26. いくとせ前の燃えた光届いたとてそれはもうないかもしれぬ


 湯舟に浸かった肩をより深く沈めて、ほう、と息をつく。

 凝り固まった緊張の残滓が、お風呂の湯でゆるゆると溶け出していくのを梨生は感じていた。


 さっき、改めて千結と会ってきた。

 いつ会えるか、と昨夜問われ、すぐさま『明日』と答えた。そうして、予備校のあと、互いの自宅の中間点にあたる小さな公園で、ふたりは約二年ぶりに顔を合わせて話した。

 夜も遅い時間だから、そんなに長くしゃべったわけではない。しかし、その対面は、凍えるような寂しさと後悔をほぐす助けにはなった。



 #


 気もそぞろに受けた授業を終えて向かった公園には待ち合わせ時間より少し早く着きそうで、梨生はのろのろと歩いた。スマートフォンで何度も確認するデジタル時計は、刻々と約束の時間に近づいていく。メッセージアプリを確認したが、約束を取り付けたあと、千結からは特に連絡はない。いっそ、『今日は風邪っぽいからやっぱり行けない』なんて嘘でもいいから伝えてくれればこの不安から逃れられるのに、とどんどん重たくなる足を運びながら梨生は思った。

 すでに公園はすっかり暗く、まばらに灯る街灯は心許なかった。今夜は特に冷え込んでいてただでさえ縮こまっている身体が、緊張でますます固くなっていた。

 まだ千結は来ていないようだ。どくどくと速い心臓を落ち着かせようと深呼吸をしたら、息は白くなって宙へ消えた。

 手持ち無沙汰で座ったブランコは、高校生の梨生には低い。鎖を握り、つかの間揺れてみる。キィキィと寂しげな音が響いて、心細さが増してしまった。


 ――ちーちゃんは、来ないのかもしれない。

 ざざっと足をついて梨生はブランコを止めた。携帯電話の時計は、待ち合わせ時間からすでに2分が過ぎたことを示している。鎖をぎゅっと握りしめていた手のひらからは金属のつんとした香りがして、泣きたくなった。

 梨生が顔を俯けたそのとき、


「ごめん、遅れた」


見上げた先に、千結が立っていた。


「――ううん、大丈夫」


 実際に現れた彼女を目の前にしても、なんだか梨生は泣きたくなった。

 千結はゆっくり歩いて隣のブランコへ自身も腰掛けた。


「……」


 何から話せばいいかわからない。二人はしばらく目も合わさず、小さくブランコを揺らし続けた。


「と」


 口からこぼれ出た言葉を、つばを飲み込んで梨生はもう一度放つ。


「遠くなかった? この公園」

「ううん……通り道」


 夜の闇へ溶け込むような、落ち着いた千結の声が返ってくる。彼女は、わたしと違って馬鹿みたいに緊張していないんだろう、と梨生は落胆するような、ほっとするような心地になった。


「ちーちゃん、門限ある?」

「九時半までに帰れば大丈夫」


 スマートフォンで時間を確認しているのか、下を向いた千結の顔を、青白い光がぱっと眩しく照らした。その横顔は、見知っているよりもやはり大人っぽくなっているのだった。

 何を、話したらいいんだろう。このぽっかり空いた二年間を埋めるには、どんな話題がふさわしいのか。答えを求めて激しく動く脳を、空っぽだけが占める。梨生には寒さを感じる余裕もないが、千結はしきりに両手をこすり、それらへ白い息を吐きかけていた。


「ちょっと待ってて」


 立ち上がった勢いでブランコの鎖がガチャリと音を立てるのを後ろにして、梨生は公園の片隅で光る自動販売機まで早足で歩いた。

 マシンの前に立ち、詰まっていた息を逃がす。温かい飲み物を探して泳がせた視線が、あるひとつの商品の上で止まる。


「はい」


 ブランコへ戻った梨生は、千結へ細長い小ぶりの缶を手渡した。両手で受け取った千結は、目を丸くしてつぶやいた。


「――コーンポタージュ」

「ちーちゃん、寒そうだったから」

「ありがとう。……懐かしい、よく飲んだよね」


 ふわり、とほどけるように柔らかく千結は微笑んだ。


 彼女たちの家がまだ隣同士だった小学生の頃、夏にはみかんゼリーのジュースを、冬にはコーンポタージュの缶をよく分け合っていた。千結が覚えていない可能性を恐れて昔語りをせずにそれを渡していた梨生は、彼女の言葉と様子につい嬉しくなった。

