42. 陥穽


 頭がうっすらと重い。しっかり眠ったはずなのに、体がだるく、わずかに胸焼けの気配がする。

 今日だけ働けば週末がやってくるから、どうにか一日をやり過ごそう、と起き抜けに梨生は思う。普段と同じ時間のアラームに起こされたが、朝食を食べる気分ではないし、もう10分だけ余計にベッドのなかでぐずぐずしようと決める。

 ――もちろん目覚めてすぐ、体調のほかに意識の片隅へのぼっているものがあった。いささか酔ってはいたものの、きちんとゆうべの記憶はある。家に帰り着いてからの記憶は特に。


 熱っぽく潤んだ瞳。

 酒で火照った体へ、遠慮がちに触れられた指先の冷たさ。

 冗談めいた言葉と、ほのかな期待と欲望がゆらめいた声の調子。


 酔っ払っているときにいい加減な心持ちで踏み出したくなくて、思わず曖昧にさせたけれど。

 髪をかき回されてうっとりと表情をとろけさせる彼女を見ているうち、翻意しそうになった。

 肩に置いた手を引き寄せて抱きしめようか、本気で迷った。

 あれは危なかった。


「……」


 掛け布団を手繰り寄せ、ぎゅっと抱きしめる。朝にそぐわない気分が這いのぼってきそうだったので、梨生はもう起きてしまうことにした。



 居間へ入ると驚いたことに、


「梨生、おはよう」


今朝の千結は梨生よりも先に起きていた。席についてコーヒーを飲んでいる彼女の優しく細められた瞳と一瞬視線を合わせてから、梨生は目を伏せた。


「おはよ、ちーちゃん」


 胸がそわそわ、うずうずとくすぐったい。冷蔵庫へ向かう梨生へ声がかかる。


「梨生が酔ってるの珍しかったね。昨日、そんなに飲んだ?」

「あー……うん。いつもは最初の一杯に口だけつけて、あとはノンアルでごまかしてるんだけど……昨日は、ね」


 苦笑いと共に言い淀んだ梨生へ、


「昨日は?」


とその先を千結が促した。

 冷蔵庫から牛乳パックを取り出しながら、梨生は昨夜の酒席の記憶を引き出す。どう言おうものかつかの間考えたが、アルコールの余韻を引きずる鈍重な頭では穏便な説明が思いつかず、そのまま正直にのろのろと口を動かした。


「部合同の飲み会だったんだけど、うちの部長がたぶん……若い男性社員とわたしのこと、くっつけたがってたみたいで。わたしが少し飲まないとどうしても場が収まらなさそうだったから、いつもより飲むはめになっちゃった」

「――なにそれ」


 小さいながらも低い声の調子に梨生が思わず振り向くと、千結の眉間へかすかに力が篭もっているのが見てとれた。久しく見ていなかった彼女のその様子に、梨生は本能的な焦りを感じて片手を振った。


「あ、別にそんな大したあれじゃなくて。無理やり『飲め』とかそういうんじゃなかったし、うん」

「……そっか」


 千結の表情が一応は和らいだのを見届けてから、再び梨生は牛乳パックを取り上げた。

 やはり胸がむかむかする。冷たい牛乳を飲めば少しはすっきりするだろうか。


「楽しかった?」


 背中を向けたダイニングから届く千結の声には、ほんのわずかに怒気を抑えたような調子が漂っていた。その棘を緩和させる応答を探そうとして、しかし頭の鈍痛と胸焼けの感覚が煩わしく、うわの空で梨生はゆっくりと答えた。


「まあ……最終的には楽しかったかな。めんどくさかったけど。――あ、でもお酒、久しぶりにちゃんと飲んだから、気持ちよかったかも」


 いつも使っているマグカップに白い液体が満ちていく。


「今は二日酔いで気持ち悪いけど」と苦笑混じりに継ごうとした梨生よりも先に、千結の言葉がはっきりと部屋に響く。


「私も同じ部署に気になってる人がいるから、そういう部長みたいな、仲を取り持ってくれる人がいてうらやましい」


 頭が真っ白になった。


「――あ、そうなんだ」


 目を落としたミルクの色が、そのまま梨生の頭のなかを塗りこめてしまったみたいだった。


 マグカップの青い内側がミルクに映って、いやに冴えざえとした色になっていたのは覚えている。だが、それからどうやって千結との会話を終えたかは定かではなかった。

 そのあと出勤だっていつも通りにして、仕事もこなしたはずだが、梨生は何も覚えていなかった。ただ、ぽっかりとした空洞の感覚だけが、絶えずあった。その空洞は、頭のなかにも胸のなかにも居座って、梨生を何も考えさせられなくした。




