第21話 帝国主義の黎明期

 


「兄上は天下様と言うべきお立場なのに、

 何故なにゆえに旭と大政所様を臣下である徳川公に下されるのか。

 ……私の親と妹でもあるのに……」


 主君豊臣秀長がふと溢した言葉を聞いて、藤堂高虎は内心驚いた。


 この男は、一度も兄の秀吉に背いたことがなかったからである。


『兄者は、昔からよく私や家族を庇って下さった。我々は貧しくても、助け合って生きてきたのじゃ』


 秀吉、秀長兄弟は、実の父さえ曖昧だと言う。

 もちろん、武家でも公家でもない。


 それでも、秀吉を見出した織田信長も、彼らに心服した武士たちも、敵わない才能を持っていた。


 先祖代々猫の額ほどながら領地を頂き、始祖は朝廷とも縁深かったと言う藤堂家の跡取りの高虎も、腕一本で戦えば簡単に勝てそうな…どこか商人のような風情の秀長に逆らわず、

彼の腕となり足となり戦国を駆け抜けてきた。

それこそが、彼ら兄弟の才能だった。


 父母は「お前は武士だ。誇りを持て」と言い聞かせてきたものだが、

 高虎は「血や氏ではなく、人は育ちだ」と知っていた。


 初陣から手柄はあげたがほとんどが負け戦だった、

小谷城籠城の際は、織田方に支配された故郷藤堂村に帰れずに空腹を持て余しみじめな思いもした、

 なにより先先代の「しくじり」でお世辞にも豊かとは言えない家に生まれ、


順風満帆とは程遠い人生の中、世の激流に晒され、さまざまな人の盛衰を見つめ学んだことだった。



 とても教育に金をかけれたり、頼る閨閥の無い家だったろうに

秀吉様、秀長様は兄弟揃って天下に類を見ない智将に育ち

 長じては先祖代々領地を頂く生粋の武士を蹴散らして、

今やまつりごとの頂点「関白」にまで上り詰めてしまったではないか。


 「小一郎様…」


 だからこそ、高虎は何と返事をしたものか悩んだ。


 昔の彼ならば

『そうですとも、秀吉公の軍勢があれば、徳川など恐るるに足らず。俺が一番槍であの首を取ってきても構いません』

と豪語したりしてみたのかもしれない。

 だが、血まみれになって走り回る与右衛門ではなく、

 城普請や勘定、交渉などもこなす、一万石の大名の与右衛門が彼の中で息をしている。


 「ああ、与右衛門、気にするな」


 秀長様の寂しそうな笑みが、大阪に集結した大軍の活気に消えていく。


 「見よ。関白殿下の号令で、これほどの兵どもが集まった。」


 「はい。」


 大阪に集められた兵は、三十七カ国の大名たちによるものだ。

とうとう、九州遠征の勅命が下った。

生粋の大名である島津氏は、『雨後の筍』関白の秀吉の天下平定などどこ吹く風で、九州全土の平定を推し進めたからだった。

 しかも、侵略した土地を元の領主に返すようにという秀吉の命令を島津義久は拒絶。

これは、ただの大名同士の衝突とは看做されない。

 関白の命令を拒絶することは「勅命違反」にあたる。

 関白が「朝廷に仇なす賊を討て」と各大名に命令すると、すぐにこの大軍が「賊軍討伐」のために集う。

山﨑合戦からたった4年半で、権力はすっかり棲家を変えてしまっていた。



 高虎は、久方ぶりの戦に体が熱くなるのを感じて、主君秀長を改めて見つめた。


 位人臣を極めた兄に続き、自身も従三位中納言と言う位階を頂いても、いつでも兄を立て、よく補佐をしている主君。


 それはずっと変わらず、


 羽柴様は、豊臣家は、不滅な筈だ。


 (貴方に付いてきた俺の選択肢は、間違っていなかった)


