬ。それはそれで心から祝いたいところであるが、まだ話の筋が見えてこない。

「察せよ」

 なんとか近づいてくる顔を礼を失さないように避けながら岑守は答えた。

「・・・難しゅうございますな」

「余の者に頼むわけにはいかぬ。面倒が出て来るのでな。とりわけ橘の女と親兄弟にはしられとうないのじゃ」

そう言われた時、突然岑守は閃いた。

「では、他の女人とも?」

「うむ」

親王は再び頬を染めた。歳の離れた弟が兄に悪戯をみつけられたような表情だった。

「嘉智子は癇の強いおなごだ。父帝からの命は致し方ないと申しておるが今、他の女との間に子が出来たとなると、いずれその女や産まれてくる子に災いが降りかかるかもしれぬ」

腹に子までいるのか?呆れて物も言えなかったが、岑守は親王は女を私に引き取れと言っているのだな、と考えを巡らした。東宮とこの親王の間には伊予いよ親王もおられ、順位が高いとは言えぬがこの御方にも帝になられる可能性がある。それに例え帝になられなくとも、どうやらこの親王には出世しそうな匂いがした。

「悪いようにはせぬ。頼む」

頭を下げた親王に向かって岑守は

「承知しました」

と答えた。その言葉に親王はほっとしたように岑守から顔を遠ざけた。

「ところでその女は納得しておるのですか?」

「うむ、実は・・・」

急に表情を曖昧にして親王は溜息をついた。

「岑守なら良いと申しておる。他の者なら里下がりをさせて欲しいそうだ。だが里下がりなどさせては何が起こるか分からぬ」

不満げに頬を膨らました親王を岑守は微笑ましげに見詰めた。

「まだ未練が御有りなのですね」

「未練などはない」

言い切った様子は、しかし未練たっぷりのようである。

「しかし、その方はなぜ私を」

「良くは知らぬ。そなたの事を知っているのであろうよ。そなたの方から聞いてみるがよい」

そういうと親王は岑守の耳に女の名を囁いた。

「知っておろう?」

「いえ、全く心当たりがございませぬ」

女は石見いはみからやってきた采女の一人というが聞き覚えのない名前だった。親王は訝し気に一瞬、顔を顰めたが

「まあ、よい」

 問題が片付いたとでも言うかのように言うと親王は天を仰いだ。

「近頃、父帝が近頃、女に惑わされるなとしきりに申されてな」

「なるほど」

東宮の安殿親王は東宮太夫、藤原縄主ふじはらのただぬしの娘を春宮に入れたのだが、娘の方ではなく付き添ってきた縄主の妻と深い仲になっていると、宮中で公然と囁かれている。縄主の妻は、帝が長岡京の造営を命じそのさなかに射殺された寵臣、藤原種継ふじはらのたねつぐの娘である。帝もさほど清廉潔白なお人柄でもない筈だが、なぜかこの二人の仲は異様に嫌っているらしい。

 その女こそ後に兄の仲成と共に変を起こす薬子くすこである。

「さような折に子が出来たなどといったらどんな目に遭うか。父帝は怖いお人だからな」

柏原帝は弟君をおしのけて帝になられた。弟君である他戸おさべ親王は幽閉中に逝去されたが暗殺されたと言う噂もある。その上、後に実子を皇太子にするため皇太弟、早良親王に罪を被せ流罪にした。憤死した皇太弟の祟りは今なお、都を脅かしていると信じられている。

 筋は異なるものの帰順した蝦夷の阿弖流為あてるいとその母、母礼もれを征夷大将軍坂田田村麻呂の諌止を制して死罪に処すと御裁可されたという話は耳に新しい。国を立て直すためとはいえ、いささか血が流れすぎているな、と温順な岑守は思っている。種継の娘を毛嫌いするのも種継が射殺された件に御自身が関わっているのではないかとまで考えが及び、畏れ多いことと慌てて思い直した。

「何を考えておる」

気付くと再び眼前に親王の顔が近づいていて、思わず岑守は後ずさった。


  岑守には子がなかった。そのせいかやんごとなきお方の頼みで形だけだと説くと、妻は孕んだ女を迎える事をあっさりと認めた。元来子供好きの女ではあったが、さすがにこのような自分にも訳の分からぬ話には抵抗があるだろうと考えていた岑守はほっと溜息をついたものである。女は日を選んでその三日後、五人の供と一緒に移って来た。

新しい壺屋つぼやを作るのは間に合わず邸のそこここを切り詰めて隙を作り女を迎え入れる事にした。どこか空いている別の小家を借りる事も考えたのだが、妻がそれでは手が足りぬだろうと言ったのである。

しばらくすると女の方も落ち着いたようなので岑守は出向いた。一体どんな女がどういうわけで自分の名を出したのか知りたかったのである。案内を乞うとすぐに通してくれた。几帳きちょうは引いてあるがその端に紅梅をあしらった裳裾もすそが零れていて、その艶やかさに岑守は思わず見とれた。

