第27節 -再会の前に-

 時刻は午後2時を回っていた。太陽が徐々に西に傾いてゆく。

 フロリアンは朝食をとった後、あの日と同じようにハンガリー国立歌劇場へと足を運んだり、あの日と同じ場所で昼食をとったりした。

 そうして彼女達と初めて出会った日の事を思い出す。昨夕、マリアが話してくれた事を胸に、あの日彼女がどういう気持ちで過ごしていたのかを自分なりに考えてみたかった。

 これはただの自己満足に過ぎない。こうする事で本当に彼女が考えていたことが分かるわけではない。

 こんな事で彼女の事をわかったつもりになるなど独りよがりの傲慢な考え方だ。それでも、理解したいと思った。


 フロリアンが次に向かったのは聖イシュトヴァーン大聖堂だった。

 ここはハンガリー建国の父、キリスト教の聖人として聖列もされているハンガリー初代国王、聖王イシュトヴァーン一世にちなんで名付けられたバジリカである。

 カトリック教会のバジリカではあるが、絢爛たる大聖堂内の主祭壇にはキリスト像ではなく、彼の像が安置されている。この事からもこの地における聖イシュトヴァーン一世の存在の大きさを窺う事が出来る。

 聖遺物箱に収められた彼の右手のミイラは、十八世紀にトランシルヴァニアで発見され、女帝マリア・テレジアによってこの地に戻され、現在は誰でも見学が出来るようになっている。


 フロリアンは大聖堂の主祭壇や聖遺物箱のミイラなどを一通り見て回った後、三百段以上ある階段を使いドームへと上った。

 ドームの高さは地上から約百メートル。そこからは国会議事堂などを含めてブダペストの美しい街並みを一望する事が出来る。

 先程主祭壇を見た時、フロリアンはマーチャーシュ聖堂を訪れた時のマリアの様子を思い出していた。

 そして今、ブダペストの街を見渡しながら彼女と共にブダ王宮から同じように街並みを眺めたことも思い出す。

 あの時、自身に向けた笑顔の裏で彼女は何を思っていたのだろう。そこには別の本心があったに違いないと今なら分かる。

 強がりなのか、優しさなのか。それとも心苦しさだったのだろうか。

 フロリアンはドーム展望台からしばらくの間ブダペストの景色を眺め、物思いに耽ったが、一通り自身の中で考えを巡らせ終えるとその場から立ち去った。

 上るときは階段を使用したが、戻りはエレベーターを使って降りる。地上階まで降りると、脇目を振る事も無くそのまま大聖堂を後にした。

 約束の時間まではまだある。フロリアンは待ち合わせまでに訪れる最後の場所としてブダ王宮から戻る際にマリアが言っていたドナウ川遊歩道の靴を見に行く事にした。その場所こそ、彼女に会う前にどうしても訪れておきたい場所であった。


 次の目的地へ向かう為に聖堂前の広場を通り抜けようとしたとき、ふと見覚えのある人物が前方に見えた。

 昨日、リュスケの教会前でマリアと会話をしていた人物のように見える。黒のスカプラリオを纏い、十字架を首から下げたあの聖職者だ。

 フロリアンが彼女へ視線を向けると、その様子に気付いた女性はすれ違う直前に声を掛けて来た。

「わたくしに何か?」美しく長い金色の髪に透き通った青い瞳。万物を優しく包み込むような穏やかな表情を浮かべた女性が言う。

「いえ、すみません。以前見かけた方にそっくりだったもので。」

「あら、そうですの?どこかでわたくしとすれ違った事がありまして?」

「それがうまく思い出せなくて。記憶違いかもしれません。」フロリアンは目の前の女性に対する奇妙な感覚を感じてとっさに嘘をついた。

 とても穏やかな表情と優しい目をしているが、なぜか全身の毛が逆立つような感覚を覚えたのだ。

「うふふ、そうでしたか。貴方は観光でここにいらっしゃったのですか?」

「はい。他にも色々な国を巡っています。」

「まぁ、旅をされていらっしゃいますのね。とても素敵ですわ。ここでお会いしたのも何かの縁。よろしければ、これからご一緒に散歩でもいかがでしょう?」穏やかな表情、ゆったりとした口調で語る彼女のその眼差しに見つめられると心まで吸い込まれそうな不思議な気持ちになる。

