竹の下の皇(すめらぎ) 小野篁
西尾 諒
第1話 夢と現(うつつ)
額に浮かんできた汗を
「さて、どれほど歩けば出口へ
ひとりごつと、篁は再び足重たげに歩を進め始めた。
これが夢の中だと篁は承知している。だが毎夜同じ夢を見る理由がとんとわからない。夢を見始めたのはいつ頃か。
それにしても今は冬。もはやあれから・・・指折り数えれば十ヶ月になんなんとしている。
夢を見始めた頃、同輩に毎夜同じ夢を見るのだと零したら、良い
「さような話はきいたことがございませぬ」
と途方に暮れた。そうか、と持参した値の米を置くと篁は占師の家を後にした。
「弱ったの」
と珍しく愚痴を零しながら緩くうねった道を曲がったその時、眼前に今迄見た事のない光が見えた。
「さて、ここは」
洞窟を抜けた先で篁は
その時、ふと霧の向こうに
「はて、面妖な。ここで生きた人を見るとは、久しぶりの事じゃ」
太い声がした。童に見えたのは杖を突いた小さな
「御坊は?どなたでございますか」
ほっとした思いで尋ねた篁に僧はからりと笑うと、
「ただの坊主じゃ」
とだけ答えた。
「わたくしは小野篁と申します」
と篁が膝を屈して名乗ると、ふむ、と僧は篁を
「わしは
と名乗り返した。
「善財殿。教えて下され。ここはどこなのでございましょうか」
「うぬ?どこと知らずにお主はやって参ったのか」
僧は空を仰ぐと、深々と溜息をついた。
「ここはな、地獄じゃよ。お主の立っているところはその入り口よ」
入り口と聞いて篁は足元を見た。地獄の入口と言われても特に変わった様子はない。ただの砂である。
「地獄?」
「そうじゃ。時折死を想ってここらを彷徨うものがおるが、お主は違うようじゃの。それと知らずに迷い込む者がいるとは思わなんだ。いかにして参ったのだ?」
僧は興味深げに篁を見据えた。篁がしかじかと語ると僧はしばらく考え込み
「お主の母親は亡くなっておるか?」
と低い声で尋ねた。
「はあ」
篁の母は五年前、篁が十八の時に病を得て死んでいる。息を引き取った母の枕元で二昼夜泣きとおした篁だったが、父がもはや相が変わっておると言って亡骸から引き離した。
「ならばお主は死んだ母御の胎の道を通って来たのじゃ。その術を使うとはよほどの覚悟が母御にもござったのであろう」
「どういうことでございますか?」
「胎の道は前世へ戻る一つの道じゃが戻るだけで十月かかる。それだけではない。胎の道を戻るのは生死を跨ぐことじゃ。大概の者には耐えられぬ。母が何の考えもなく我が子を死ぬような眼に遭わせることはあるまいて」
「では、吾が母が・・・私をお導きに?」
「なにやら、仔細があるのでござろうよ」
そう言うと僧は篁を手招きし、
「せっかくじゃ。おいで」
そう言って手を取ると歩き出した。霧はいつの間にか晴れていて見れば辺りは荒涼とした岩と砂ばかりの景色である。木も草も生えておらぬ。歩く道筋は砂に覆われている。
僧は慣れているのか篁の手を引いて迷う様子もなく歩いて行く。その後ろをついていく途中で篁は僧の頭に古く深い傷跡があるのに気付いた。
「御坊、その傷はいかがなされたので」
「うむ?」
と善財と名乗った僧は手で傷跡を撫でると、
「何、ここでは良くある事じゃ。気にするな」
と何でもないように答えた。
「されど・・・」
気にするなと言うが、そんな眼に遭うのは勘弁してほしい。
「さような所には連れて行かぬ。」
篁の考えを読んだように僧は振り向いてにやりと笑った。
「さあ、ここじゃ」
小半時も歩き続けただろうか、いつの間にか歩くたびに足許を掬っていた砂は固い岩肌へと変わっている。僧の指さす先を眺めると断崖絶壁での下、谷間に溢れかえらんばかりの亡者を
「ここは
思わず身を引いた篁を、僧は笑って見た。
「地獄とはこれのみじゃ」
「しかし・・・」
地獄にはいろいろあると聞いている。八大地獄と聞くこともあれば百三十六あるとも聞いている。
「方便じゃよ。衆生は
嘆かわしい、と呟いて僧は悶え苦しむ亡者の群を見遣った。
「じゃがまだここにおるものはいずれ
