47. 熱握りしめ、


 明るい黄金こがね色の水面へ目を落としながら、梨生はつい先ほどの光景を思い出していた。

 自分の怒鳴り声に、蒼白な顔をさせていた千結。手を掴まれた際の彼女の凍てつくような指の冷たさと、次いで震えていた唇、絶望に染まった瞳を思うと、後悔の念が苦く疼いた。


 こんな風にここで彼女と向かい合うのはいつぶりだろうか。テーブルを挟んだ向こうで、千結はマグカップを両手でぎゅっと包んでいる。指先が温まるといい、と憐憫めいた気持ちが梨生の胸をよぎる。――その手をわたしが握ることはできないから。


 心を落ち着けるため、梨生もカップを包み込む。引っ越したばかりのときに買った間に合わせのものだ。自分の手によく馴染んでいたあのマグカップは砕けてしまった。同じ卓について千結と向かい合ってはいるが、今はその手にそれぞれ形の違うカップを持っている。お揃いだったものを惜しむ気持ちがどうしようもなく湧くけれど、所詮、二人の気持ちは揃っていなかったのだ。

 胸に吹き込む寂寞の風を、ハーブティーの味と温もりでなだめる。



 やがて、千結が静かに口を開いた。


「あんな嘘をついたのは、本当に浅はかだったと思ってる。――ごめんなさい」


 彼女は膝の上へ両手を揃え、深々と頭を下げた。


「嘘を……嘘をついたのは……梨生の気を引きたかったから」


 そのつぶやきに、梨生は虚脱感を味わう。

 “構ってほしい”だとか“気を引きたい”だとか、気まぐれに関心を引き寄せたいだけのそんな子どもじみた願望に付き合えるような、そういった段階に梨生はもういないのだ。梨生が千結へ向ける感情は、無邪気にじゃれ合う子ども同士のそれとは違う。もっと切実で、烈しく、みっともないものだ。


「わたしは……」


 呆然として口にしかけた言葉を梨生は呑み込んだ。もうずっと、呑み込み続けた言葉だ。でも、もう最後なんだから、と思った。ずっと蔑ろにして、見えない場所へ塗りこめてきた感情と、最後にちゃんと向き合いたかった。呪縛にも似た千結へのこの想いと決別するには、これをちゃんと弔ってやる必要があるのだ。


 視線をぴたりと彼女に合わせる。とうとう言葉にできる喜びと哀しみが、梨生の口許に淡い笑みを作った。


「わたしはもうずっと、ちーちゃんのことが好きで――好きだったから、そんな嘘をつかれるのは……むり」


 目を大きくし声を失った千結を見ながら、穏やかに伝える。


「――ちーちゃんはしっかり芯があって、気に食わないことがあったらちゃんと立ち向かっていけて。涼しい顔してなんでも最後までやり遂げて。ピアノも勉強もわたしは敵わなくて。そんなちーちゃんがわたしを見つめてくれると、誇らしかった」


 梨生の存在を全肯定してくれる、眩しそうな千結のまなざし。ときにはそれを重圧に感じることもあったが、高校の三年間きちんと陸上競技に向き合えたのは、千結の見つめていた『梨生』の姿に追いつきたかったからだ。


「そうかと思えば、たまに守ってあげたくなるところもあって」


 何にも煩わされない威風堂々とした態度。誰かと衝突することも厭わず意見を表明する強さ。それなのに、ふとしたときに心細げな表情がよぎることがあって、そうすると、出会った頃の小さな少女を思わせた。内気でおとなしい女の子。

 大人になっても、時折ふわりとはにかむその仕草は変わらなくて。


「ちーちゃんが優しく笑うと、空気がふわって柔らかくなるんだよ。天使が降りてきたみたいに」


 口を引き結び、張り詰めた面持ちの千結を前にして、本当はあんな風に笑わせてあげたいのに、と梨生は切なくなった。

 彼女の顔を見つめていると、やっぱり好きだと実感した。

 身を切るような辛さがあるのに、その目が自分を捉えているだけで胸がほのぼの温かくなる。その目が自分だけを見ているのが嬉しい。自分だけを見てほしい。

 ――この独占欲だけは言葉にすまい、と梨生は固く誓った。言葉にしてしまえば、くさびは打ち込まれ、二度と胸から抜けなくなってしまう。だが、それは否定しようもなくもうずっと存在していたのだった。彼女が共に歩むだろう他人との幸せなんて、どうあがいたって願えやしない。きっと、千結にはもう会わないほうがいい。さりとて、会えなくなるのは辛かった。

 どうしても目頭が熱くなり、梨生は立ち上がる。


「ごめん、ちょっと……」


 顔を合わせているのが居た堪れず、少し離れたソファに梨生は身を沈めて目元を覆った。結局最後まで格好悪いな、と胸の裡で自嘲混じりにつぶやく。


 そのとき、ひっそりとした声が部屋の空気を震わせた。


「私も、梨生が好きだよ」


 今以て自分の想いがちゃんと伝わっていないことに、梨生は絶望を覚えた。

 それとも、わかっていないふりをして事態をやり過ごすための態度だろうか。同じ種類の『好き』を携えて一緒に暮らせなくても、友達で居続けるために。

 梨生はほとほと疲れてしまった。だから、投げやりに言い放った。


「わたしの『好き』は、ちーちゃんの『好き』とは違うんだよ」


 じわりと目に浮かんだものをぐい、と腕で拭って、そのまま膝を抱える。椅子を引く音がした。ソファが少し沈みこむ。隣に千結が座ったらしい。それから、左の腕を思いがけない強さで掴まれる。びっくりして梨生が顔を上げると、ひどく真剣なまなざしで千結がこちらを覗きこんでいた。