 しかし、フロリアンは彼女の誘いをきっぱりと断った。

 “惑わされてはならない”

 なぜそう考えたのかは自分でもよく分からないが、本能的に彼女と共に行くのは危険な事のように思えた。

「すみません、約束がありますので遠慮します。」

「そうですか、それは残念。ではわたくしは失礼いたしますわ。貴方の旅路に “我らの” 神の加護がありますように。」女性はそう言うと、祝福を行う時と同じように十字を切った。

「ありがとうございます。では。」フロリアンは一礼すると足早にその場を立ち去った。


                  *


 ロザリアはその場に立ち尽くしたまま、フロリアンの後ろ姿が見えなくなるまでしばらく彼の歩いて行った方向を眺めていた。

「わたくしの “言葉” が届かないだなんて。あの時もそうでしたけれど…あぁ、なんて素敵な彼。過去を見通す目も、未来を視通す目も通じませんのね。そんな特別な彼にあれほどの “特別な想い” を抱かれているなんて。妬いてしまいますわ。マリー。うふふ…」

 先程までの穏やかな微笑みはそこには無い。

 獲物を狩る直前の肉食獣のような狂気を宿した瞳を向け、誰にも聞こえない程度の声でロザリアはそう呟いた。


                  *


 その頃、マリアとアザミは料理教室のレンタルキッチンを借りてお菓子作りをしている最中であった。

「うん。良い焼き上がりだ。」

 マリアがオーブンから取り出したカップケーキは素晴らしい焼き色に仕上がっていた。

「久しぶり過ぎて不安だったけれど、なんとかなるものだね。」ほっとした表情を浮かべながらマリアは言った。

「素敵な焼き上がりですね。良い香り。おひとつ頂いても?」アザミが冗談めかして言う。

「まだ早いよ。これからの仕上げが重要なんだ。でもその前に少し冷まさないと。」マリアは笑顔でアザミを窘める。

「貴女がお料理をするのは確かに久しぶりな気がしますが、全く腕は衰えていませんね。」

「本当、鈍って無くて良かったよ。さて、少し冷ましている間にアイシングの準備をしてしまおう。」

 そう言うとマリアはデコレーション用の砂糖衣であるアイシングの用意を始めた。

 楽しそうにお菓子作りをするマリアを微笑ましく眺めつつ、このお菓子を受け取る事になる彼を思う。


 貴方は特別な人。


 そのお菓子に込められているという意味をマリアが考慮したかは定かではない。しかし、同じ意味を持つマカロンとどちらを作るか悩んでいたところを考えれば間違いない。そういった意味を込めてのものだろう。

 彼女にここまでの事をさせてしまう彼という存在は確かに特別なものだ。アザミはそんな事を考えながら物思いに耽った。


「ねぇ、アザミ。」

 アザミが物思いに耽っているとマリアがふいに尋ねて来た。

「彼はこのお菓子を受け取ってくれると思うかい?」ほんの少しだけ不安そうな表情を見せるマリアにアザミは優しく伝えた。

「えぇ、彼は必ず受け取ります。そういう方でしょう?」

「そうだね。彼はきっとそういう人間だ。」

 納得した様子で少し微笑むマリアの表情を眺めながら、アザミはこの温かな光景が続く事を願ってお菓子作りの様子を見守った。


                 * * *


 イシュトヴァーン大聖堂から歩く事十五分。フロリアンはドナウ川遊歩道の靴に辿り着いた。

 ここはかつての戦争で虐殺された人々を慰霊するために近年設置されたモニュメントである。

 自国の歴史が関与するモニュメント。目の前に広がる六十足の靴を見ると複雑な気持ちになる。

 そしてアシュトホロムでマリアが話してくれたことが頭をよぎった。

 