「無間地獄・・・」
「無間地獄は
「はぁ」
「地獄はな。愚かな衆生が
「さようなものでございますか」
ふむ、と僧は小さく鼻を鳴らすと
「さて、お主に用のあるはどの亡者かの」
と目を凝らした。
「亡者が私を呼んだのですか?」
「いや呼んだのはお主の母御じゃ。だがこの中にお主を呼んだ理由があるに違いない」
はて、そんな事があるものかと思いつつ篁も目を凝らした。亡者の顔は米粒ほどにしか見えない。これではとても見つけられまいと思ったが、眺め回しているうちにふと一人の女に目が釘付けになった。その女は遥か彼方の業火の中からひたと篁を見詰めていたが篁の視線に気づくと、ついと顔を逸らした。
「小春・・・か?」
小春とは義母と篁の間で今なお解けぬ
今から数年前の事である。実母が亡くなった後、大学に通いだした篁は家に戻る事が少なくなっていた。父、
幾度となく通っているうちに二人は情を交わす仲となり、やがて小春は身籠った。岑守は二人を夫婦にすればよいではないかと言ったが、娘を帝の側に侍らせたいと考えていた継母は怒りの余り娘を蔵に閉じ込め、それを苦にした小春は食を断ち死んでしまったのだ。小春の弔いの後、篁は
泣く涙雨と降らなむ渡り川 水まさりなば帰りくるがに
という歌を詠んだ。三途の川が我が涙で溢れれば妹が戻って来るのではないか、という
今となっても義母の仕打ちは許しがたい
「見つけたか」
僧は篁に尋ねた。
「おそらくは」
「亡者が山ほどいても見知った者は必ずわかる物じゃ。会うてやればよかろう」
「しかしどうやって・・・」
「念じてみよ」
篁は目を瞑ると強く念じた。小春を最後に見たのは蔵の鍵穴から瀕死の容体を見た時である。人を呼び蔵の戸を打ち毀した時、息も絶え絶えだった小春は篁を見て何かを言いかけたが言えぬまま死んだ。その時小春はいったい何を言おうとしていたのであろうか。聞かせて欲しいと願ったのである。
「おやおや」
僧の声に目を開くと小春は今にも手が届かんとする所にまで浮き上がっていた。だが十人余りの亡者が小春の
「これは弱ったのう」
のんびりした僧の声の調子にはさほどの困惑があるとは思えなかった。篁は手を伸ばして小春の指を掴もうとしたが小春は自分に纏わりついて上がってきた亡者たちを気にして頻りに下を見ている。構わずに引き上げようとした篁を悲し気な眼で制し、小春は無理に微笑むとゆっくりと下降し始めた。
「小春ーっ」
篁が悲痛な声を上げた時、小春の姿が弾けるように輝いた。その眩しさに驚いて
「お前さん、あれを御覧」
僧の声に振り向くと僧は手を
「来世でお会い致しましょう、と申し上げたのでございますよ。篁さま。その願いが叶いました。ありがとう存じます」
耳元で懐かしい声が聞こえた刹那、宙に浮かんでいた小春はすっと天に向かって昇っていった。
「さても珍しい」
僧は篁と並んで小春が消えて行った一点を見据えていた。
「ここから
篁は呆けたように天を見たままである。僧の手は篁の手を引いた。油気のない乾いた手である。
「用事が済めばここに長くおるまでもない。さて行くぞ」
「どちらへと?」
「母御に会わねば元の世に帰れぬよ。あまり長く待たせると母御の
五衰というのは天女の衰える相の事である。ということは母も天女なのだろうか、と思いながら篁は僧について歩いて行く。
「これから行くのは
心ここにあらずといった表情の篁に僧は渋面を作ると、歩を止めてもう一度同じことを言った。
「閻魔に気取られ、行き先を言われればお主はもう元に戻れぬ。
篁は頷いた。
「私の父が閻魔とは?」
「何、お主の眼にのみお主の父御に見えるだけじゃ。別の者にはその者の父に見える。みな己の罪状を父に諭されるのよ。それが掟と云うもの」
「なるほど」
「あと
千由旬とは途轍もない距離だな、と篁は思ったが僧はほどなく歩みを止めると、
「ついたぞ」
と篁を振り向いた。やはり木も草さえも一本も見当たらない枯れた大地の上に石造りの大きな壁が立っている。遠くにぞろぞろと死んだばかりの者たちが
