薫風

#29. 刈り取ってもあおあおと青草

 どこかの客が店員を呼びつけるピンポンという音を契機にノートパソコンから顔を上げ、暗い窓の外、駅前の雑踏をぼんやり眺めたときだった。

 スマートフォンの振動が机を細かく鳴らす。その振動パターンは電話だったから、私はあくびを嚙み殺しつつ、散らばったレポート用紙のあいだから携帯電話を探し出した。大学の課題に同じく苦しめられている友人が電話をかけてきたのかもしれない。

 けれど、液晶画面に表示された名前が目に入って眠気は吹き飛ぶ。

 今年の春以来、のらりくらりと避けられていた梨生からの電話だった。

 要領を得ない彼女の話をまとめると、どうやら今、私の最寄駅のあたりにいるから会えないか、ということだった。緊張して電話を取った私に比べて、彼女はあくまで普通――よりもずっとリラックスして異常なほど陽気にしゃべっていた。通話しながら駅前に目をこらしてみても、それらしい姿は見つけられなくて、電話を切ったあと、私はもどかしくテーブルの上の資料や紙束をかき集め、精算を済ませてファミレスを出た。ガラスのドアを押し開けると、夜でもまだ蒸し暑い夏の湿気とセミの大合唱がすぐさま身体中にまとわりついた。


 ほぼ駆け足で駅前へと急ぎながら、苛立ちと不満がますます私の足を速める。

 春になってからはずっとろくに返事も寄越さないで、やんわりと私を避け続けていたのに、なんで突然電話なんか。勉強を邪魔するのも悪いかな、と遠慮していたこっちの気持ちなんて、梨生はお構いなしなんだろう。

 高校のときにしたって、会いたいと呼び出すのはいつも私だった。再会して以降、梨生から誘うことは一度もなかった。それがずっと不満だった。


 ――そう、不満はいくらでも湧いてくる。けれど……やっぱり嬉しくなってしまう。悔しいことに。

 たった一本の電話で。数秒声が聴けるだけで。会えないかな、と聞かれるだけで。会える、と思うだけで。


 足を止め、呼吸を整えて、緩みそうな頬を引き締めた。

 表情をニュートラルなものに戻してから、辿り着いた駅前を見渡す。駅に繋がるショッピングセンターの壁に背中を預け、がっくりと俯いている人影を見つける。顔は見えなくても、しなやかな筋肉を感じさせる、すらりとしたシルエットですぐわかる。

 この数分のあいだにも暑さに汗ばんでしまった自分の体が気になる。それとなく鼻へ腕を寄せてにおいを確認、なんとなく前髪を直して、ゆっくりとその人影へ近寄る。お店を飛び出してくる前に鏡を見てくればよかった。

 こんなに気温は高いのに、緊張で手足の先が冷えていく。速まる心臓を手懐けようと、私は意識してゆっくりと声を出した。


「――梨生」


 ゆらりと面を上げた彼女の目は、どこか焦点が合わない様子だった。でもそれが私の顔を捉えると、にっこりと弓なりに細まって、そして、


「ちーたんっ」


嬉しげな声を上げ、どっと体を投げ出して私へ抱きついてきた。


「り、りお」

「ちぃたんだぁ」


 そのとき、間近で感じる彼女の呼気からかすかなアルコールの香りを嗅ぎ取った私の頭が少し冷静になる。


「梨生、酔ってるの?」

「しょうしょう」


 詰問するような調子で訊かれても、梨生はへらりと笑って答えた。頬に朱が差している。表情はだらしないのに、その朱色は色っぽかった。

 彼女は相変わらず体重をこちらへ預けるようにしながら、細めていた目を大きくした。


「ち、たん。ポニーテールだ、めずらし。かわい」


 べた、と色気もへったくれもない手つきで顔を触られる。子どもが無頓着に触るようなやり方でも、私の心臓は跳ねる。


「――梨生、今日はいきなり、どうしたの」

「んん。ちぃたんに〜今なら会える、気がしたからあ」


 大きな口をにっこりさせて彼女は言う。


「……」


 抱きしめたら、おかしいかな。

 こんなに酔ってたら、どのみち覚えてないかもしれない。


 ――私は散々迷いに迷ってから、弱みにつけこむのは違う、とぐっとこらえた。


「……とりあえず、梨生の家まで送るから」

「ありがとう、ちたん」


 満面の笑顔となった彼女に、手を繋がれる。それは手のひら全体をぎゅっと握るような幼い繋ぎ方だったけれど、何食わぬ顔で歩き出しながら私は、これぐらいならバチも当たらないよね、とそれを恋人繋ぎに変えた。絡んだ一本一本の指がたまらなく切なくて、私もお酒を飲んだみたいに顔が火照る。

 ここから梨生の家まではバスを使ったほうが早い。でも、黙って夜の街を歩く。


「どこで飲んでたの?」

「XX川の河原で。よびこーの子たちと花火した」

「結構飲んだ?」

「んーん。わたし、お酒よわいみたい」

「そっか。……お酒、初めてだった?」

「ん。はじめて」


 へにゃへにゃ笑う梨生が可愛くて、当の本人の意識がはっきりしないのをいいことにまじまじとその顔を見つめる。その熱視線を気にかけることなく彼女は、


「ちぃたんは何してた?」

「――ファミレスで課題やってた」

「そか。大学たのし?」


 彼女の表情が曇らなかったことに内心ほっとしつつ、


「……別に。思ったより楽じゃない」


そう平坦に答えた私へ梨生は優しく微笑みかけてから、しみじみとつぶやいた。


「ちぃたんがもう大学生だもんなあ」


 ――梨生だって、とは言えない。彼女は浪人してるから。

 そして、母親ネットワークの情報によると、学部は違うものの私の今通ってる大学が、梨生の第一希望だったらしい。

 私の母親が、「梨生ちゃんは部活に打ち込んでたからねえ」と表面上は同情するように話していた声が蘇る。「貴女は部活やってなくてよかったわよね」と優越感を漂わせて、彼女は私に言った。

