40. 鱗粉のきらめき橋こえて微風


 ――……。

 眠りの淵から浮かび上がってまず、首をひねって隣を確認した。誰がいるわけでもない。息を吐いてスマートフォンに手を伸ばし、アラームを止めた。窓の外では朝の到来を鳥たちが賑やかに讃えている。


 梨生はのろのろとベッドから両脚を下ろし、そのまま床を見つめてしばし呆然とした。

 しっとりと濡れた柔らかさ。暗闇で密やかに交わされた呼吸が、温もりと共に蘇る。瞳に込められた鮮やかな熱が心臓を灼いた。それらの感覚は生々しく、単なる夢だとは思えないほどだった。ちょっと意識をし始めた途端、彼女相手にあんないかがわしい夢を見てしまって、直視することのなかった己の願望が白日の下に晒されたような後味の悪さがある。

 そのとき、夢の最後に肩へ走った痛みを思い出した。ぱっと立ち上がって全身鏡の前へ歩く。襟元を引っ張り、噛まれた右肩を鏡に映してみたが、どこにも何の痕はない。そうだよね、と胸の中でつぶやいて、再び梨生は嘆息した。

 自然と手は、半袖から出た左腕の古傷へ伸びて、その感触を確かめた。それがちゃんと存在することに安堵した。


 寝坊をしなかった平日の朝は、千結の分も含めてお弁当を用意している。油断するとゆうべの夢を自動再生しかける頭を振って、朝陽の差すキッチンに立った。手の込んだ料理を作れる調子ではなかったから、シンプルなものを作ることにした。

 きゅうりを切っているときにスライド式の扉が小さな音を立てて開き、梨生の体はかすかに強張った。


「――おはよ、ちーちゃん」


 千結へ視線を向けそうになったが、身勝手な夢の記憶もいまだ新鮮な今は彼女の顔を見ることもできなくて、料理に集中するふりをして手元を見たまま朝の挨拶を伝えた。出勤時間が遅めの千結は、この時間ならいつもはまだ寝ているはずなのに、今朝に限って起床が早い。


「おはよ、梨生」


 これまで何度も交わしてきた挨拶だけれど、今朝の呼びかけはなんだか妙に甘く響いた。昨夜の苦しげに呼ばれた声と仄暗い悦びが蘇って、梨生は罪悪感に唇を噛んだ。

 するとそのとき、温かい気配がふいに近づき、後ろから柔らかさに包まれた。千結が、梨生の腰にそっと腕を巻きつけ、肩にその顎を載せて、


「何つくってるの」


と静かに問うた。顔のすぐ横に彼女のそれがあって、小さく発された声は梨生の鼓膜を敏感に震わせた。思わず梨生は素っ頓狂な叫び声をあげかけたが、その代わりに、


「――サンドイッチ」


と無事に答えた。体の緊張だけはどうしようもなかったけれど、叫ばなかっただけでも偉い、と梨生は思った。彼女のしなやかな身体が上半身に巻きついている。一拍置いて千結が、


「……美味しそう」


と応じたその息が、右肩のあたりにちょうどかかって熱っぽく感じられ、梨生の身のうちを得も言われぬ感覚がぞくりと駆け抜ける。その瞬間、梨生の二の腕の傷跡を千結の指先がすっとかすめた。梨生は喉元まで出かけた声を呑んだ。


「……ちーちゃん、くっついてたら危ないから」


 振り返ると肩の上の彼女の顔にぶつかってしまいかねないから、わずかに首を動かすに留め、手の中の包丁を持ち上げて粛々と諌めた。「うん」と言う声と共に温もりが遠ざかったことにほっとして、次いで名残惜しさが湧いた。


「何か手伝える?」

「大丈夫。顔洗ってきなよ」

「ん」


 洗面所へ消えていった千結の背中を横目で確認してから、梨生はシンクに両手をついて盛大に息を吐き出した。やっと思う存分跳ねられる、といった塩梅に心臓がバクバクと全身に血液を送りだす。

 ――なん、なんなのもう、ちーちゃん……。

 わたしたちはこういう風にじゃれ合うのが普通だったっけ、どうだったっけ。回らない頭で必死に思い出そうとするが、よくわからない。小学生の頃は、他愛なく触れ合うこともよくあったかもしれない。大学生になってからも、気軽なスキンシップはあったと言える。でも……先ほどのものは、どうだろうか。

 寝起きのぽかぽかの体温に包まれた感触、それから夢のなかの湿った素肌が重なる感覚が脳裏だけでなく全身に再生されて、梨生は弱々しく息を吐く。


 昼休み、会社で食べたサンドイッチはなんだか味がボケていて、いまいちだった。



 #



 夕方、千結からメッセージが届いていた。曰く、「さっき仕事でミニ会食みたいなのがあって、お腹いっぱいだから夕飯いらないです」とのことで、梨生は自分一人のために料理するのも張り合いがなくて、インスタントラーメンで晩御飯を済ませてしまった。夕飯作りをしなかった分ぽっかりと空いた夜の時間は手持ち無沙汰で、観葉植物の世話を行った。つやつやとした緑の葉の間から、すっと伸びた茎の先に白い花が咲くのだが、この頃寒さが影響してか花に元気がない。なるべく日当たりのよい場所に移してみた。