「先ほどわしが言った事を忘れるではないぞ。さて、覗いてみるとするか」
僧は篁を連れて裏手に回り込んだ。建物と言っても裏と横に壁があるだけで正面は開いている。その中央の
「あれは罪状と罪の深さを言っておるのだよ」
篁はこくりと頷いた。
「天を見よ」
僧の言葉に仰ぎ見ると中空にさきほどの小春と同じような衣装を着た天女が浮かんでいるが、顔が良く見えない。
「少しばかり前に出てみるか」
僧は言うと篁の手を引き、篁は腰を引きつつ僧に続いた。再び天を仰ぐと今度は天女の横顔が見えた。
「はて・・・」
声に出さずに篁は首を傾げる。五年経っているが母の顔を忘れた事はない。しかし天に浮いている女の顔とは明らかに違う。たいそう美しい女人であるが一向に見覚えがない。その時天女がふっと篁の方を見た。そして微笑むと視線を閻魔の方に動かした。釣られて篁は閻魔の横顔を覗き込んだ。
「あっ」
思わず口をついて出た篁の叫びに、閻魔がゆっくりと振りかえった。
「いかん」
僧が大慌てで篁の手をひいた。
「あれほど注意をしたに・・・」
僧は篁を睨んでいる。篁は息せき切って声も出せない。喘ぎに肩を揺らし、ぺったりと座り込んだ地面から篁は僧を見上げた。
「御坊。あの天女が私の母親、閻魔は私の父の顔と言うのはまことにございますか」
「そうじゃ」
「何かの間違えではございませぬか」
「間違えも何もない。それが掟であるからの」
「しかし・・・」
「しかし・・・何じゃ」
僧は怪訝そうな眼で篁の顔を覗き込んだ。
「あれは私の母ではございませぬ」
「何?」
「そればかりか、父も・・・」
「父もか?」
頓狂な声を上げた僧に向かって篁は頷いた。僧は首を傾げると、
「ふうむ・・・。ならば何やら仔細があるのだろう。だがお主の見た夫人がお前の本当の母である事は間違いない。さもなければ胎の道を通してお前をここに呼ぶことはならぬ。さてはお主の母御はあの女を助けようとしただけではなかったのやもしれぬ。お主一体何者じゃ?」
と尋ねた。
「わたしはただの
ふむ、と僧は呟くと暫く考え込んだ。
「なぜお主はここにこうして生きておれるのか。閻魔は確かにお主に気付いておった。なぜじゃ」
「では、私の命は風前の灯であったと?」
「風前も何もない。普通ならもはやお主も他の亡者と共にさっきの崖の下でおめき声を上げておったであろうよ」
ぶっきらぼうにそういうと、僧は
「で、父は誰だったのだ?」
と問うた。篁は暫し躊躇ったが、
「
と言葉少なに答えた。
「なに?とすればお主は
僧は呆れたようにまじまじと篁を見詰めたが、うむと一人頷くと
「天道にまさかはない。それが
そう促した僧の表情が、突然何かに思い当ったように揺らいだ。
「もしや・・・お主」
「もしや・・・なんでございますか?」
「いや、何でもござらぬ。さあ、行きなされ」
突然口調が改まった僧の様子を奇異に思いながら篁は尋ねた。帝の血筋と知ってとの事かと一瞬思ったが、どうやらそうではなさそうである。まじまじと見つめてくる僧の眼には興味と共にどこか畏れの色が浮かんでいる。いくら帝が尊いとはいえ、僧のいるこの地までその
「御坊はいかがなさるので?」
「わしはここで成す事がありますでの。無間に落ちなんとしておる魂を救わねばなりませぬ」
「無間地獄でございますか」
「さよう。柏原帝のお血筋であるあなた様にも縁のあるお人ですがの。瞋に深く毒されておられます」
「瞋に・・・」
「覚えのないことで死なねばならなかったのでしてな。瞋はその時産まれたがその御方本来の物ではないのでございます。他人の貪が生んだ瞋じゃからこそ、哀れでございまして」
「さようですか・・・」
「お達者で・・・もし、ここに用があるような事があったら
「さような事・・・二度とございませぬでしょう」
「さて・・・どうですか」
善財は奇妙な表情を浮かべた。
「それより御坊と再びお会いするためにはどうしたら良いのでしょう」
篁の問いに、僧は
「
そう言い残すと僧は再び湧いてきた霧の中へとそそくさと消えて行ったのである。