 嫌悪感で胸が黒く燻る。親の意向に従うのは大学まで、と決めてある。


 あの、最後のレースに挑む直前の、梨生のすっくと立つ姿。透き通った、遠くへまっすぐと投げるまなざし。ゴールへの研ぎ澄まされた意志。力強いのに優雅な、まるで疾風のように駆ける美しいフォーム。

 それらを知らないから、母親はあんな風に言えるのだ。



 ご機嫌だった梨生が、突然立ち止まった。


「どうしよう。なんか……きもちわるいかもしれない」

「吐きたい?」

「わかんない……吐くってどうすればいいの、こわい」


 うろたえた様子の彼女に向かって落ち着いた声音でしゃべる。


「とりあえず、トイレ探そ」


 ちょっと歩けば小さな公園の中にトイレがあったから、私たちはそこへ入った。

 便器の前で梨生の背中をさすっていたら、ほどなくして彼女はえずき出した。

 私は自分の頭から髪ゴムを取り、梨生の髪が汚れないようにそれをまとめてあげた。結い上げた彼女の無防備なうなじと張り付いた後れ毛に、どうしても視線が吸い寄せられる。

 陸上のトラックを離れて久しいはずの梨生の肌は、随分白くなっている。

 苦しそうに俯く彼女の背をさすりながら、薄着の汗ばんだ背中にブラジャーの紐の存在を感じていた。

 身体を支えるために回した手のひらが、彼女のしっとりと冷たい二の腕を包んでいる。


 梨生がぽんたへ初めて会いに来た日。夕陽のなかで見つめ合ったとき、もし、目を逸らされるよりも前にいっそ気持ちを打ち明けてしまって、その身体を引き寄せていたら――と甘く身勝手な分岐点を想像しては、寂しくて、切なくて。やりきれなくて結局は、コロコロでなぞった彼女の身体の線と起伏や弾力を、あれから今まで何度も思い出しては”利用”してきた。


 その身体が、体温と柔らかさを伴って今、目の前に実体として存在している。

 ――どうして衝動が抑えられよう。


 ほとんど思考が真っ白になりかけたその瞬間、


「あり、がと……ちーちゃん」


小さな声で梨生が言ったから、


「――ううん」


私はちょっと、後ろめたい。


 まだ立ち上がれる様子じゃない梨生の、私の体に近いほうの二の腕を見つめる。半袖の端からは、お酒で血行がよくなり赤くなっている古い傷痕が見えた。

 それは昔、私のために彼女が負った傷だ。何年経っても、私と離れていても、この傷は彼女と一緒にあり続けた。

 もちろん、彼女の身体にそんな傷を残してしまった罪悪感はひどくある。

 でも、歳を重ねるにつれて、罪悪感以外にも覚えたのは――


 鼻をすすって、梨生がうめく。


「だめだ。ちーちゃんに、かっこいいとこ見せたいのに……」

「――なに、それ」

「こんなんじゃ、全然、全然だめだ……」


 弱りきった涙声で彼女は言う。


 確かにかっこよくはないけれど。

 めそめそと泣く梨生の姿は、保護欲と嗜虐心をかき立てて。


「……いいよ。梨生が頼ってくれて、嬉しいから」


 昔からの”友達”らしく、私は言葉を整える。



 少ししたあと、落ち着いた梨生とトイレから出て公園のベンチに腰掛けた。自動販売機で買ってきたペットボトルの水を彼女へ渡す。

 口をゆすぎ、何度か水を飲んだ彼女を待って、私はゆっくりと尋ねた。


「梨生は、なんで今日、私に会おうって思ったの」


 彼女は、街灯が作る薄明るいスポットライトへ視線を向けながら、考え込むように少し黙った。それからぽつりと言葉をこぼす。


「……お酒飲んでたら、ちーちゃんも今頃こうやって大学で楽しんでるのかなって思って、それで……我慢できなくなったって感じ……」

「――私に、会いたかったんだ」

「うん……。でも、ちーちゃんにはちーちゃんの新生活が……あるから」


 こちらへ顔を向けた梨生の目が潤み、私をまっすぐ見ている。


 梨生のいない生活にどうにかして慣れてくると、梨生が飛び込んでくる。

 梨生のいる生活に溺れ始めると、また梨生は離れる。

 苦しいのに、忘れたいのに。


「私には、梨生が……」


 そう言葉を絞り出したそのとき、


「あ、やばい」


梨生は切羽詰まった声で短く言って、またトイレへ駆け戻った。

 置いていかれた私は呆然として、それからなんだか笑ってしまった。


 今度は一人で個室に篭った彼女へ、頃合いを見計らって扉の外から声をかける。


「梨生、大丈夫?」

「うん……ごめんね、ちーちゃん……。もうわたし、今後はお酒飲まないね……」


 少し弱まったセミの合唱を背にしながら私は、「あんな風に素直に甘えてくれるなら、また酔ってほしい」とこっそり思った。


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