第19話 真島伊織は乗り込む

 向かいの窓は閉じられていて、奥にはピンクのカーテンが掛かっている。

 まじまじとこの窓を眺めるのは本当に久しぶりかもしれない。もうここから氷菓に声を掛けることなんて一生ないと思っていたんだけどな。


 俺は大きく深呼吸する。


「ふぅ……うっし……」


 窓から身を乗り出し、反対側の窓――氷菓の部屋の窓へ腕を伸ばす。子供の頃でさえ近く感じた窓は、今ではほんの少し腕を伸ばすだけで触れられる距離にある。この先に氷菓がいるはずだ。


『コンコン』


 俺は窓を二回ノックする。


「…………」


 しかし、反応はない。

 そりゃそうだわな。これで反応があればそもそも俺と陽がチャイムを鳴らした時に居留守を使う訳がない。意地でもガン無視を決めるつもりって訳か。


「居るのはわかってんだぞ、氷菓。さっさと開けろ」


 窓に向かって声を掛ける。しかし、反応はない。


「話したいことがある。開けてくれ」


 ――やはり反応はない。

 だが、心なしかカーテンの奥で人影が動いている気がする。居るのは確実だ。後はどうやってこの窓を開けさせるかだな。氷菓の恥ずかしい過去でもここで語ってやろうか?


 いや、でもそれは火に油を注ぐ行為か……。どうしたものか。


 前なら氷菓が怒ろうが悲しもうが、正直どうだってよかった。

 そりゃあれだけ無視されたり罵倒され続けりゃあうざくもなってくる。思ったことがつい……陽と再会して以降、陽の陽キャ具合で氷菓の態度も変わってきて、俺に対しても前ほどの辛辣な感じは無くなってきていた気がした。


 本来ならそれでよかったんだ。これから徐々にそういうのが無くなっていって、氷菓の氷な態度が溶けていくのをゆっくり待っているで良かったのに、俺はそれに付け入って言う必要のないことを言ってしまった。


 ――いや、実際どうだかはわからない。


 俺としては事実を言っていただけだし、今までのことを考えれば氷菓自身もそう言われて当然だと思っていても不思議ではない。だってそうだろ? もし俺が誰かを嫌いでずっと暴言を吐いていたとして、ある日俺が緩くなった時に暴言ばっかで嫌いだったよ、と言われて逆に落ち込むだろうか? やっぱり? そう思ってたよな。何て具合に納得するはずだ。



 ということは、俺と氷菓の間には何か決定的なずれがあるということだ。



 実のところ、今の俺に謝りたいという気持ちは正直あまりない。それよりも、今はこの違和感の正体の方が知りたいのだ。


 なんやかんや、俺も多少は陽に影響されているということだ。

 あの行動力の塊を見ていると、まあたまには俺も行動してもいいかな、という気持ちになるものだ。これはあれだ、同調圧力というやつだ。決して俺がやる気をだしたとかそう言うやつじゃない。俺のスタンスは陽の存在なんかで変わるものではないのだ。省エネ、無気力。これが俺の生き方。今だけ、今だけだ。


 だから、この膠着状態ももううんざりだ。こんなことはさっさと終わらせて、俺はまた普段の生活に戻りたいのだ。


「おい、氷菓! さっさと開けろ!」

「…………」

「居るのはわかってんだからな! 話を聞かせろ!」

「…………」

「――わかった、そっちがその気なら、こっちも強硬手段にでるからな!」


 俺はがっと窓枠に足を掛けると、氷菓の部屋の窓に触れ力を入れる。


 思い出すのは、幼い頃の記憶。


◇ ◆ ◇


『もし何かあったら、お互いにこの窓から励まし合おうね!』

『危なくない?』

『もっと男らしくしてよ! 殆ど距離ないじゃん』

 

 氷菓は自分の部屋から俺の部屋の方に手を伸ばす。

 小学三年生というまだ成長期を迎えていない身体の小さな時期でも、その手は俺の肩に簡単に触れる。


『伊織が落ち込んでたらこの窓からそっちに行ってあげる。逆に私が落ち込んでたらこっちに来てね?』

『いや、玄関から行ったほうが安全じゃない?』

『玄関から入れない時もあるでしょ』

『そんな奇妙な状況あるかな……』

『あるでしょうが! そう言うときに窓越しに会いに行くってなんか良くない?』


 そう言って氷菓は笑う。本気で言ってるのか、冗談なのか。


『いや、ご時世的にそういう危険行為って周りの賛同を得られるものじゃない――』

『夢がないわね伊織は!! あ~うるさいうるさいうるさい!! いいから来てよ~そういうのいいじゃん~! 憧れるじゃん~~!』

『駄々っ子かよ! わかったわかった。もしお互い何かあったら窓から会いに行こう』

『うん! 約束だから』


◇ ◆ ◇


 結局はこの窓越しで会話することもなくなり、お互い目があえばカーテンを閉めるような関係にまでなってしまった。


 だが、あの時の約束を守るとしたら今しかねえ。励ますとかそういうのとは違うが、いけない。そう身体を突き動かす何かがあった。


「どうせ開いてるんだろ!? 今そっちに行ってやる!」

「え!? ちょ、ちょっとまっ――」


 窓の奥から、くぐもった声が聞こえる。

 やっぱり居やがったな。


 外からでも見てわかる。この窓、鍵が掛かっていない。

 俺は窓に手を掛けると、ガッと横に引き抜く。

 

 ガラガラっと窓が開き、外からの風が吹き込む。

 ピンクのカーテンがたなびく。


 周りの目とか危ないとか関係ねえ! 今行くったら行く! もう行く気分になってるんだ、今更止まれるか!


「いや、ちょっと、本当に――」

「おじゃましまあああす!」


 俺は一気に足に力を入れて氷菓の家へと飛び移る。


 距離にしてほんの一歩の距離。今までただ見ていただけなのが馬鹿らしくなるほどの距離だ。


 ピンクのカーテンを捲り、中へと突入する。

 運動神経が皆無の俺とは思えないほどスマートな形で窓枠に乗り、綺麗に氷菓の部屋の中へと着地する。


 俺の部屋とは違う、独特な女の子の部屋の匂いが鼻腔を突く。

 色とりどりの家具が俺の目に飛び込む。


 それは、実に三年以上の期間を開けた、久しぶりの訪問だった。

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