はっと目覚めた篁は暫く暗く冷たい床の中で呆然としていた。
自分はまさに死なんとしたのか?と深い息を
だが、夢は余りにも鮮やかであった。白々と明けてきた暁の中、鳥たちがそこここで鳴き始めたが、篁はじっと床の中で考え込んでいた。
冷え切った手に息を吹きかけ暖めると、実家の門を潜り篁は真っ直ぐ父の住む
「おお、よう参ったな」
岑守は久しぶりに見る息子に嬉しそうに笑いかけた。
「どうしたのじゃ。わざわざ
「父上にどうしてもお伺いしたいことがございまして」
「改まった話のようだの。まあよい。何を聞きたいのだ?」
そう言いつつ岑守は微笑を絶やさない。
「では率直にお伺い申し上げます。私はまことに父上の子でございますのでしょうか」
ひたと自分を見詰めた篁の視線に、僅かに岑守の微笑が陰った。
「何かと言えば、さようなことか。お前は私の子だよ」
答えた岑守の口ぶりはしかし、些かも動じていない。
「まことにでございますか」
「その通りだ。お前は私と亡くなった妻の子であるよ。なぜそのような事を尋ねる」
「夢を見ました。夢の中でこれが本当の父母であると」
「む。で、どなた、いや誰だったのじゃ」
「母は大変美しい御方でございました。亡き母も美しい方でしたが、美しさが違いました。
「なるほど・・・夢のぅ」
篁は岑守をふと見上げたがそのまま黙っていた。夢で見た父が帝であったという話をするのは憚られたし岑守も重ねて尋ねなかった。岑守は目を
ついに堪えきれなくなった篁が、
「では」
と立ち上がると、岑守は目を開き、うむ、と答えただけである。篁はそれ以上仕様もないまま父を残して邸を辞した。
十日後、その篁の姿は長岡京の
「実は以前お会いした僧がここを尋ねよと申されまして」
「なるほど、それはそれは遠いところを良くおいでになられました」
実直そうな僧は頭を下げた。その応対に心を強くして
「善財と申されるお方で・・・」
と尋ねたが、
「はて、そのような名の御方は存じ上げませぬが」
僧は顔を
篁は自分の頭頂を指し
「ここらあたりに大きな傷がございました」
「傷・・・いや、そのような者はここにはおりませぬ」
「おられぬ?」
「はあ。わたくしがここでお勤めを始めて十五年、さような方をおみかけしたことはございませぬ」
「そうですか」
なら、あの僧の話は
「このまま京へ戻られるのでございましょうか?」
「さようですが」
「では申し訳ございませぬが、これを
「構いませぬ」
受け取ろうとした篁の手がかじかんでいたのか、書状はするりと指の間から滑り落ちた。
「これは申し訳ない」
そう言って拾おうとした篁の眼に一体の石地蔵が映った。雪に隠れかろうじて
「これは?」
「ああ、これはいわくつきの地蔵でございましてね」
優しげな顔つきになると僧は地蔵の前に膝をついた。
「昔この寺に幽閉された
それを聞いて僧の並びに跪き、急いで雪を払った篁の手の下に見えたのは地蔵の頭にある大きな傷であった。
京に留まっていた岑守はその日一日邸に籠っていた。
既為其人之子 何還為弓馬之士乎
立派な人の子なのに なぜまた弓を射、馬を駆るような者になるのか、と嘆いたが、「既為其人」とは誰の事なのだ、と岑守は苦笑いを零した。わしであろうか、あのお方ご自身であろうか?たぶんご自身の事であったのだろう。しかしあの時、篁は私が
あのお方と初めて会った時、あのお方は今の篁よりもお若くていらした。
延暦二十一年、後に柏原帝・桓武天皇と呼ばれる帝が統しめしておられた時の事である。
当時、岑守は
小野とて基を辿れば
何より政治力がものを言い始めていた。橘の家が失脚してからというもののまずは南家、ついで式家と藤原が他を圧して栄えつつある。ともかく小国でもいいから国司になるのが手っ取り早い。京で頭角を現すのは難しいだろうと岑守が考え始めていた頃であった。
そんな或る日、岑守は突然親王の一人に呼び出されたのである。親王と言っても次の帝に決まっている
「
親王は甲高い声で岑守に言った。親王は朱を注いだように顔を紅くして岑守を見ている。顔は思ったより近くにある。
