第33話 絹糸
磨き抜かれた廊下に、いくつもの
色とりどりの絹糸は自らの美しさを衣装に織りなし、狩野永徳らが描いた精緻華麗な襖絵や天井画と競演していた。
大阪城奥御殿には秀吉の妻妾の他に豊臣家に臣従する大名の夫人たちも集められていた。
その中でも、一際目立つ女がいた。
「まぁ…
あれがお腹様の…淀の方…?」
大豊臣の後継者を産み参らせ、
賜った城に因み『淀』と呼ばれるようになった茶々である。
「堂々として気品のあるお方やわあ」
「ほんに…」
「あのお衣装をごらんあそばせ。
唐渡りの紅も」
朱色と黒が主体となった
今日の茶々は大阪城の威容にも負けぬ美しさであった。
「あんなもの、とてもとても、倹約家の夫は仕立ててくれません」
そう、関西訛りのない夫人が地紋も刺繍もない絞りの掻取をすくめながら隣に座した青色の掻取の夫人にこっそり耳打ちした。
初めて会ったはずの女性に気安く話しかけられて、困惑しながら青色の夫人…朝子は
「ええ…目の保養でございますね」
と愛想笑いを返した。朝子にも関西訛りが無い……そのことに親近感を覚えた夫人は
「私、徳川三河守にお仕えしている
と、自己紹介した。
「阿茶局様…はじめまして、藤堂佐渡守の妻です。」
阿茶局様は最近では古臭いと言われる単調な絞り染めを纏っているが、
…彼女の麗俐な吊り目から放たれる知性に満ちた輝きは
「佐渡守様の…!
殿が、大阪の屋敷を造営してくださった佐渡守様を褒めておりましたえ。」
「恐れ多いことです…。」
朝子には久しぶりに聴く関東人のきびきびした話しぶりが心地よい。
「…それにしても、大阪に来て驚くことばかりです。
肌の赤や黒の人を見たり、見たこともない
この巨城…
手を合わせてうっとりする阿茶局。…そのうち、東京という大都市の前身を作り上げるのは貴方の夫ですけど…と、朝子はつい内心でつぶやく。
「
とうてい京阪の奇天烈さには敵いますまいな。
ややこ踊りなる少女たちの踊りもそれは見事で……」
ふと、小柄な阿茶局が自分よりずいぶん高いところにある朝子の顔をみて
「藤堂のお方様のような姿の人もはじめて見ましたえ」
とろみのある流水紋が光の加減で浮き出る青い掻取と白地に花筏が染め抜かれた小袖は、朝子の細長い体つきを布地越しに際立たせていた。
「…?」
「背が高いお方は、まぁ女にも男にもおりますけど…
…肩が広く首が長く、顔がお小さくて…
なんだか少し遠くにいるみたいな不思議な造りなのですもの。」
阿茶局がそう感じるのも無理無かった。
日本人の骨格は世紀ごとに大きく変貌し、戦国時代は江戸時代ほど短頭低身長の分布が多くないものの、
男女ともに顔が大きく骨太でずんぐりとした骨組が特徴であった。
「八頭身」は高く結った日本髪に身幅の狭い裾を長く引いた着物が流行してから日本人が意識し始めた美的価値観であり、
古墳時代以降、先進文物を持ち込み日本の王朝文化に強く影響を及ぼした『北東アジア人』の形質である、
「でも、すらりとして見栄えが致しますわ。…あ、じろりと不躾に申し訳ありません。」
阿茶局は、口に手を当てて
「…私はこう話しすぎるのです……悪い癖と殿にも言われます…」
と、目を伏せた。
「…いいえ、お話を聞いているのは楽しいです。」
朝子は頷きながら、周りの夫人たちを見回す。小さな体に
同じ日本人なのに、……違うのだ。
(……その中身も…)
▽
女だけの宴が始まった。
北政所ねねの好意の馳走に家を離れ羽を伸ばす奥方たち……華やいだ雰囲気の中、一人の女性が朝子に声を掛けた。
「…
彼女は宮部
彼女の卵型のふっくらとした輪郭に嵌る眼窩は少し窪み、一重瞼に包まれた瞳は水を張ったように濡れていた。翡翠色の小袖は裾に向かって藤色のぼかし染が施され、肩から落ちる孔雀模様の繍が彼女の周囲をほぐすようなたおやかさそのもののように優美だ。
「そんな…宮部様には夫こそ、若き頃に助けられたそうでございます。」
宮部継潤と藤堂高虎は浅井家の頃より先輩と後輩の仲だった。
そして長氏と朝子は、そばにいると不思議な安らぎを感じる…お互いに盃を交わしているからだろうか?