 念入りに缶を振ってから中身をひとくち飲んだ千結は、ほふ、と温かそうな息をついて隣のブランコから缶を差し出してくる。梨生は訊く。


「もういらない?」

「まだ飲むけど。私だけ飲んじゃうの、悪いから」

「いいよ」


 小さく苦笑を浮かべて遠慮した梨生に向かって、千結ははっきりと述べる。


「ちゃんと梨生もあったまって」


 初めてまともに目を合わせたかもしれない。薄明るい街灯を受けた千結の、思いのほか真剣な視線が梨生を貫いた。17歳の少女となった千結の姿は、梨生のなかの彼女のイメージ像を上書きするにはまだ至っていない。けれど、その瞳の芯の強さは、確かに梨生のよく知るものだった。

 黙って首肯し、温かい缶を受け取る。”友達”のあいだでの回し飲みは普通のことだ。甘くとろりとしたポタージュを口に含みながら、梨生は自分自身の動揺の度合いを冷静に測り、問題ない、と思う。


 ひとくちずつ飲んでは交換して、小さな缶はすぐに空っぽになった。

 千結は夜の暗さのなかでも白い喉を反らせ、缶の底を叩き、一粒たりともコーンを食べ残さない態度を堂々と表した。梨生は声を上げて笑う。


「ちーちゃん、昔もそうやって最後の一粒までコーン殲滅させてたよね」

「食べきれないの、なんか負けたみたいでムカつくから」


 ぼそりと言ってから千結も、ふ、と頬を緩めた。


 分け合った缶はすぐさまぬるくなったが、縮んで絡まっていた心を温かくほどいた。



 #


 一時間ほど前の記憶を辿り、浴槽のなかで梨生は自らの言動や情動を点検した。


 大丈夫だったはずだ。

 自分の気持ちも正体もわからなくなって、どうしようもなかった中学生の頃とは違って、今日は”普通”に接せられたはずだ。

 彼女はますます綺麗な女の子になったけれど、でも、それだけだ。大丈夫、わたしたちは”友達”だ。

 ”いい友達”なら、劣等感なんか感じずに、友人の成長や羽ばたきを心の底から祝うはずだし、ましてや、”おかしな”気持ちなんて抱かないはずだ、と梨生は自身に言い聞かせ続けた。

 幼馴染、と言えるほどの距離感に戻れた自信はないが、それでも――


 浴室の天井から、梨生の首めがけてポツリと雫が滴り落ちた。冷たさに短く息を吸ってすぐ、長湯をしているせいで左の二の腕の古傷が痒くなっていることに気づいた。傷つけないよう、そっとそれを引っ掻く。


「……」


 傷跡を触りながら思う。


 千結と顔を合わせれば、やっぱり自分にとって彼女は特別だと自覚してしまうから、会いたいし、会いたくない。


 ――わたしはちーちゃんに会えて嬉しかったけど。話が盛り上がったとは言えないかもしれない。

 梨生は次回の約束を取り付けるのを躊躇っていた。

 公園での記憶の反芻と反省が入浴中のルーチンになりつつあったある日、千結から連絡があり、また会うことになった。




 その日は予備校の授業のない日だったし、どうせ心拍数が上がるなら運動して自ら上げてしまえ、と考え、梨生はジャージに着替えて待ち合わせの公園までジョギングした。息を弾ませて入った公園のブランコには、予備校帰りの千結がすでに座っていた。