「お招きに依りまして参上申し上げました」
うむ、とまだ少年っぽい顔を精一杯大人びさせるように顰めて
「岑守に頼みがある」
囁きながら、親王は更に顔を近づけた。
「何でございましょう」
「みな、控えよ。岑守と二人きりで話をしたい」
親王は周りの者に命じた。そう命じられてもそのまま退出する事は普通はないが、側近の者は親王が
「ようよう、本心で話ができる。面倒なものだ」
「お話とは・・・どのようなことでございましょう」
岑守にはそれが気に懸かる。面倒な話を二人きりでさせられ、その上お怒りでも買ったら何があるかもしれぬ。
「さてな、どう話をしたものか」
躊躇うようにちらりとあたりを見回すと、
「岑守は妻があるか」
と親王は囁いた。
「はあ。ございます」
「そうか・・・あるか・・・」
何の話だ、と岑守は内心首を捻ったが親王はいよいよ顔を近づけて来た。
「そなたも知っておるかもしれぬが、田口より
「存じております」
念のため神野親王について少し調べておいた事が早速役に立った。田口とは
「名を
「それは何よりでございます」
取り敢えず祝いは述べたが、東宮であったならまず橘の者を正妻にすることは許されまい。内親王か藤原式家であろう。東宮と言えど没落し始めた貴族から妻を得ることもあるが、橘は叛乱を起こした家柄でその記憶がまだ生々しすぎる。
「だが事は単純ではない。父帝からは
我の強そうなこの親王であれば、誰かを押し付けられても自分の意を通して最後は気に入った娘を妻とするやもしれぬ。それはそれで心から祝いたいところであるが、まだ話の筋が見えてこない。
「察せよ」
なんとか近づいてくる顔を礼を失さないように避けながら岑守は答えた。
「・・・難しゅうございますな」
「余の者に頼むわけにはいかぬ。面倒が出て来るのでな。とりわけ橘の女と親兄弟にはしられとうないのじゃ」
そう言われた時、突然岑守は閃いた。
「では、他の女人とも?」
「うむ」
親王は再び頬を染めた。歳の離れた弟が兄に悪戯をみつけられたような表情だった。
「嘉智子は癇の強いおなごだ。父帝からの命は致し方ないと申しておるが今、他の女との間に子が出来たとなると、いずれその女や産まれてくる子に災いが降りかかるかもしれぬ」
腹に子までいるのか?呆れて物も言えなかったが、岑守は親王は女を私に引き取れと言っているのだな、と考えを巡らした。東宮とこの親王の間には
「悪いようにはせぬ。頼む」
頭を下げた親王に向かって岑守は
「承知しました」
と答えた。その言葉に親王はほっとしたように岑守から顔を遠ざけた。
「ところでその女は納得しておるのですか?」
「うむ、実は・・・」
急に表情を曖昧にして親王は溜息をついた。
「岑守なら良いと申しておる。他の者なら里下がりをさせて欲しいそうだ。だが里下がりなどさせては何が起こるか分からぬ」
不満げに頬を膨らました親王を岑守は微笑ましげに見詰めた。
「まだ未練が御有りなのですね」
「未練などはない」
言い切った様子は、しかし未練たっぷりのようである。
「しかし、その方はなぜ私を」
「良くは知らぬ。そなたの事を知っているのであろうよ。そなたの方から聞いてみるがよい」
そういうと親王は岑守の耳に女の名を囁いた。
「知っておろう?」
「いえ、全く心当たりがございませぬ」
女は
「まあ、よい」
問題が片付いたとでも言うかのように言うと親王は天を仰いだ。
「近頃、父帝が近頃、女に惑わされるなと
「なるほど」
東宮の安殿親王は東宮太夫、
その女こそ後に兄の仲成と共に変を起こす
「さような折に子が出来たなどといったらどんな目に遭うか。父帝は怖いお人だからな」
柏原帝は弟君をおしのけて帝になられた。弟君である
筋は異なるものの帰順した蝦夷の
「何を考えておる」
気付くと再び眼前に親王の顔が近づいていて、思わず岑守は後ずさった。