 結局仕事中も含め、梨生は一日中ぼーっとしてしまった。気を抜いた途端に、薄れつつある夢の断片が脳裏をよぎっては、誘われるままにそのときの感覚や表情に瞬刻のあいだ耽った。そして、実際にはありもしなかった千結との淫らな記憶を弄する後ろめたさで自己嫌悪に苛まれ、その光景を頭から振り払った。そうしても次には、いやに艶かしく感じられた今朝の千結の振る舞いが想起された。ともすると、昨夜の夢は本当の出来事だったのではと思わされる、まるで夢が現実に侵食してきたような、そんな蠱惑を朝の千結はまとっていたように思う。

 

 今朝はなんだかんだで最後まで千結と目を合わせられなかった。このままでは、一人で勝手にぎくしゃくした態度を続けてしまいそうだ。今まで通りきちんと千結の顔を見て、しゃべって、いつもの調子を取り戻さねば、と考えながら、居間のビーズクッションソファに埋もれて、梨生は猫の動画を延々と観ていた。無害な可愛い動物の記録で、不埒な記憶を押し流そうという試みだ。

 そろそろ風呂を洗って入浴に備えるべき時間帯だったが、数珠つなぎの猫動画をぐずぐずと観ている間に、玄関の開く音がした。びくりとしかけた肩から力を抜いて、平静を装う。

 ぱたぱたという早足の音に続いてガチャ、と開いた居間のドアへ向かって、スマートフォンから視線を外し、「おかえり」と声をかける。「ただいま」と応える千結の声は弾んでいて、綻ぶ顔は可愛かった。梨生は思わず胸の上のブランケットを引き上げて顔を覆ってしまいたくなったが、ぐっとこらえて、


「今日は帰るの早かったんだね」


といつもと同じ態度を心がける。


「うん。――着替えてくるね」


 千結はそう言い残し、早々にリビングルームを一度出た。

 普段と変わらず綺麗な千結だったが、その美しさを普段通りにあしらうことは、夢のおかげでまだ出来そうになかった。今すぐ自室に引っ込み一人で落ち着きたかったが、彼女の「着替えてくる」という言葉は、梨生がこのままこの部屋に残ることを期待してのものだろう。ここで姿を消すことは感じが悪いし、何よりこの正念場を超えなければおかしな態度を当面取り続けることになりそうだ、いや、今すぐお風呂を洗いに行って席を外そうか、それは自然なことだし、気持ちをいったんリセットするのに役立ちそうだ、ヨシ、と、画面の中の猫を凝視しながら梨生が考えていたところへ、部屋着をまとった千結が戻ってきた。


「何見てるの?」

「猫ちゃん……」


 画面を凝視する振りを続けながら答えた梨生に近づき、千結は梨生の上のブランケットを引っ張った。あっと思う間もなく、彼女は梨生の傍らに収まり、同じビーズクッションのソファとブランケットに埋もれた。

 梨生の心臓は早鐘を打ち始めたが、千結とこうして身を寄せ合って何かを鑑賞するというのは今までなら普通のことだったのだ。

 だが、すぐ左側の千結からなんだかいい匂いが届く。ほんのりと温かい体温も届く。つい距離を置こうと引きかけた梨生の肩に、千結が頭を擦り寄せる。


 ――大丈夫、いつものこと。意識するからいけないだけ。

 梨生はそう、自分に言い聞かせた。


 しばらく、梨生の持つスマートフォンの中の猫たちを二人で見上げた。宙へ掲げ続けた梨生の腕は、緊張もあいまって疲れてくる。無言に耐えかねた彼女は、猫に関連した話題をさりげなく口にする。


「――ぽんた、元気?」

「元気そうだよ。ときどき親から写真送られてくる」

「そうなんだ」


 自然な会話を目指したのに、小さく応える千結の声が耳元でこそばゆく響いて、梨生の返答はそっけなくなってしまった。己の未熟さに脱力しかけたと同時、スマートフォンを持つ梨生の腕が下がった。


「こっち側、持つ」

「ん、ありがと」


 千結の腕が伸びてきて、左手が包まれそうになったので、慌てて梨生はその片手を携帯電話から離した。電話を掴んだ千結の冷たい指先が、梨生の右手に触れる。逃れるように手をずらしたりするのは不自然かもしれないから、梨生は息を詰めてそのまま指先の冷たさを受け容れていた。

 沈黙が降りた室内で、猫だけが動いている。その愛らしさなんて微塵も頭に入ってこない。

 梨生がこっそり唾を呑み下したとき、千結が囁いた。


「――今度さ、一緒にぽんたに会いに行く?」


 鈴を転がすような彼女の声が、かすかに震えているように思われた。

 ――“震えて”?