 ▽



 豊臣秀長の軍勢は、肥後の高城を攻めるため、目白坂と呼ばれる緩やかな丘に布陣し

城を軍勢という布で包むような態勢を取った。


 しかし、島津義久率いる軍勢ははさすが剛腕で知られた九州の武者たちである。


 正面突破を計り、真正面から秀長の軍勢に攻め入ってきた。


 秀長軍の前衛を守っていた宮部継潤の隊は、予想もしない総攻撃に総崩れの様相を呈していた。



 宮部隊から少し離れた丘の上に布陣していた高虎は、それを見て身体中が燃え上がるのを感じた。


 男たちの咆哮が、戦場の記憶をつつき、彼の中で足軽の与吉が目を覚ます。


 近習が何かを叫んでいる。

その声を尻目に愛馬賀古黒にまたがり、数百の手勢を率いて


 「宮部殿は浅井家以来の俺の恩人だ!恩人を見捨てて何が男か、窮状を畏れて何が武士かっ!!」


 と叫び、それに鼓舞された家臣たちの先頭に立ち島津勢の真っ只中に突入してしまった。


 約190cmの長躯に緋色の陣羽織を纏った大男が、槍の穂先に討ち取った兵士の髪と血肉をからませ突撃してきた。


目だけが返り血で赤い顔の中で次の標的を捉えようと動き、水牛兜は鬼の角のごとく光る——


 その様には剛勇で知られる島津勢も態勢を崩され、

 高虎の威容に宮部隊も奮起し、なんとか陣形を立て直した。


 そこへ黒田官兵衛、尾藤甚右衛門が救援に駆けつけると、

 島津勢は多くの死体を残して撤退し、豊臣軍は勢いをつけ、本拠地鹿児島城にまで迫っていった。




 「与右衛門、こたびの和議、そなたの働きによるものが大きい。古今無双の武勇であった。」


 追い詰められた島津義久は、豊臣秀長に和議の使者を送ってきた。


 無駄な戦いを良しとしない秀長はすぐにこれを受諾し、戦の大勢を決めた部下をそれは褒めた。


 「お役に立てて光栄です。」


 将とは思えぬほど返り血まみれの高虎は深々と頭を下げて、

 (小一郎様、独断で問題ないのだろうか…)

 少し気にかかったが、和議の交渉へ向かう秀長を黙って見送った。




 秀吉も、最初から島津を徹底的に叩くつもりはないので、この秀長の独断には形だけで戒めたにとどまり

 「秀長は誠に仁の者である。仁者にはよく人が付いてくる。」

 と肩を叩いて褒め称えた。


 この戦いの一番の功労者は、勇猛果敢な藤堂高虎であると宮部継潤は涙ながらに豊臣秀吉に報告し、高虎を直々に呼び寄せると


 「そなたは昔から勇猛で、得難い将だ」


 と賞詞を与えた。


 加えて、


 「しばらく長崎に常駐してキリシタン宗、宣教師を退散させよ」


 との特命を授けてきた。


 正直言って高虎は、キリシタン宗や、“外“のことへの関心が薄かった。


 (キリシタンなど、放っておけばいいではないか。民は何かに縋りたいのだろう)


 と思いつつ、長崎の町を歩に回ってみると

九州における欧州文化の存在感には脅威を覚えた。

 大名までが、熱烈なキリシタンなので、海を越えてキリシタン宗の最高権力者に日本人の少年使節まで送ったという。

 それだけなら良いが、貧しい信徒たちを騙し奴隷として売り捌く日本人と、それを斡旋し外地へ送る宣教師たちを多く目の当たりにした。


 (……あいつらは何を考えてこの日の本に来るのだろう?)


 海を越えた先で、全く肌の色も目の色も違う人間たちが、

自分たち武者と同じように闘争と領地に飢えているとしたら、それは恐ろしいことだと高虎は思った。


 当然、この時代の日本人には「帝国主義」などという思想は芽生えていない。


 俗に、19世紀を帝国主義の時代というが、16世紀は帝国主義の黎明期と言っていい。

 バスコ・ダ・ガマやマゼランによって航路を切り開いたスペインとポルトガルは15世紀末から16世紀前半にかけて「世界を両国で二分する」条約を結び、その傲慢な合意のために版図を広げている。


 日本はちょうど、その境界線に浮かんでいた。


 16世紀半ばになると、両国の宣教師が入れ替わり立ち代わり来日し、「布教」と聞こえのいい大義名分で、日本の情報を逐一本国に報告していた。


 東洋では、フィリピンはすでにスペインが獲得しており、マカオにはポルトガルが足場を築いていた。


 天正十五年が幕を開けた。

遠い欧州では一国の女王が処刑され、東洋支配の航路へ多くのヨーロッパ諸国が乗り出した。


 日本のみならず、未だ世界は混沌と戦乱の腕に包まれていた。


《※》


「帝国主義」の観点で見ると、豊臣秀吉の唐入りは、西洋列強への対抗という一つの要素も見えてくる気がします。

 なんだか固い話ですみません!


騎馬武者…物語の都合上、騎馬のまま戦う描写にしましたが、伊達政宗の文書によると、上方の武将は下馬してから戦ったようです。反して東北は馬の産地で強い馬が多かったからか騎馬のまま戦ったそう。

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