岑守には子がなかった。そのせいかやんごとなきお方の頼みで形だけだと説くと、妻は孕んだ女を迎える事をあっさりと認めた。元来子供好きの女ではあったが、さすがにこのような自分にも訳の分からぬ話には抵抗があるだろうと考えていた岑守はほっと溜息をついたものである。女は日を選んでその三日後、五人の供と一緒に移って来た。
新しい
しばらくすると女の方も落ち着いたようなので岑守は出向いた。一体どんな女がどういうわけで自分の名を出したのか知りたかったのである。案内を乞うとすぐに通してくれた。
「お疲れでございましたでしょう」
「いいえ。こちらから出向いてご挨拶を申し上げるべきでございましたが、わざわざ御渡り頂いて恐縮でございます」
若やいではいるが、しっかりとした声だった。
「お加減はいかがですか?」
「悩ましいと言うほどではございませぬ」
「さて、・・・・」
岑守は躊躇った。何と尋ねればいいのだろう。すると思いがけぬ事に女が几帳をすっと引いた。思わず岑守は目を伏せた。
「
「はあ」
岑守は目を伏せたまま小さい声で答えた。
「宜しゅうございました。初めてお目にかかります。
おそるおそる岑守は目を上げた。
見た事もないほど美しい女だった。透けるように白い肌に艶やかな髪を床に垂らし切れ長のまみが岑守をしっかりと見ている。初めてと言っているのだから自分を見知っているわけでもなかろう。としたらなぜ自分の名を親王に告げたのか。親王は橘の娘の為にこの女を遠ざけたと言っていたが、橘の娘はそれほど美しいのであろうか?それほどの女がこの世に居ようか?
「夢で告げたお人が仰っておられました。権少外記従七位上、小野岑守様。決して違えるなよ、と」
「夢?」
「はい」
良く通る声で女は答えた。
「では、私の名を夢で知ったのでございますか?」
「その通りです。月の悩みがなく御子を身籠ったのではないかと気づきました夜、わたくしは夢を見たのでございます」
「ほう」
我ながら間の抜けた相槌だったが女は真面目な顔のまま続けた。
「恐ろしげなお方が夢に現れ仰ったのでございます。お前は確かに身籠っておる。そのまま内裏におればその子の命は果敢無くなるであろう。かといって里に下っても同じこと。親王の方から話があった時に、必ず権少外記従七位上小野岑守の所に参りたいというのだ、と」
「なるほど」
夢の中に出てきたのがどこの誰だか知らぬが、わざわざ従七位上という貧相な位までつけて呼ぶ必要はなかろう、と岑守は
「それでわたくし、目が覚めるとすぐにその名を紙に書き写しました」
そう言うと、眼の前に置いてあった紙を拡げた。そこには
「こんのせうけきしうなないかみおのみねもり」
と美しいかなで書かれている。
「でもうれしゅうございました。岑守様が良い御方のようで。何しろ夢に現れたお方はたいそう恐ろしげな方でございましたから。同じような御方だったらどうしようかと思っておりました」
「ははあ」
何となくこそばゆい気持ちを抱いたまま、岑守は退出した。
「お美しい御方だそうで」
居間でつくねんと座っていた岑守のそばにいつの間にか寄って来ていた妻が尋ねた。
「まことに」
と呟いた岑守の頬を
「しゃんとなさいませ」
と妻が
それから五ケ月が過ぎ、
「男の子でございますよ。おめでとうございます」
明るい声で妻が言うのを聞いてなんだか妙な気分になり
「では、少し外に出て参る」
と、岑守が腰を上げると、妻が制して、
「少しばかりお抱きになってから行きなさいませ。その方がきちんとお伝え出来ましょう?」
と言った。行き届いた女だ、と妻に感心しつつ侍女が産着に包んで抱いていたまだ目も開いていない赤児を抱く。その体は意外に重かった。
初夜、三夜と親王から内密に
「篁」
と書かれてある。美しい字であった。岑守はしばし魅入られたように一字だけ記された
「親王さまが名を付けてくれた」
彰子は肥立ちが思わしくなく床についたままだった。篁、と書かれた紙に目を瞠ると乳母があやしている赤ん坊をちらりと見遣った
「あなたさまに名をつけていただきとうございました」
「私がお頼み申し上げたのだ。何といっても親子の縁は深い。竹の叢のように子孫が繁栄することを願っておられるのだろう」