 仕事を終え、普段と変わらぬ時間に自宅へ帰り着いて暗いリビングルームに入ったとき、梨生はやっと状況が飲み込めた。

 ――ちーちゃんは会社に、気になる人がいる。

 “気になる人”というのはつまり、『好きな人』、あるいは遅かれ早かれ『“好きな人”になるであろう人』だ。

 ふっと目眩のような感覚を覚えて梨生は足早に居間を去り、自分の部屋へ入ってベッドの上へ倒れこんだ。


 今朝、あの言葉に対し、ちゃんと何かしらの反応ができた自分を褒めてやりたい、と梨生は思った。

 次いで、わたしはなんて馬鹿なんだ、とそう強烈に思った。


 全部、とんでもない勘違いだったのだ。


 自分が抱く彼女への気持ちと、彼女が向ける自分への気持ちが同じものだと思い、驚き、動揺して、そして、日を追うごとに奇跡のような幸福が体を包んでいった。その喜びは抑えきれるものではなかったから、この気持ちはきっと自分の全身から溢れ出てしまっているだろうけれど、彼女へ伝わってしまってもいい、いっそ伝わってしまえ、とすら思っていた。

 そして、千結のまなざしの中にもその幸福の光を見たと思っていたのに。


 全部、独りよがりだった。


 彼女には、他に想う人がいたのだ。

 ――自分などではなく。



 悲しみと混乱で、身がよじれそうだった。

 何に対する疑問かも言語化できないまま、「なんで」という問いが心にこだましていた。感情の奔流のなかで、ひたすらに繰り返される「なんで」という叫びだけが、揺らぐことなく屹立していた。


 そして、梨生ははっとする。今朝、「気になる人がいる」と告げたときの、どこかしら意を決したような千結の声のトーン。

 あれは、だったのかもしれない。

 梨生の向ける気持ちに気付いた彼女が、「私には他に好きな人がいるのだから、そういった感情を向けるのはやめて」と、そういう意味で口にした言葉だったのではないだろうか。それどころか、本当には好きな人すら存在せず、ただただ、「そんな感情を私に向けるな」という警告を遠回しに行うための、小さな嘘だった可能性もある。

 もしかすると、親友だと思っていた女からあんな風に見られて千結は嫌だったのではないか。いや、それ以上に、一緒に住んでいるのだから、気持ち悪かったかもしれない、怖かったかもしれない。


 ……深い恥と、鋭い後悔が梨生を襲った。

 申し訳なくて、どうしようもなく悲しくて、うずくまりたくなった。実際、彼女はベッドの上で膝を抱えて小さくなり、浮かびそうになる涙を必死でこらえた。



 電気も点けないでずっとそうしていたが、真っ暗な部屋のなかで携帯電話を手に取って時間を確認したところ、夕飯どきもとうに過ぎていた。眩しい光を放つ液晶画面に梨生は眉をしかめ、そのまま目をつむった。食欲はないから自分の夕食は割愛してしまうにしても、あと数時間もすれば千結は帰ってくるだろう。いや、最近また忙しそうだから、帰宅はもっと遅いかもしれない。……彼女のために夕食を作る気力も湧いてこない。捨て鉢な気分と共に、胸のあたりにどす黒いもやの広がる感覚がした。枕に顔を埋める。このまま寝てしまおうか。


「……」


 そうやってしばらくうつぶせになっていたが、梨生はのっそりと起き上がった。

 今朝のやりとりの直後に、当てつけみたいにして千結のための食事を用意してやらないなんて、あまりにもみっともない気がした。それに、突然食事づくりを放棄される千結の身を思うと、気の毒に感じた。彼女だって仕事で毎日疲れているのは知っている。


 重たい体を引きずり、梨生はスーパーマーケットへ向かった。ここ数日は夜間でも冬の寒さが緩んできたように感じていたが、体は気温とは無関係にこわばっている。歩きながら、益体のない考えを巡らせる。

 ――あの言葉が、どうか牽制じゃありませんように。それならきっと、わたしの気持ちは彼女に気付かれていないということで、気持ち悪いなんて思われていないということ。

 少しでもみじめさを振り払いたい一心で、梨生はそう願う。そうであれば、“勘違い”していたこのとてつもない恥ずかしさは、無用のものだから。


 だが、牽制ではなく、単なる事実だとしたら。そのもうひとつの可能性にも、梨生の心臓はしくりと痛む。

 それはつまり、彼女には正真正銘、『気になる人』がいるということだ。


 スーパーマーケットの店内に入ると、のっぺりした照明が攻撃的なほどに明るい。早歩きで惣菜コーナーまで行けば、売れどきを逃した惣菜たちは値引きのシールを身につけている。ざっと見て、麻婆茄子のパックに目が留まる。千結は意外と辛い食べ物を得意とするし、苦手だった茄子も今ではわりと好んで食べる。嗜好の指向や変遷を把握するくらいには、彼女と近しく暮らしてきた。

 麻婆茄子をそっと買い物かごに入れ、梨生はぼんやりと顔を上げた。


 ――ちーちゃんの気になる人って、どんな人だろう。

 店内を歩く男性に目をやる。

 こんな人かな。あんな人かな。……どの人もきっと、綺麗なちーちゃんに好きだと言われたら、断りはしないだろう。彼女がきちんとアプローチすれば、それを遠ざけたいと思う男性は少ないはずだ。


