第36話 東国の女たち



 黄瀬川きせがわの深淵は、富士山から溶け出した溶岩で不気味に光っている。

 ここはかつて源頼朝が、弟源義経と対面を果たした因縁の川であった。

 そして今は徳川、南部、津軽に佐竹、毛利と名だたる大名たちが関白秀吉の旗の下へ集い、この川に兵を集結させている。


兵らの熱い呼吸、たまに漏れるふるえるような重い息が黒い川底に沈んでいく。


 川の流れは今日も、歴史を眺めては通り過ぎていった。


 ▽


 「新しい墨です。」


 「お春、ありがとうございます。」


 戦場枯れの険しい声が響く陣屋の群れの中で、やさしい女の声が小さく聞こえた。

 それはわずかに開けられた木戸の隙間から溢れ出ているもので、声の主は藤堂高虎の夫人朝子。彼女は侍女に墨をすらせてけぶる陽光の中必死に書を認めていた。


 宛先は大和郡山のお秀長の妻の方。

しかし中身は床に臥せる秀長に頼まれた、北条征伐の経過を伝えるものだった。

 お藤からの返事には秀長は床にいながらまるで東国の地に立っているように喜んでいると、元尼僧らしい凛然とした字で綴られていた。


 (大学時代、レポートをたくさん書いたことや会社員時代に形式ばったビジネスメールを叩き込まれたのは、無駄じゃ無かった…)


 事実から分かることを学術的に報告できる教育を受けた女性は数少ない時代だったし、男性でもそのような職能のある人材は重宝されていた。

 

 久しぶりに『妻』ではない自分のおぼろげな輪郭に触れられて、朝子は目を開かされる気持ちがした。



 「あ…殿がお帰りですね。」


 お春が首を伸ばしてそうつぶやく、嗎がして、周囲の陣屋で休む藤堂の家臣たちが当主の帰還に沸くのが伝わってくる。

敵わない…と、朝子は夫の帰りへの喜びとともに嫉妬を覚えた。

 (馬鹿みたいだわ。)

とっくに捨てたはずだった、彼に愛されるだけでは消化できない、過ぎたる欲が…私にはまだあるのだ。


 『貴方に尊敬されて生きていきたい』

 そう、彼の目の前に立って言ってみたら、彼はどんな顔をするだろう?



 襟元に細かな柄が刺繍された黒色の小袖の上に張りのある無地の藍鉄地色の陣羽織を纏い、一応袴に脛当てを巻いた軽装で出向いた高虎は、長い体を折りたたむように妻のそばにあぐらをかいた。


 「まるで京阪と変わらない様子だ、茶会など戦さ場で呼ばれるとは思ってもいなかった。」


 「…殿下は殊の外茶の湯を好まれるとお聞きしましたが、このような戦場でもその御趣向は変わらないのですね」


 驚く朝子に高虎は広い肩をすくめ、続けた。


 「ああ。茶の湯など、作法など知らん俺だから、人の見様見真似に忙しくて、味などよくわからなかった。」


 「まぁ…。」


 この時代一般的だった茶の嗜好は、『闘茶』という茶の銘柄当てであり、『茶礼』という唐からもたらされた作法、儀礼はあったものの今日の『茶道』のような催しは歌道から『侘び』を持ち込んだ村田珠光むらたじゅこうが見出し、千利休せんのりきゅうが完成させていく黎明期だった。


 この茶道はやがて大名たちの情報共有のサロンとして機能し始め、江戸時代には『武家茶道』と呼ばれ各大名家に師範が置かれるほどに発展していくことになる。


 「あのようなものに頻繁に呼ばれるとなれば、茶器や茶道具などもこれから必要になるな…武士は武具だけ揃えておけばいいと思っていたが…。」


 「案外、高虎様は凝ってしまうかもしれませんね。」


 「…そうか?中には身上しんしょう…財産をつぶす者もあるからな…奥が深いのだろうな。」


 そう興味なさそうにしていた高虎であったが、茶の湯における大名同士の交流に目をつけたのか、後に娘婿で茶人・作庭家の小堀遠州とともによく茶事を催おすことになる。


 