「お疲れでございましたでしょう」

「いいえ。こちらから出向いてご挨拶を申し上げるべきでございましたが、わざわざ御渡り頂いて恐縮でございます」

若やいではいるが、しっかりとした声だった。

「お加減はいかがですか?」

「悩ましいと言うほどではございませぬ」

「さて、・・・・」

岑守は躊躇った。何と尋ねればいいのだろう。すると思いがけぬ事に女が几帳をすっと引いた。思わず岑守は目を伏せた。

権少外記従七位上ごんせうげきしゅなないかみ、小野岑守様でいらっしゃいますね

「はあ」

岑守は目を伏せたまま小さい声で答えた。

「宜しゅうございました。初めてお目にかかります。彰子あきこと申します」

おそるおそる岑守は目を上げた。

 見た事もないほど美しい女だった。透けるように白い肌に艶やかな髪を床に垂らし切れ長のまみが岑守をしっかりと見ている。初めてと言っているのだから自分を見知っているわけでもなかろう。としたらなぜ自分の名を親王に告げたのか。親王は橘の娘の為にこの女を遠ざけたと言っていたが、橘の娘はそれほど美しいのであろうか?それほどの女がこの世に居ようか?

「夢で告げたお人が仰っておられました。権少外記従七位上、小野岑守様。決して違えるなよ、と」

「夢?」

「はい」

良く通る声で女は答えた。

「では、私の名を夢で知ったのでございますか?」

「その通りです。月の悩みがなく御子を身籠ったのではないかと気づきました夜、わたくしは夢を見たのでございます」

「ほう」

我ながら間の抜けた相槌だったが女は真面目な顔のまま続けた。

「恐ろしげなお方が夢に現れ仰ったのでございます。お前は確かに身籠っておる。そのまま内裏におればその子の命は果敢無くなるであろう。かといって里に下っても同じこと。親王の方から話があった時に、必ず権少外記従七位上小野岑守の所に参りたいというのだ、と」

「なるほど」

夢の中に出てきたのがどこの誰だか知らぬが、わざわざ従七位上という貧相な位までつけて呼ぶ必要はなかろう、と岑守はいささ憮然ぶぜんとした。

「それでわたくし、目が覚めるとすぐにその名を紙に書き写しました」

そう言うと、眼の前に置いてあった紙を拡げた。そこには

「こんのせうけきしうなないかみおのみねもり」

と美しいかなで書かれている。

「でもうれしゅうございました。岑守様が良い御方のようで。何しろ夢に現れたお方はたいそう恐ろしげな方でございましたから。同じような御方だったらどうしようかと思っておりました」

「ははあ」

何となくこそばゆい気持ちを抱いたまま、岑守は退出した。

「お美しい御方だそうで」

居間でつくねんと座っていた岑守のそばにいつの間にか寄って来ていた妻が尋ねた。

「まことに」

と呟いた岑守の頬を

「しゃんとなさいませ」

と妻がつねるまねをした。

それから五ケ月が過ぎ、重陽ちょうようの節句の日にまるまるとした子が誕生した。新しい母屋の隣の産屋から盛んな泣き声がしてくるのを岑守はぼんやりと聞き、妻を始めとした女たちが走り回るのを眺めているばかりである。

「男の子でございますよ。おめでとうございます」

明るい声で妻が言うのを聞いてなんだか妙な気分になり

「では、少し外に出て参る」

と、岑守が腰を上げると、妻が制して、

「少しばかりお抱きになってから行きなさいませ。その方がきちんとお伝え出来ましょう?」

と言った。行き届いた女だ、と妻に感心しつつ侍女が産着に包んで抱いていたまだ目も開いていない赤児を抱く。その体は意外に重かった。

初夜、三夜と親王から内密に産養うぶやしないが届いた。五夜の産養の時には別に文が添えてあった。頼んでおいたものが届いたかと開けてみると

「篁」

と書かれてある。美しい字であった。岑守はしばし魅入られたように一字だけ記された陸奥紙みちのくがみを眺めるとその紙を手に母になったばかりの人の所へと赴いた。

「親王さまが名を付けてくれた」

彰子は肥立ちが思わしくなく床についたままだった。篁、と書かれた紙に目を瞠ると乳母があやしている赤ん坊をちらりと見遣った

「あなたさまに名をつけていただきとうございました」

「私がお頼み申し上げたのだ。何といっても親子の縁は深い。竹の叢のように子孫が繁栄することを願っておられるのだろう」

「さようでございますね。でも・・・・」

美しいまみがかすかに揺れた。やはり彰子もこの名の意味を見抜いたのだ。皇の字で産まれて来た子がすめらぎに連なる事を認めつつ、上にある竹はそれを表に出してはならぬと命じておられるに相違ない。