 今さらになって、体じゅうを荒漠とした気持ちが吹きすさぶ。

 今までわたしたちは、ろくに恋の話なんてしてこなかった。

 真の友達ならば、彼女に気になる人ができたことを祝福すべきだ。

 だけれど、ちーちゃんは自分にとってただの友達ではないと、わたしはもう、気付いてしまったから。

 祝福なんて、出来はしない。




 家に帰り着いても、千結はまだいなかった。暗い室内にほっとし、なんとなく足音を忍ばせてダイニングルームへ移動する。購入したいくつかの惣菜のパックをテーブルの上へ出し、梨生は立ち尽くした。これらを皿にきちんと移せば見栄えもよくなる。千結の食欲を誘うことにもなろう。

 だが、そのひと手間をかける気には、どうしてもなれなかった。

 自然と湧き上がる面倒だという気持ちと反発心のほかに、ある欲求を感じているからだ。それは、“今朝の千結の言葉によって、自分は傷付いている”ということを彼女に示したい、という仄暗く湿った欲求だった。

 牽制ではありませんように、あの気持ちがバレていませんように、と願いながらもう一方で、バレていないはずがないのだ、きっと気持ちは漏れ伝わっていて、そのうえで彼女はそれをあんな方法で遠ざけようとしたのだ、と諦めている。

 千結のその拒絶の表現方法は、梨生の心を破いた。だから、その破れた傷と血を千結に見せつけたい、という拭えない復讐心のようなものがあった。

 あんな仕打ちをされて、普段と変わらず手料理を用意してやれる余裕などない。それを、少しは知ってほしい。

 なんて幼稚な、と自身を鼻で笑う気持ちもある。

 でも、やっぱり、深く傷付いているのだ。


 この傷の深さは、自分が“事実”に到るまでにかかった時間の長さに比例してもいた。千結をずっと昔から好きだった、という事実。


 それに気付くのが遅かった。いや、心の底では気付いていたが、認めることに時間をかけすぎた。知っていたのに、それを直視せず、無視し、様々な言い訳と建前を弄して、その想いが存在しないことにしてきた。

 友達だから。幼馴染だから。心臓が跳ねるのはただちょっとびっくりしただけ。友達に感じる親しみから触れたくなるだけ。くっついた体が離れて寂しいのも生理的な反応なだけ。そうじゃないと、裏切りになるから。親友でいたいから。この先もずっと、隣にいたいから。

 自らに言い聞かせてきた言葉は鏡の迷路のようになって、自分の居場所をわからなくした。言い訳が多くなるほど鏡は自分を取り囲み、戸惑ってうろたえる己の顔だけはよく見えた。


 近頃になって、それらの言い訳を一枚ずつ消し去っていった。長らく無視し続けた自分の気持ちを、ようやく認めてあげた。ずっと、わたしはちーちゃんを好きだった、と。

 そうしたら、迷路の中心地には、幼かった自分がいた。自分にさえ認められることのない感情を押し込めてきた、少女の頃からの梨生自身が。

 その子と手を取って、恐る恐る迷路の外へ出てみた。

 その先で、同じ気持ちの千結と出逢えたと、そう思っていた。


 だが、そうではなかった。

 千結の瞳のなかにも同様の輝きを見たように錯覚していたが、所詮それは鏡に映った自身の姿に過ぎなかったのだ。見たかったものを見ただけだ。

 巻き付いた腕の切なさも、ほのぼのと幸せそうなはにかみも、湿った吐息も、羞じらいに伏せられたまぶたも、笑顔に含まれたとびきりの甘さも、期待に震えていた声も瞳も、全部、ぜんぶ幻。所詮わたしたちは友達でしかなかった。


 今朝の千結の言葉を聞いた瞬間、彼女を好きでい続けた幼い自分がまるで切り裂かれたみたいだった。それを哀れに感じてやる人間が、自分ひとりぐらいいてやったほうがいいだろう。存在を認めてあげるのが遅くなってごめんね、と少女の自分へ申し訳なく思う。

 いつ始まったのかもわからぬ幼い恋は、想いびとへまっすぐに伝えることもできずに死んだ。




 梨生はくずおれるようにして椅子に座り、付箋を手に取った。何も書きたくないと思いつつ、「スーパーのごはんでごめん」とだけ書きつけた。いつも添えていた絵は描かない。これが、今の梨生に出来る精一杯のラインだった。

 ふと、今この瞬間に千結が帰ってきて鉢合わせする可能性に思い至り、梨生は恐怖にぱっと立ち上がった。これまでは彼女の帰りを楽しみに待っていたのに。

 惣菜のパックが並んだうら寂しいテーブルを振り返る。申し訳なさと共に、明日からはちゃんと料理をしよう、そう思いかけてからはたと気付く。今後は、彼女の帰宅が仕事以外の要因で遅くなることがあるかもしれない。「デートで外食してきたから、ごはんはいらない」なんて言われたら。そんなの、心が折れてしまう。

 今までは二人分の料理をそれぞれの皿に用意していたが、自分が不必要にみじめさを感じないためにも、料理は大皿に盛り付けて、食べたい分だけ取り分ける方式にする、と梨生は決めた。


 暗く塞ぎこんでいく自分の顔を見られたくなかったし、彼女の顔も見たくなかった。追い立てられるように照明のスイッチへ近づき、梨生は居間の電気を消した。




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