早梅の蕾

10. こんこんとコンプレックス、コンディションとリフレックス


 中学校の初日も、梨生と千結は当然一緒に登校することになっていた。

 小学生のときより早く起きて朝ごはんを食べる。中学校舎も相変わらず自宅から遠い場所にあるので早起きは必須だ。朝食や洗顔、歯磨きを終えて、いよいよ真新しい制服に袖を通す。

 梨生は姿見の前で角度やポーズを変えて、制服を着た自分をしげしげと眺めた。濃紺のセーラー服に臙脂色のスカーフは特段可愛いものではなかったが、それでも"制服"を着ている自分は昨日までとは劇的に見違えて、それなりにお姉さんらしいと思う。にやけてしまう。新品の学生鞄はまるで菓子箱みたいにきっちりと四角くて今は格好がつかないけれど、毎日使っているうちにこなれてくるのだろう。

 階段を降りてリビングに入ると、入学式へ参加するために小綺麗な格好をした母親が待ち構えていた。


「ほら、梨生。こっち来て。写真撮ってあげる」

「えー、いいよう」

「いいからいいから、この壁が白いとこ後ろにして立って」


 嬉しそうにデジタルカメラを構える母親に促されて、ちょっと恥ずかしいけれど大人しく写真に収まる。姉の果歩は寝巻きのままだらだらと朝食を食べながらその光景を見て、


「うわ、その制服懐かし。あの梨生が中学生ねー、変なの」

「変じゃないし」

「てかあんたスカート短くない? 新入生の分際で」

「ええ、全然短くないでしょ」

「あんた上級生にボコられるよ」

「ええ……? 大丈夫でしょ……」


 にやにやと言う姉に反論したものの、いたいけな中一の梨生の胸に不安が生まれる。母親は「果歩ったら。そうやって怖がらせないの」と注意したが、姉は相変わらず底意地の悪い笑顔を浮かべていた。


「じゃああとでね、梨生。いってらっしゃい」


 入学式における保護者の集合時間は少し遅いため、母親はあとから学校へ来る。



 期待と不安に呼吸が浅くなりつつ、家を出て門の前で千結を待つ。ほとんど常に梨生が先に家を出ているから、今朝も千結がまだいないのは予想済みだった。

 昨夜はよく眠れなかったので、あくびをかみ殺す。時折どこからかウグイスの鳴き声が届く。まだ鳴き慣れていない個体なのか、ホ、ホケ、ホーホケ、ホケホケピ、とつまずきながら鳴いている。あたしと同じ新米だ、と姿の見えない鳥に親近感を感じて、梨生はどことなく嬉しくなる。


「……」


 それにしたって千結は遅いのではないか。初日から遅刻はしたくない。ポケットから携帯電話を取り出す。中学生になるということでこの春からようやく買い与えてもらえたものだ。パカパカ式とスライド式のどちらにするか迷ったが、スライド式のほうがスパイやヒーローのガジェットっぽさがあってワクワクする、と思ってそちらを選んだ。梨生の嗜好はいまだに小学生男子のそれである。本体の後ろには、千結と撮ったプリクラが貼ってある。

 液晶画面で時刻を確認して、そろそろ粟田家のインターフォンを押そうかと振り返った瞬間、「ホーホケキョ」とウグイスが綺麗に鳴いた。と同時に、千結の家の玄関が開く。

 扉の内側から出てきた少女に、梨生は声をなくした。すぐに梨生の姿を認めた千結は、可憐な花が咲くように笑む。門扉を押して道路に降り立った彼女はいつも通りに梨生へ声をかけた。


「おはよ、りお」

「……」


 目を見開いて黙ったままの梨生に千結は眉をひそめた。


「どうしたの」

「――うわあ、ちーちゃん……可愛いね」


 やっと口を開いた梨生は朝の挨拶も忘れて、親友の制服姿へ感嘆の声を漏らした。

 梨生の胸ではただただ冴えないだけだったスカーフの臙脂色も、千結の薔薇色の唇と共にあれば品のある渋い色として映え、地味な濃紺のセーラーも彼女の雪のごとく白い肌を包んでしっとりと落ち着いて見えるし、その上を流れる艶めく黒髪はますます輝くようだ。

 ぐるぐると千結の周りを回りながら、


「美少女とはこういうことか」


と上から下まで舐めるように観察する梨生の視線に千結は顔をしかめ、


「やめてよ。早く行こ、遅刻する」


と歩き出す。梨生も横へ並び、


「でもさ、ちーちゃんスカート長すぎじゃない?」


 きちんと膝下まで覆い隠すスカートは、初々しくてそれはそれで趣もあるのだが、梨生の好みとしてはもう少し短くたっていい。歩く千結のスカートの前をひょいとつまんで、勝手に膝上までたくし上げ、


「ほらもっと可愛い!」


満足げに言う梨生を睨みつけて千結は「もうっ」とその手を払う。


「だって、先輩とかに目つけられたくない」


 千結はこれだけ可愛いのだ。その持って生まれた容姿だけで注目を集めるだろうから、確かにそれ以上他の要素で目立つのは危険かもしれない。中学校というのは、小学校と違って上下関係が厳しい、と入学前から梨生たちは散々脅されてきている。 

 ――ならば横にいる自分も悪目立ちするべきではない。


「……確かに」


 そう言って梨生は、折り返していたスカートのウェスト部分を戻してスカートの丈を長くした。これは、千結の近くにいる自分が目立ってその結果彼女にまで悪影響が及ぶのを避けるための行為であり。……断じて、姉の脅しに恐れをなしたわけではない。