「梨生の『好き』はどういうこと?」


 気圧されて、梨生は千結に向き合った。


「わたしの、は、友達として好きっていう、だけじゃ、なくて……」


 口籠って、つっかえて。俯いて、自分の胸の奥の気持ちに目を凝らした。


「もっと、ぐちゃぐちゃしてて、よく、わかってないけど、たぶん……ううん。わたしね、恋愛感情を……ちーちゃんに持っちゃってる……」

「――顔、見せて」


 頬へ添えられた手によって、顔を上げさせられる。そして、千結は小さく息を吸いこんでから、つぶやいた。


「私の『好き』はね、梨生を独占したいって思う」


 長いまつげに縁取られた瞳が、梨生だけを写している。


「梨生の声を聴きたいと思う」


 彼女の声しか聞こえない。


「梨生に触れたいって思う」


 そっと腕が伸びてきて、手を握られる。今はその冷たさよりも、ふんわりしたマシュマロみたいな柔らかさが意識された。


「梨生に見つめてほしいと思う」


 痛いほどまっすぐな視線に射抜かれる。


「梨生と……」


 言い澱み、下唇を噛んでから、彼女は囁いた。


「りおと……キスしたいって思う」


 ごくりと息を呑む。


「りおの『好き』と私の『好き』は、違う?」

「…………違わない、と思う」


 愕然とした梨生の答えを聞いて、千結の目が切なげに細められた。


「好きなの、りおが。ずっと……ずっと一緒にいたい」


 やっと言えた、という安堵が、湖の上を渡る風のように千結の胸へ広がった。


「……」


 一方の梨生は放心状態である。

 革命であり、コペルニクス的転回である。

 ひっくり返った世界のなかで、時は止まり、重力を失い、くるくると回転する自らの姿を俯瞰で眺めるようだった。

 ――ちーちゃんとわたしのすきは、ちがわない……? すきなのりおが……? すき、で……きす……で……? それっていったい……??


 宇宙へ飛び去った梨生の意識を取り戻すべく、千結は彼女の手を強く握る。


「“ちーちゃん”って呼ぶりおの声が好き」


 いつだって、名前を呼んでほしいと思っていた。その声だけが、その名前で呼ぶのが嬉しかった。


「おっきく口を開けた、りおの無邪気な笑い声が好き」


 すっかり心を許したような笑顔はあまりに無防備で、いつか誰かに痛めつけられやしないかと心配になるくらいだったけれど、世界に対して柔らかく開かれている彼女の在り方に、強く憧憬の念を抱いた。


「私を見つめるときの、りおの目が好き」


 深い慈愛に満ちたまなざしは、いつも胸を甘く締め付けた。自分だけを見てほしかった。でも、彼女が走っているときは別だった。


「ゴールだけを見てるりおの顔が好き」


 白線の上を駆け抜けるその瞬間のみを思い描いている峻厳な顔つきは、普段の頼りない様子からは別人のようだった。


「風みたいに駆けてく、りおの走る姿が好き」


 幾つもの美しい生き物を思わせる彼女の完璧なフォームは、今でも鮮やかに心へ思い起こすことができる。野生動物みたいに俊敏でしなやかなあの身体を思うまま抱きしめられたら、という苦しいほどの願いが、しょっちゅう胸を焦がした。


「触りたくてたまらなくて、でも、怖くて。……やっと手が届いて、握り返してもらえるようになったのに、自分でそれを壊しちゃった。――ごめんなさい、あんな嘘ついて」


 絞り出すような千結の声に、やっと梨生の喉からもかすれた疑問が出る。


「な、なんで……会社で気になる人がいる、なんて……?」

「あのとき、私は嫉妬して、それでりおに……りおにも嫉妬してほしいって思って、咄嗟にでたらめを言っちゃった。ごめんなさい」

「……」


 梨生の表情には、ぽかんとした困惑だけがあった。それから須臾しゅゆの間、彼女の面差しに痛みが走りかけたが、それを見せまいとして彼女はへにゃりと苦笑を浮かべた。それだけで、もう赦されてしまったのを千結は知った。どこまでも人が好い、と思った。


「ごめんね。すごく、りおを傷つけた」


 千結が泣きそうに顔を歪めたのと同時、梨生の首に腕が絡みついて、その顔は見えなくなった。


「ごめんなさい……」


 隠しようもなく震えている体と声を抱き留め、泣いてるちーちゃんを見るのはいつぶりだろう、と考えながら梨生はその頭を撫でた。「ううん」と応えた梨生に、千結の腕の力が強まる。彼女の体温と、かすかに甘い香りが胸へ染み込んでゆく。

 何もかも手放してしまおうとしたものが、再び――いや初めて腕の中にあることを、梨生は徐々に実感していった。




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