【ある行いが善なるものか悪なるものかについては見る人の立ち位置によって簡単に変わるが故に、そこには絶対的に明確な基準というものが存在しない。】


「立場によって変わる、か。」

 フロリアンはモニュメントから少し離れたところまで歩くと歩道の端に座りドナウ川の流れを眺めた。目の前をいくつもの遊覧船が行き交う。

 ここから見える景色も、この地で見た景色もとても美しいものだった。

 しかし、この世界におけるこの地が歩んできた歴史はそういった美しいものばかりではない。血で血を洗うような残酷な争いによって積み上げられてきた部分も多い。


 世界において太古の昔から領土の奪い合い、民族同士の争いは絶えたことが無い。

 誰もが平和を享受しているように感じられる現代においても規模の大小はあれ戦争を行っているところは存在する。

 戦争による直接的な死以外にも、それによって住む場所を追われて難民となり間接的に死の淵に立たされる人々も大勢いる。

 限りなく平和に近付いたように見える現代においても、その安寧を享受できない人々の数は限りなく多い。

 そういった側面から見ても戦争などというものは到底容認できるものではない。

 だが皮肉な事に現代における科学技術や生活用品の発展というものを支えてきたのは戦争によるところが大きいのも事実だ。


 コンピュータの歴史は数学者でもあり、哲学者、科学者でもあったチャールズ・バベッジによる解析機関から始まり、その開発は第二次世界大戦を端として急激な速度で発展を遂げた。戦艦から発射される大砲の弾道計算に利用する為だ。

 より良い未来の為に作られようとしていた技術が活用されたのは、人の未来を奪う為の目的であり、それによって結果的に発展してしまうとはなんという皮肉なのか。

 今や誰もが身に着け使用しているスマートデバイスも、前身となる携帯電話の歴史からさらに遡るとその発端は世界大戦における軍の通信目的へと行き当たる。

 通信分野に関していえば、インターネットは教育機関における情報共有の高度化を目的として開発されたが、より大規模な情報ネットワークとして発展を遂げる過程には戦争の歴史が関与してくる。

 科学以外にも、血液の吸収率の高い包帯の開発や携行食品である缶詰の発展だってそうだ。現代では救護用や非常用として欠かせない、誰もが当たり前のように利用しているそれらのものが元を辿れば戦争によって生まれた、或いは戦争があった事で発達を遂げたというのはよくある話だ。

 限界を超えた極限状態においてしか発展し得なかったものの存在を考えたとき、果たしてその起源が善なるものか、悪なるものかを判断する事は難しい。


 フロリアンは “争いを起こさせず、許さず、人々の幸福と安寧と平和の為、そして科学や文化の発展の為に活動する事が出来る場所” というものの存在が有り得るのかを思考した。

 もしそんな場所があるのであればそこで活動したいと考えたからだ。

 今はその場所があるのかについて答えは分からない。しかし、今まで “自分は何になりたいのか、どうしたいのか” といった漠然と心の中で思っていただけの疑問を言語化して考える事が出来るようになった事は収穫だった。

 それもこれも全ては彼女の言葉によるところが大きい。彼女は自分に足りないもの、足りない知識、足りない考え方を与えてくれたのだ。


 しばらくして時計に目をやると時刻は午後3時を回っていた。太陽は西の空へ沈んでいき、日差しの翳りと共に徐々に冷え込みも強く感じられるようになった。

 フロリアンはその場から立ち上がると一度ホテルへと戻る事にした。

 待ち合わせ場所である鎖橋はここからの方が近いが、一度ホテルへ戻り身だしなみなどをしっかり整えたいと思ったからだ。

 せっかくの再会だ。疲れ切った表情で待ち合わせ場所に向かう事は出来ない。

 迫り来る待ち合わせの時間に胸を高揚させながらフロリアンはその場を後にした。


                 * * *


 午後3時を回った頃、お菓子作りを終えたマリアとアザミはホテルへと戻っていた。

「これで準備は万全だね。」満足そうな顔でマリアが言う。

「いいえ、まだまだ準備しなければなりません。」笑顔でアザミが返事をした。

 その返事に不思議そうな表情を浮かべるマリアの頬をアザミは両手で包み微笑みながらこう言った。

「まだ、貴女自身のおめかしが終わっていませんもの。彼に会う前に目一杯のお洒落をしませんと。」

 視線を逸らし、珍しく照れた表情を浮かべるマリアに向けて言葉を追加した。

「今朝、貴女が言った要望は叶えなければなりませんからね。」

 泣き腫らした目で彼に会うのが恥ずかしいという乙女心を説いたのは確かに自分であったとマリアは思い小声で返事をした。

「ありがとう。今日だけは特別だ。とびきり可愛くしておくれ。」

「承知いたしました。」


 その後、マリアはアザミに促されるがままシャワーを浴び、上がった後はすぐにドレッサーに連れて行かれて普段はしないフェイスメイクを軽く施された。

 気分によって極まれにリップを塗ってもらう事は今までもあった。しかし軽くとはいえ、こうした本格的なツールを使用してのメイクは初めてであったし、何よりそれらのツール自体をアザミが所持しているという事すらマリアは初めて知った。