 春のそわそわするような生暖かい空気を吸いながら中学校まで歩く。

 同じ初登校日にしても、小学二年生のときの不安でいっぱいだった千結はいなくて、現在隣を歩く彼女はむしろ梨生よりも泰然として見える。

 制服に包まれた千結を横目で見て、「ああ、女の子だな」と梨生は思った。

 今朝、鏡の前で制服姿の自分を見て、なかなかお姉さんらしいじゃん、なんて悦に入っていたものだが、それが恥ずかしくなった。ピカピカの制服に自分とは違って、千結はそれを完全にいた。

 眩しい、と思った。

 そして、この子の隣にあたしはふさわしくないな、と初めて思った。


 梨生は学校へ着く前から憂鬱になってしまった。密かに息をいた彼女の横から、静かに千結が口を開く。


「……りおも、制服似合ってるよ」


 そっと窺うように見てくる千結へ、梨生は曖昧に笑い返した。




 小学校のときから特に仲の良かった友人らはほとんど梨生と同じクラスで、千結は一人違うクラスだった。入学して数日もすると、梨生は初めの頃の緊張などあっという間に忘れたし、スカートは目立たない範囲で短くした。千結と一緒のクラスでないのは寂しかったが、新しい子と知り合い、携帯電話の連絡先がどんどん増えるのは単純に楽しかった。


 ある日、学校の廊下を歩く千結の背中を見つけた梨生は、小学生のときよくやっていたように駆け寄って後ろからその肩に勢いよく覆いかぶさろうとしたが、制服を着た大人っぽい千結の後ろ姿を見ると、その行為はいかにも子どもっぽいように思われた。その代わり足早に追いついて、ぱっと千結の腰に手を回した。


「ちーちゃんっ」

「りお」


 一瞬驚いた顔をした千結だったが、梨生の顔を見上げて頬を緩めた。


「ちーちゃん、どこ行くの?」


 登下校は一緒にしているので朝に顔を合わせていたが、校舎内で偶然出会うのは珍しい。小学校の四六時中一緒にいた頃と比べれば、隔世の感だ。


「教室帰る。トイレ行ってた。ねえ、りお……私、もう知らない他人の顔と名前を覚えるの疲れた……」


 うんざりした顔をして、千結も梨生の腰へ腕を回してぐったりともたれかかってくる。


「よしよし、ちーちゃんはよくやっている」


 千結の頭を優しく撫でる。違う小学校出身者ばかりのクラスで、社交的とはいえない千結は疲弊しきっていた。しょんぼりした顔つきのまま、千結は尋ねる。


「りおはもう部活決めた?」


 この学校の生徒は全員なんらかの部活へ所属することになっていた。


「んーあたしはたぶん陸上部かな。ちーちゃんも一緒に陸上部入ろうよ」

「……冗談?」


 自身の運動神経のなさを自覚している千結は死んだ目で訊いてくる。


「物は試しじゃん?」


 にやにやして言う梨生にむっすりとした顔を向け、千結はぼやく。


「運動部入ったら私、部活嫌すぎて学校来なくなるよ絶対」

「えーじゃあ諦める」

「それより、りおが吹奏楽部入ってよ」


 梨生の腰に回した腕を引き寄せ、わずかに甘えを含んだ声音で千結が言う。それがびっくりするほど抗いがたい引力を帯びていたので、梨生はさっと目線を外してつぶやいた。


「んー……あたし体動かしてたいからなあ」

「――それもそうだね」


 ふっと目尻を柔らかくして千結が同意を示す。


 そのとき、向こうから歩いてきた男子がすれ違いざまの一瞬、千結に熱心な視線を投げたのを梨生は見逃さなかった。

 登下校で千結の隣を歩いていれば、学年問わず男子生徒たちは吸い寄せられるようにして千結を見たが、とりわけ今の男子が投げて寄越した一瞥は、男女の機微にも疎い梨生を以ってしてもそこに込められた想いが瞬時に見て取れた。

 ――ああ、人の好意って、こんなにもあからさまに他人に気取けどられてしまうものなんだ。

 梨生はぞっとして、気をつけよう、と咄嗟に思った。

 次いで、「何に?」と思い直して、深く考えないことにした。

 かき消すようにして、「こいつら新参者は美少女のちーちゃんだけ見て、ちーちゃんの教頭の顔真似がどれだけ上手いか知らないんだ。底の浅いファンどもめ。あたしは知っている、あれがどれだけ素晴らしいクオリティかを」と、心の中で誇らしく威張り散らした。

 そして梨生は、ぶっふと噴き出した。


「なに?」


 突然奇妙な音を立てて肩を震わせ出した親友へ、千結は訝しげな目を向ける。息も絶え絶えに梨生は笑いをこらえながら答える。


「ちーちゃんがやる教頭の顔真似思い出してた」

「なに突然」

「ねえやってよ」

「やだよ」

「いいじゃん」

「やだ」


 当然ながらつれない千結の返事に、梨生は「ちぇー」と頭の後ろで手を組んだ。すると、とんとんと肩を叩かれたので千結のほうへ顔を向けたところ、


「ぶぉっほ」


またも梨生は噴き出してしまった。頭の横に手を添え、梨生にだけ見えるようにした千結の顔面は教頭になっていた。


「やば、チビる、ちーちゃんやめて、いきなり」

「……」


 すぐに正面を向いて元の美少女に戻った千結は素知らぬ顔をしているが、ヒーヒー言って肩へもたれかかってくる親友にだけわかる程度に、口元へ笑みを浮かべていた。

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