 「深いと言えば…東国の戦場は誠に見慣れぬものばかりだ。」


 となりに座る妻の姿を見つめてから、高虎は埃っぽい東風が吹く戦場の記憶を開けた。


 「そうなのですか?」


 「一つは武士の戦い方だ。東国の武者は騎馬のまま戦うのだ。畿内はわざわざ降りて刃を交える者が多いから、これは学ぶべきだな。

それに…女兵が誠に強い。」


 「女が…」


 「七十になる後家様が、戦場に出て野戦を指揮したそうだ。」


 朝子は目を丸くして聞いている。

 その後家の名は「赤井輝子」、館林城主の赤井重秀の娘で、彼女は由良成繁に嫁ぐと五人の子供をもうけ、夫が死去すると落飾した。

 …が、ただ優しい「おばあちゃん」として奥に引っ込む女では無かった。


 家督を相続した息子が北条氏直に人質にされ、命と引き換えに由良家の4つの城を引き渡せと迫られた事があった。


 輝子はこれを厳として拒否。

攻め入ってきた北条家に、300の兵で野戦ゲリラ戦を仕掛け、北条家を退けてしまったという。


 輝子の手腕はこれだけに止まらず、この北条征伐では到底北条家に勝算は無いと見切りをつけ、孫を引き連れて前田利家の軍勢に参加し戦功を挙げているという。


 その働きぶりはあの前田利家も「天晴れな後家」と激賞したほどだった。


 「このお噂を聞きつけた関白殿下は赤井の後家様を称えて、由良家の家名を安堵され、どこかに所領を与えられるとのことだ。」

 

 「…天晴れな方ですね。

私も事が起こればそうして御家を守るために、武芸を習ってみたいです。」


 朝子はそう拳を固く握った。


が、高虎は握られた白い小さな丸い石ころのような拳を思わず笑ってしまった。


 「朝子殿は身丈はあるが、そのように細くては無理だろう。」


 「…何事も初めて見なければわかりません。」


 笑う高虎にムキになる朝子の睨み顔も、夫の笑みを増させるばかりだった。

それが悔しく、白い頬を赤くして珍しく興奮した様子の朝子が続ける


 「板額御前巴御前も、最初はただの女子だったはず。

私だって何かあれば藤堂家と高虎様を守って見せます」


 長いまつ毛に囲まれた、はっきりした切長の瞳はいつになく真剣だった。

 そんな妻の白い手首を二本まとめて高虎は片方の手のひらで掴んでしまった。


 「…な、」


 「お前の手になんの傷もない事が俺は何より幸せだ。

これからも、そうであってほしい」


 幅の広い二重瞼が包む高虎の深めの眼窩に収まる目の色も、また真剣だったし、

そこに映る女はどこまでも美しく弱々しかった。


 「…生意気を申しました、」


 私の二本の腕など簡単に制してしまえる手には、沢山の傷がある。

いつかは二本だった爪のない指が、また増えている。

…朝子は泣きたくなった。それは、悲しいからでは無かった。

 (くやしい…)

現に、私はこの大きな手を振り解く事も出来ないのに、

彼を守ることなど到底叶わない。


 「…そういえば殿下が、淀の方が朝子殿の顔を見たいと願っていると話されていた。」


 伏せられた朝子の白い顔に、どんな色が浮かぶのか、高虎は知りたくないような気がした。


 「はい、明日にでも参ります。」


 朝子はいつもの優しい笑みを高虎に向けた。

 


 ▽


 翌るあくるひ、淀の方がいる陣中の屋敷へ向かう朝子の輿に一本の弓が射掛けられた。


 「…!」


 まるで尾翼を失った飛行機のように輿が揺れる。

 護衛はお春一人だ、輿持ちはあっという間に弓矢で倒されてしまったらしい。


 「奥方様、出てはいけません…!」


 数人の男の声がする、どうやら野盗のようだった。山中と言え、すぐそこに豊臣の将兵がたむろしているのに…目先の欲に釣られたらしい。


 懐刀を握りしめ、お春に加勢しよう戸に手をかけると、お春の混乱した声がした。

男たちの苦しそうな声もする。


 「…奥方様、いけません…!」


 「お春…!」


 たまらず外に出てみると、森林の中に籠手をつけた女が弓を構えて立っていた。

野盗の頭領かとぞっとしたが、苦しそうに地面でもがく二人の男の首には女が放ったらしい弓が貫通していた。


 「無事か」


 当惑する朝子に、低く凛とした声が降りかかる。


 きらめく矢尻の向こうで、女の砕いた玻璃を収めたような瞳が朝子を見つめていた——




《※》


板額御前…吾妻鏡に登場。 板のように広い額をもっていたらしく、それが呼び名の由来。身長188cmあったとする説もあり、剛腕の持ち主で武芸に優れた女性。


巴御前…平家物語に登場する女武者。木曾義仲の妾で、源平合戦に参戦。美しい容貌に似合わず強弓の名手で、最後の5騎になっても敗れなかった。



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