「良い名だ」

岑守は呟いた。彰子はうつむいたまま何も答えなかった。

五十日の歯固めが済んだ頃、肥立の悪かった彰子の容態が急に悪化した。呼ばれて枕もとを訪れた岑守だったが、顔は青白く目は虚ろでただ頬だけが紅に染まっている彰子を見てもう長くはなかろうと思わざるを得なかった。

「昨夜、夢を見ました」

座った岑守の方に首を傾げ彰子は小声で言った。

「無理に話すな。体に障る」

「いえ、お聞きくださいませ。夢に現れたのは以前あなたさまの名を告げたあの御方でございました」

「ふむ」

岑守は顎鬚をしごいた。

「あのお方はきっと閻魔さまでございましょう。篁はもう大丈夫だと仰せになられました。ですが代わりにわたくしを召されるそうでございます」

「何を馬鹿な」

「いえ、わたくしはようございます」

彰子は乾いた咳をした。

「大丈夫か」

「ええ、大丈夫でございます。お優しいこと」

そう言うと彰子はふっと眼を見開いて岑守を見た。

「来世はあなたさまのようなお方と寄り添うことが出来ればと、ここに参りましてからずっと思っておりました」

大きく息を吐いた彰子の手を岑守が思わず握ると彰子も強く握り返してきた。初めて触れた彰子の体は柔らかく熱かった。

 それが彰子の最後の夜だった。

産の穢れ、死の穢れと立て続けの出来事に岑守の妻は忙しく立ち働いた。妻の仕切りに眼を瞠りつつ、やがてその細い腕に赤ん坊がちゃっかりと抱かれているのを見て岑守は天を仰いだ。

「ほんに不憫な。かように幼い年で」

そういいつつ頬擦りをして赤ん坊をあやしている。その年岑守は春宮小進とうぐうせうしんに転じていたので春宮からも弔問があった。弔問使が慌ただしく帰って行ったあと、その目を憚るように弔問に来た者がある。岑守に、とこっそりと案内を乞うたので、岑守が直接応対をした。立ったまま、その男は神野親王からの遣いだと言った。

「親王さまからことづけがございます」

「承け給おう」

「本夕、淑景舎しげいしゃまでお越しくださいとの事でございます。とりの正刻に美福門びふくもんでお待ちくださいませ。私がご案内申し上げます」

「・・・。だが、けがれがまだ落ちておらぬ」

「至急の御召しでございます。いつもの装束で御参上願いたい」

「しかし・・・」

あながちにとの仰せでございますゆえ」

仕方あるまいと岑守は思い直した。亡くなったのは元来、親王の思い人である。

「承知した」

「では、酉の正刻、美福門にて」


夕刻、岑守の姿は淑景舎にある。

 「ご苦労であったの」

さすがに親王の顔は沈痛だった。

 「は」

 「彰子は気の毒であった」

 「肥立ちが悪うございました。せっかくお預かり申し上げておりましたのに」

 「致し方あるまい。ところで、な・・・子の事だが・・・うん、それより前になぜ、彰子はお主を知っておったのか聞いたか?」

 「それでございますれば・・・」

岑守は彰子から聞いた話を語ると、自分の名が書かれた紙を袖から出して親王に渡した。

 「なるほど、確かにこれは彰子の手じゃ」

その手をなぞるようにすると親王は袖で目を拭った。彰子が見たという夢の話をすると熱心に身を乗り出して聞き入った親王は

 「不思議の事よ・・・。さて・・・本題だが」

と言い難そうに岑守をちらりと見遣った。

 「子のことでございますな」

 「うむ。子だけ面倒を見てくれと頼むのも気が引ける。娘ならどこかに嫁がせればよいが男となると具合が悪い。寺に預けようと考えておる。ちょうど明日知り合いの住持じゅうじが来るのでな」

 「しかし、そうなると私の妻が応じますかどうか」

 「なに?」

 「もう自分が産んだかのように離しませぬ」

そうか、と呟くと親王は気が抜けたかのように目を宙に彷徨わせた。

 「では、頼んでよいのか」

 やはり、子を寺に預けるというのは気が重かったらしい。寺に預けられた子は帝所縁の者であっても決して世に出ることはなく、妻を娶って族を残すこともできない。

 「お任せくださいませ。小野の長者ちょうじゃとして育てますゆえ。万が一にも出生のことは申しませぬと、妻も誓っております」

うむ、とだけ言うと親王は溜息をついた。

 「できるだけの事はしよう。あの女と一緒に移った供の者たちはそのまま使え」

神妙な親王の様子を見て岑守は唇の端を微かにあげた。

その四年後柏原帝が崩御され安殿親王が即位された。新天皇の即位は当然の事として受け取られたのだったが、世間が驚動きょうどうしたのは皇太弟に神野親王が就かれたことであった。誰もが安殿親王の子である阿保あぼ親王か高丘たかおか親王が皇太子になると信じていたのである。

 時を同じくして岑守はいきなり従七位上から従五位下へと昇任し、殿上人の仲間入りを果たしたのであった。



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