第7話 手のひらの落日



 「…姫路殿の迎えを立てねばならぬな。」


 「…?」


 北の方様は、書状にぽつりとため息を落とし頭を抱えた。


 「ああ、すまぬな、新妻に聞かせるお話ではないのじゃが…」


 『姫路殿』は秀吉様の『夫人』の一人と言う。

中国征伐の始まった天正五年ごろに迎えられた、織田信長公の弟信包様の姫で、北の方様とも筑前守様とも仲睦まじく過ごされていたが、生母の長野御前が秀吉様の生まれが卑しい事を嫌い呼び戻してしまったそうだ。


 (……。)


 朝子こそ一人だったら頭を抱えていた。いわゆる「側室」を取るということも彼女の価値観ではわからないし、それを妻が呼び戻す…?


 「あのお方が姫路のお城に座す《おわす》事が、織田家の中国地方での権勢にも大事じゃ。なんとしてもお呼び戻しせねば」


 と、戦略的な配慮も見せるねね。


 

 「見苦しいところを見せてしまったのう」


 「いえ…。北の方様は実にご立派にございますね」


 婚姻を結んだばかりの新妻が噛み締めるように言うので、ねねは何かを感じた。


 「……そういえば、名はなんと仰ったか。それに、私は堅苦しく呼ばれるのは好かぬ。

おねと呼んでくだされ」


 「朝子と申します…おね様。」


 「では、朝子さん、どうじゃ、安土に止まる間私の話し相手になってくださらぬか。」


 「はい、私でよろしければ」

 


 陪臣の妻として、ご厄介になって一月ほど、秋に開城した鳥取城の戦後処理が済み、羽柴秀吉と家来衆が安土に帰還するという報せが届いた。


 「藤堂与右衛門様も、正月に合わせてこちらに参られるようです」


 「ありがとうございます、お通さま」


 羽柴秀長様からの書状を代わりに取り次いでくださった、ねね様の侍女のおつうさま。見たところまだ十二、三の少女だが、きびきびとした動作が印象的だ。どうせならと夫へ返事を書いていると、じっと私の筆づかいを見てくる。


 「…あの…」


 「藤堂のお方様は、匂わぬ手跡でございますね」


 「…におわぬ…」


 「でも、女ながらに漢字をお書きになるのは見事でございます。文字は真名も合わせて完成するもの…」


 と、お通さまは筆をとり空いた料紙にすらすらと文字を記していく。


 「まぁ…お通さま!すごい!素晴らしい字です…!」


 「お方様の字も、今少し“動き“を取り入れたらぐっとようなります。」


 お通の書く字は匂い立つような美しさだった。おね様が、祐筆として代役を頼むこともあるというのが頷ける。


 比べると、たしかに私の字は、必死にこちらの書体を覚えようと、夕子様がくださったお手本通りのなぞったような…ぎこちなく強弱のない字だった。


 「こうですか?」


 「もっと、仮名は水のように、真名は刀のように…」


 お通と朝子が熱心に書をしていると、ねねが入室してきた。


 「あら、お通、朝子さんと手習いかえ」


 「へえ、ご無礼ながら…」


 お通さまは知性に満ちた眦の上がった目を細めた。

彼女は、この世に来て初めて見るくらい軽やかな人だ。



「全く、家来衆とはいえ、武家の奥方様にものを教えるなど」


 お通様が手紙を持って下がると、おね様がやれやれと頭を振った。


「そのような…誠にお通さまは才智に溢れた侍女殿ですね」


 「…そうなのじゃ。お通はな、実は出自さえも曖昧なのじゃが…幼き頃より才に溢れた童女で…そばで召抱えておる。」


「…おね様は実に多くの子供らを守り育てていらっしゃいますね。慈しみ深いお方です。」


 安土に来てから、ねねのそばで子供たちをよく見かける。

筑前守様の御親類や、おね様の親戚筋の子供らがおねと共に館に住み、おね様がその養育をしているのだと言う。


 「私はもう三十四。…これまで一度も孕んだことがないのや、それ故、実子は望めんやろうから。」



「……。」


「ときどき、あの子らが全員、我が腹を痛めた子ならと思うたりするが…

詮無き事やな」


 おね様の明るい太陽のようなお顔が少しだけ陰る。

—朝子は意を決して「悩み」を打ち明けた。


おねはまだ若く健康そうな朝子が…と信じられない顔をしていたが、彼女には自分の体ゆえの確信があるらしい。


 「…朝子さん、肝要なのは自分の手の中に置くことじゃ。

私のように上様から頂いたりすると、気を遣ってしまってややこしくなるゆえ」


 「はい…手元に…」


 「…朝子さんは与右衛門殿を好いておいでか?」


 「……。」


 「私と秀吉公はな、恋情から夫婦となったのじゃ」


 「そうなのですか…」


 少し意外だった、ねねの夫人としての在り方は、理想的すぎて恋心から始まった男女には見えなかった。


 「……あの頃は、私も秀吉公も若くてなぁ、ずっと足軽長屋で暮らしていくものと思うておった…」


 おね様の分厚く上等な金襴緞子きんらんどんす掻取うちかけに縫い取られた桐の花と蔦模様が差し込む夕陽に輝いている。


 「二人で上様のために懸命に働いてきたら、ぽんと長浜のお城が手に入り、今はこうして上様のご命で安土に呼ばれるまでになり…」


 「次は何が手に入るのか?」と逆光に包まれて瞳だけが光るおね様がこちらをみて首を傾げてくる。


「……。」


「見よ、つるべ落としじゃ。」


 おねの目の先には空がある、安土城は、羨望がいい。


 夕陽が暗闇の底のような近江の連峰に落ちていくのが見えた。


 (この世に迷い込み、もう一年が経とうというのに…私の髪の毛は伸びず、そして…生理も来ていない…)

 


 太陽は東からしか登らない。迷い込んだ私はこの世の摂理に加わることが叶わず、夫と確かな証を作ることができない。そして私は、家の奥で重い掻取を纏って、止まってしまった私の体を引きずって、ふたしかな高虎様の心にすがって生きる。知らない女との子を抱いて、泣くのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る