「…うちは家中で好かれてへんくて…
殿はお優しいしてくれるけど、こうして遠国に遣わされることもあるしなぁ、えらい窮屈え。」
酒が進み夜も更け、長氏の美しい口からつい愚痴が溢れた。
「まぁ…お方様はこれほどお美しく親しみやすい方なのに…」
どこか人形めいた冷たそうな朝子が真摯にそう言うので、長氏は少し照れながら
「ううん、うちは生まれがよくないから、しゃあないねん。」
「…?」
長氏は、まるで絵本を読むかのように半生を語ってくれた。
但馬国林甫城主
父の没後は流れ流れに
(夕子様と同じ…)
家の没落、彼女と同じ但馬の生まれ…
そして根無草のような長氏の生き方…
朝子は形容し難い『なつかしさ』に胸が締め付けられた。
「うちの実名は…
心配して熊ってつけたそうえ」
朝子さんに負けるけど、大きなったのや。と手をかざして背くらべをしてみせる長氏…お熊のかわいらしさに朝子は目を細めた。
阿茶局とお熊、この二人の女性との縁は朝子の人生に強く関わってくる事になる。
▽
紀州粉河城—
城の南に聳える前山の背中から這い出てきた太陽が寝所の二つ影を障子に映し出した。
「…お
藤堂佐渡守高虎は妻から遣わされた侍女に優しく声をかけ、手招きした。
お春という22歳の花盛りの娘は深々と頭を下げると百合の花が風に揺れるようにしなやかに高虎に近づいていく。紅を塗ったふっくらした唇で高虎の太い首筋に近寄り、耳に吐息まじりの声を落とした。
「真田との間の領土紛争で北条は武力を行使しました。
…これは、関白殿下が見逃しませんでしょう。」
正室の侍女として潜在的な妾候補としてではなく……お春は、『彼』本来の働きを求められた。
高虎は満足そうに頷いている。
いつから高虎がお春が忍びの者だと勘づいたのかは分からない。
「さすがはしのびだ、ご苦労。」と労ったあと
「…いよいよだな。」
とつぶやいた。
お春は、残夜の頼りない光芒に照らされた
主の夫の深い眼窩に浮ぶ修羅の如き色を見つけた。
「…戦が楽しみですかい?」
お春の口調に高虎への尊敬は一つもないのだが、ひさびさに向けられる軽い物言いが高虎には心地いいらしい。
咎めもせずに
「俺は毎朝起きたら死ぬ日と覚悟している。
楽しいも恐ろしいも無い。」
と言った。
「…名残はないんですかい?
北の方様をお一人になんて、俺ならまっぴらですね。」
“俺“とお春は言った。…九助の顔をして彼は肩をすくめて見せる。
…どうせこの男は何もかも気づいているだろう。
そして、改めて問いただすような矮小な男でもない。
「死と生はただ一つ。
俺の体が消えても、全てが無になるわけではない。」
まるで禅問答だ。いかにも荒武者然とした厚い高虎の胸の内を理解し、九助は少し眉を顰めた。
高虎はそれを見て、うっすらと自分が戦場で暮らす間の妻の様子を考える。
…が、若い頃のように心が波立たない自分に気付く。
別にあの女を抱き、妻として所有する勝ち名乗りなどではない。
ただ、どんな憧憬に朝子が映されても、彼らの中の朝子はいつも美しく装束を正し天女のように立っているだけなのだろう…という不毛さが愉快にも感じられた。
己の中にも正絹の襲を着込み清冽な眼差しで立つ妻がいるが……
『夢』と、『面影』は違う。
武者はみんな胸にそんな祈りを抱いて走っている。そうでもしないと立ちすくんでしまう。
祈りは細い一本の糸に似ている、柔らかく優しいが、縋り続けると切れる。
…自分を含めてなんと不毛で徒労な生き物だろう。高虎は腹の底から笑いがこみ上げてきた。
⬛︎いつも、応援、コメント、閲覧ありがとうございます!
七月で連載一年ですが、こんな零細ジャンルなので一年で★50行ったらとても有難いな…と夢見て頑張ってきたらまさかの★100が目前…!
まさに夢のようです。
これからも皆様に読んで頂けるように頑張ります。
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