「さようでございますね。でも・・・・」
美しいまみが
「良い名だ」
岑守は呟いた。彰子はうつむいたまま何も答えなかった。
五十日の歯固めが済んだ頃、肥立の悪かった彰子の容態が急に悪化した。呼ばれて枕もとを訪れた岑守だったが、顔は青白く目は虚ろでただ頬だけが紅に染まっている彰子を見てもう長くはなかろうと思わざるを得なかった。
「昨夜、夢を見ました」
座った岑守の方に首を傾げ彰子は小声で言った。
「無理に話すな。体に障る」
「いえ、お聞きくださいませ。夢に現れたのは以前あなたさまの名を告げたあの御方でございました」
「ふむ」
岑守は顎鬚をしごいた。
「あのお方はきっと閻魔さまでございましょう。篁はもう大丈夫だと仰せになられました。ですが代わりにわたくしを召されるそうでございます」
「何を馬鹿な」
「いえ、わたくしはようございます」
彰子は乾いた咳をした。
「大丈夫か」
「ええ、大丈夫でございます。お優しいこと」
そう言うと彰子はふっと眼を見開いて岑守を見た。
「来世はあなたさまのようなお方と寄り添うことが出来ればと、ここに参りましてからずっと思っておりました」
大きく息を吐いた彰子の手を岑守が思わず握ると彰子も強く握り返してきた。初めて触れた彰子の体は柔らかく熱かった。
それが彰子の最後の夜だった。
産の穢れ、死の穢れと立て続けの出来事に岑守の妻は忙しく立ち働いた。妻の仕切りに眼を瞠りつつ、やがてその細い腕に赤ん坊がちゃっかりと抱かれているのを見て岑守は天を仰いだ。
「ほんに不憫な。かように幼い年で」
そういいつつ頬擦りをして赤ん坊をあやしている。その年岑守は
「親王さまから
「承け給おう」
「本夕、
「・・・。だが、
「至急の御召しでございます。いつもの装束で御参上願いたい」
「しかし・・・」
「
仕方あるまいと岑守は思い直した。亡くなったのは元来、親王の思い人である。
「承知した」
「では、酉の正刻、美福門にて」
夕刻、岑守の姿は淑景舎にある。
「ご苦労であったの」
さすがに親王の顔は沈痛だった。
「は」
「彰子は気の毒であった」
「肥立ちが悪うございました。せっかくお預かり申し上げておりましたのに」
「致し方あるまい。ところで、な・・・子の事だが・・・うん、それより前になぜ、彰子はお主を知っておったのか聞いたか?」
「それでございますれば・・・」
岑守は彰子から聞いた話を語ると、自分の名が書かれた紙を袖から出して親王に渡した。
「なるほど、確かにこれは彰子の手じゃ」
その手をなぞるようにすると親王は袖で目を拭った。彰子が見たという夢の話をすると熱心に身を乗り出して聞き入った親王は
「不思議の事よ・・・。さて・・・本題だが」
と言い難そうに岑守をちらりと見遣った。
「子のことでございますな」
「うむ。子だけ面倒を見てくれと頼むのも気が引ける。娘ならどこかに嫁がせればよいが男となると具合が悪い。寺に預けようと考えておる。ちょうど明日知り合いの
「しかし、そうなると私の妻が応じますかどうか」
「なに?」
「もう自分が産んだかのように離しませぬ」
そうか、と呟くと親王は気が抜けたかのように目を宙に彷徨わせた。
「では、頼んでよいのか」
やはり、子を寺に預けるというのは気が重かったらしい。寺に預けられた子は帝所縁の者であっても決して世に出ることはなく、妻を娶って族を残すこともできない。
「お任せくださいませ。小野の
うむ、とだけ言うと親王は溜息をついた。
「できるだけの事はしよう。あの女と一緒に移った供の者たちはそのまま使え」
神妙な親王の様子を見て岑守は唇の端を微かにあげた。
その四年後柏原帝が崩御され安殿親王が即位された。新天皇の即位は当然の事として受け取られたのだったが、世間が
時を同じくして岑守はいきなり従七位上から従五位下へと昇任し、殿上人の仲間入りを果たしたのであった。
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