「アザミ、君はこういった知識や道具をどこから得ているんだい?」

「雑誌やネットなど様々なところから貴女に似合いそうなものは逐一。」

「メイクツールも?」

「はい。季節の新色も見逃していません。服飾は日本のゴスロリ雑誌がとても参考になります。近年は欧州が逆輸入してバリエーションも豊かになりましたね。」

「たまに思うのだけれど、君は本当に悪魔なのかい?」

「はい。貴女と契約した貴女の悪魔にございます。」

「俗世間に馴染み過ぎでは?」笑いながら言うマリアにアザミは微笑みを返した。

「マリー。じっとしてくださいませ。少しだけ目を閉じて。」アザミに促されてマリアは目を閉じる。そしてアザミは手際よくアイメイクとリップを施していく。

「目を開けても大丈夫です。出来ましたよ。」

 アザミの言葉で目を開けたマリアは鏡を覗き込む。そこにはいつもより少し大人っぽくなったように見える自身の顔が映っていた。

「とても綺麗です。マリー。」

「ありがとう。アザミ。…彼は気付いてくれるかな?」

 そう返事をしたマリアの表情は国際連盟の機密保安局を預かる局長としての顔ではなく、ただの一人の少女の表情そのものであった。


 遠い過去において彼女が得る事がなかったもの。表に出したことが無いもの。

 それらを最後まで内に抱えたまま、誰にも本心を見せる事の無いままその生涯を閉じるはずであった少女。

 その彼女がここに至ってようやく得ようとしているもの。

 彼との出会いが彼女にとっての千年の奇跡になる事をアザミは祈って返事をした。

「えぇ、きっと。」

「そうだと良いな。しかし、クリスマスバカンスも兼ねてこの地に来たのは間違いないけれど、目的が無くなって以後もこうして自分一人の為だけに行動し続ける事は、立場を考えると我ながら中々に度し難い。それも、異性とデートまがいの行動をしようとしているなどと。」

「また貴女はそのような事を。元々公務で訪れているわけではありませんし、この事を咎める者も無いでしょう。責務を全うする真面目さと勤勉さも貴女の美徳でありましょうが、肉体はともかく精神は人の身である以上、年に一度くらい立場というものを忘れる時間も必要です。それこそ、本部で留守を預かる彼女ですらこの件に関してわたくしたちを咎める事は出来ないでしょう。」

 その言葉にマリアはとても短い呻きを上げ硬直した。

 アザミの言う彼女とは、国際連盟 機密保安局にてマリアとアザミを補佐する役割を担う女性の事だ。

 かれこれ半世紀ほど二人に仕えている老女で、いわばお目付け役のような存在でもある。

 例えるならば世界中で唯一、預言者と神そのものである二人に反撃させる隙すら与えず、正座させたまま説教をする事すら可能な人物だ。

「恐ろしい事を言うね。異性とデートをするなどと彼女に知れたら大スキャンダルだ。特別なひと時の前に冗談はよしてくれ。」

 マリアは彼女の姿を想像し苦笑しながら言う。

 当然、そんな彼女の説教というものが二人に対する “深い愛情” と “義の中にある最高の忠義” から来るものである事は二人とも心から理解している。

 しかし、その説教の長さたるや一度始まると終わりが見えない為、いつ終わらせるかについて毎度随分と苦労させられているのだ。

 アザミは半分冗談めかし、そして半分は真面目な様子でこう言った。

「恐ろしくなどありません。 “彼女ですら咎める事は出来ない” のです。その事についてはわたくしが保証致しましょう。むしろ…」

 そこまで言いかけてアザミは言葉を切った。

「むしろ?」不思議そうな表情でマリアが鏡越しにアザミの顔を見上げる。

「いえ、何でもありません。さあ、次は指先のお洒落をしましょう。」

 アザミは言いかけた言葉を飲み込み、マリアの手を取ってそう言うとネイルを施し始めた。


 むしろ、マリアに訪れた生まれ変わりとも言うべき転機と変化に涙を流すほど喜んでくれるはずだ。


 マリアを心から愛する者同士だからこそ分かる。彼女なら間違いなくそう感じるだろう。

 心の中でアザミはそう思っていた。


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