 梨生の乱れた呼吸に任せて、二人は無言で手を上げ挨拶代わりとした。やはり、大会が終わって以降、体が少し鈍っているかもしれない。倒れこむようにしてブランコへ腰掛けた梨生の息が落ち着くのを待って、千結は口を開く。


「梨生、陸上続けてるんでしょ」

「あ、うん。――母ネットワークから聞いた?」

「ホンダから」

「あ、ホンちゃん」


 共通の話題が出てほっとする。途端に緩んだ梨生の表情を見て、千結はわずかに顔を曇らせた。


「なんか……ホンダと仲よさそうだよね」

「ん、まあ、去年も今年も、同じクラスだから」

「……ずるい」


 子どもが拗ねるみたいに口を尖らせた千結に、梨生はくすくす笑った。少しリラックスできたから、自然と口が動いた。


「ちーちゃんは、帰宅部らしいね」

「ホンダ?」

「うん、ホンちゃんから聞いた」


 今度は二人揃って、ふふ、と笑い合う。


「――部内のごたごたとか、もううんざりだし」


 千結は夜空を見上げ、口元に小さく笑みを刻みながら言った。


「……ちーちゃん、なんか昔より笑うようになったね」


 なんとなく感じていたことを伝えると、彼女はぱちりと目を瞬き、次いで淡く笑った。


「――そうかな」

「人間性も……なんか丸くなったと思う」

「一気に年寄り感出るから。やめてよ」


 むっすりと千結は反発する。


「ちーちゃんがもう高校生だもんなー」


 芝居がかってしみじみと言う梨生に向かって千結も当然のごとく、「梨生と一緒なんだけど」と返す。

 以前は頭ひとつ分ほどの身長差があったが、今はあまり大きく変わらないことに梨生は思い至る。


「背も伸びたよね」

「――私、大器晩成型だから」


 梨生はぱっと立ち上がって、


「とはいえまだわたしのほうがでかいけどー」


と千結を見下ろす。すると彼女もブランコから立ち、梨生の真正面へ立つ。


「大器晩成型だから」


 同じ言葉を繰り返す彼女に笑って、


「いつだよ晩」

「もうすぐだから、待ってて」


 彼女は小首をかしげて不敵な笑みを口の端に浮かべた。

 ――その言葉は、わたしたちの関係が続くという、その意志がある、という意味と思っていいんだろうか。

 ぼんやりと立ち尽くす梨生を気にするそぶりもなく、千結は笑顔の質を変えた。


「――梨生、まだ走ってるんだよね」


 彼女は梨生のジャージ姿を、こんな闇夜のなかでも眩しそうに見つめた。

 梨生の心臓はぎくりとも、どきりとも形容できる風に脈打った。息苦しくなった呼吸をゆっくり整えつつ、梨生は頷く。


「……うん。でもこないだ大会終わったばっかだから、しばらくはトレーニングが続くだけ」

「その大会ってすごいの?」


 入賞できたわけではなかったが、都内の支部予選を通過して出場した都大会だから、なかなか健闘しているとは思う。


「ん〜……まあ、そこそこ」


 左腕を掻きながら、梨生は歯切れ悪く答える。


「梨生が思い切り走ってるとこ、見たいな」


 そうつぶやく千結の瞳が、公園の外を通過した車のライトを受けて夜に一瞬浮かびあがった。

 不思議なほどきらきらした瞳で見つめられると、その目に映るのがわたしなんかでいいのか、と梨生は後ろめたくなる。

 でもそれが自分だけを見ていると、言いようのない嬉しさがやっぱり頭をしびれさせた。そんな風に感じながら彼女といるのは、罪悪感があった。

 ”友達”に戻れただけでも感謝すべきなのだ。


 だから、梨生はそのはしゃぐ心臓を抑えつけるために、


「――彼氏できた?」


そのたったひと言が何度も喉元までせりあがって、でも、どうしても聞きたくなかった。怖かった。


 ――わたしたちは高校生なのに、恋バナのひとつもしなかった。


 空にはとびきり明るい星がいくつか、澄んだ光を放って煌めいていた。


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