「……ぁ、ああ、いいね。行きたい」


 上の空で梨生は答えた。この状況そのものよりも、今の千結の声音に気を取られた。わかりにくいながらも、それは確かに普段の落ち着きを欠いて、うわずっているように感じた。



 ――果たして今、身を固くしているのは自分だけなんだろうか。


「…………」


 少し俯瞰して部屋の様子を感じ取ってみれば、そこには明らかに張り詰めた雰囲気があった。何も梨生だけが発しているための緊張感ではない。それは部屋全体に共有されていた。


 梨生は、今度こそ息が止まりそうになった。


 自分たちが“ある想い”を共有した二人だと、そういう仮定にいったん身を浸してこの部屋の気配を丹念に分析してみれば、これは、ただの友人や知人でしかなかった二人の人間が異なる関係へと転がる、その寸前に充ちる空気だった。そして、その空気のなかには、ぬるま湯じみた甘やかさが含まれている。息も詰まるぴんと張り詰めた空気の一方で、こそばゆく、じれったいこの時間を楽しむような。


 一種の茶番だ。小芝居だ。

 暗黙の同意がお互いの目の前にあるくせに、素知らぬ顔をして今までの日常の延長を演じつつ、相手からのGOサインがわずかでも発されないか、じりじりと探っている。

 いくら親しくしていたって一定の線引きがある“他人”という領域の内側から、どちらかがほんの少しでもよろめいてみせれば、あとはもう、白々しい演技なんか崩壊してなだれ込むだけの、瀬戸際の空気だった。



 たとえようのない歓喜に、梨生の全身は震えそうになる。

 釘付けた視線の先では、相変わらず画面のなかで子猫が小さな体を無邪気に跳ねさせている。


 ――でも、本当に?

 緊張しすぎて、妄想が先走っているのではないだろうか、と梨生は自身に必死で問う。

 間違えたくない、絶対に。



 沸騰しそうな頭を落ち着けるために、梨生は一度まぶたを閉じてみる。


 ある夜、居間で彼女を起こそうとしたときに回された両腕の強さが、今また梨生の心臓を締め付けた。

 暗闇のなかで、あるいは早朝の朝陽のなかで感じた吐息の湿り気を思い浮かべた。

 ごくたまに恥ずかしげに伏せられたまつげの微かな動きが、梨生の心をくすぐる。

 幾度となくその瞳のなかに見た熱が、梨生の身体の芯をじわりと焦がした。


 彼女が顔を綻ばせれば、いつでも梨生の胸はあたたかく満たされた。

 いっときくっついては離れる体温を名残惜しく思った。

 触れたいという衝動を黙殺し、友人らしい距離を保った。

 彼女の“隣”という定位置をいずれ失うのだ、という予感に、いつも怯えていた。


 親友に対してこんな感情を向けてしまうのは裏切りになるのではないかと、そう思っていた。

 けれど。

 これまでとは違う立場で、この先も彼女の隣にいられるかもしれない。


 目眩にも似た恍惚を感じ、それに任せて“友人”という境界からまろび出たい思いに駆り立てられる。


 梨生はまぶたをそっと開けた。

 願わくば、よろめいた先でこの手を彼女が取ってくれますよう。



 スマートフォンを支える右手の指へ、梨生は意識を集中させた。

 このサインに千結は気付き、そして受け容れてくれるだろうか。もし彼女の側にがなかったとしても、この程度なら、ただの友達同士でじゃれつく行為としてごまかせるはずだ。

 怯懦と期待と、何より彼女へ触れたいという根源的な欲求をのせて、梨生は中指を千結の指へほんのわずかに絡めた。


 一瞬、時が止まる気配がした。

 隣の千結がぎこちなく身動ぎして、触れ合っていた彼女の右肩をゆっくりと引いて体を離した。

 それは、拒絶の兆しだった。


 ――間違った!


 梨生の血の気がさっと引いた。

 恐怖に魂を凍りつかせ、手負いの獣のごとく素早く梨生が立ち上がるのと、ビーズクッションのソファの上で千結が梨生のほうへ向けて体を横たえたのは同時だった。

 二人とも、はっと息を呑んで見つめ合った。

 立ち上がった梨生が見下ろす先には、潤んだ瞳が待っていた。


 拒絶ではなかったのだ。

 そこには、おそらく自分と同じ種類の渇望が息づいていた。


 二人は言葉をなくして、この数秒に抱いた確信を裏付ける要素を、相手の瞳の中からひたすら見つけようとしていた。

 しかし、梨生が条件反射で飛びすさって空けてしまった距離を、今さら自然なかたちで取り戻す術を彼女たちは持っていなかった。


 梨生は声を絞り出す。


「……お風呂っ、洗ってくる」


 返事も待たずに梨生は浴室へ向かった。浴槽へシャワーの水をかけながら、彼女は思う。


 ――もしあのとき立ち上がらなかったら、わたしはどうしていただろう。ちーちゃんは、どうしていただろう。


「ちーちゃん……」


 シャワーの音に紛れて小さくつぶやいてみた声は、夢のなかで呼びかけた声と比べれば、燃え盛るほどの熱量はない。

 だが、これまで何の気なしに呼ばっていた頃とは、確実に違う余韻を含んでいた。



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