第25節 -約束-

 同時刻。就寝の準備を終えたマリアはベッドに横たわった。ふわふわの掛布団をアザミにかけてもらう。

「おやすみ、アザミ。」

「おやすみなさいませ。」

 互いを慈しむように就寝前の挨拶を交わし部屋の電気を消す。


 余程疲れていたのだろうか。間もなくマリアの寝息が聞こえ始めた。

 どうか安らかな夢を見られますように。そう願いながら今夜も彼女の傍に座り見守る。

 十分ほど経って、アザミは彼女が深い眠りに就いた事を確認すると手持ちのスマートデバイスからある人物にメッセージを送った。

 送信相手はフロリアンである。話したい事があるので午後11時に彼の宿泊するホテル前で待つという内容だ。

 差し出がましい真似だとは分かっていても、どうしても二人の関係をこのまま終わりにはさせたくなかった。

 この子にはきっと必要なのだ。自分ではない、この世界を生きる “人間” というものが。

 そこにどんな因果があるにせよ、彼女と彼が出会ったことが必然であるのなら彼はきっと応えてくれるだろう。

 そう信じて、約束の時間に約束の場所へ赴く事に決めた。


                 * * *


 どの程度眠ったのだろうか。フロリアンはふと目を覚ました。

 少し離れた場所で自分のスマートデバイスがメッセージの着信を知らせる光を放っている。


 彼女からかもしれない。


 もしかしたらという希望的観測。淡い期待と言葉に尽くせない不安を感じつつも、重たい体をよじりデバイスに腕を伸ばす。

 デバイスを手に取るとすぐにメッセージを確認した。しかし、そこに表示されていたのは期待していたものでは無かった。

「未登録番号…?」

 不思議に思いつつもメッセージを開くと、それは予想外の人物からのメッセージであることがすぐにわかった。送り主はアザミだ。

「午後11時に貴方のホテルの下でお待ちしています…か。」

 伝えたい事があると書いてある。伝えたい話の内容とは彼女の事に違いない。憶測ではあったがそれ以外に考え付く事は無い。

 フロリアンはすぐに時刻を確認する。時計は間もなく午後11時を指そうとしていた。

 時刻を確認したフロリアンは慌てて体を起こし立ち上がる。この機会を逃せば一生後悔するかもしれない。

 頭はまだ覚醒しきっておらず靄がかかったように感じられる。少しふらつきながら部屋を出るとそのまま急いでロビーへと向かった。


 ロビーへ降り急ぎ足で出入り口から外に出る。時刻は午後11時丁度を指し示した。


 頼む、間に合ってくれ。


 心の中でそう祈りながら扉を開くと、そこにアザミの姿があった。すぐ後ろにはもう見慣れてしまった車が駐車してある。

 フロリアンの姿に気付いたアザミは軽く会釈をして言った。

「夜分遅くにお呼び立てして申し訳ありません。どうしても貴方に直接お話したい事があったものですから。」

「間に合ってよかった。」フロリアンは与えられた機会を逃さなかったことに安堵した。

「ありがとうございます。貴方は必ず来てくださると信じていました。」アザミはこの場に来てくれたことへの礼を言う。

「仮に定刻を過ぎて貴方が現れなかったとしても、わたくしはしばらくこの場に留まり貴方の事をお待ちした事でしょう。それほどまでに貴方との話し合いというものが今は大事なのです。」

 フロリアンはアザミの言葉を聞きながらマリアの姿を探すがそこには無かった。アザミ一人で来たようだ。

 そんなフロリアンの様子に気付いたアザミは微笑みを浮かべながら自分一人での来訪である事を伝える。

「申し訳ありませんがわたくし一人でございます。あの子は今部屋でゆっくりと休んでいます。」

「いえ、すみません。」自身に向けて話をしてくれている相手を前に失礼な振る舞いをしてしまったかもしれないと思ったフロリアンはすぐに謝った。

「構いませんよ。あの子の事を心配してくださって感謝しています。外での立ち話という訳にも参りません。車の中へどうぞ。」

 アザミはそう言うとすぐ傍に停車させている車の助手席ドアを開けて乗るよう促す。彼女に促されるままフロリアンは助手席へと乗った。

 アザミも運転席へ乗り込みドアを閉める。

 車に乗車してドアが閉められた瞬間、外で行われているクリスマスイベントの喧騒から隔絶されたような静けさが一瞬で周囲を満たした。

 異世界に入り込んだかのような静寂が二人を包み込む。そんな中、まずはアザミが口を開く。


「さて、お話したい事はたくさんあるのですがまず何から話せば良いものか…」

 そう言うと一呼吸ほど間を置いた。視線を真っすぐ前に向けたまま話を続ける。

「そうですね。最初に誤解の無いようにお伝えしておきたい事は、あの子は貴方に対して怒りや嫌悪などの感情は一切抱いていないという事です。仮にそうした感情があの子の中に今あるとすれば、それらは全て自身に向けられたものであり、その怒りというものは言い換えれば自己嫌悪というものになるでしょう。」

「自己嫌悪、ですか?」

「はい。貴方に対して “もう必要ない” などという辛辣な言葉を放ったのは、これ以上自分と関わる事が貴方にとって良い事ではないと思っているからです。」

「僕はもっと彼女と話したいと思っています。」

「わたくしも貴方とマリアはもっと話をしてみるべきだと思っています。しかし、彼女が自らの意思で貴方を拒もうとしている以上、わたくしからそれを直接促すことも出来ません。」


 フロリアンはアザミの言葉に少し驚いた。昨日から三人で行動を共にしているが、これほど直接的な自分の意見を彼女の口から聞いたのは初めてだったからだ。

 振り返ってみれば、アザミは常にマリアの意向を第一にして行動をしていた。どんな場面、どんな状況であってもマリアが望む事が最大に優先されるべき事柄であるかのように。

 彼女とマリアの関係性が本当はどういったものであるかは知らない。学生と保護者という目で見てきたが、今となってはそれも怪しい。

 普段はスイスの大学に通い、社会科学部で難民問題を中心とした研究をしているという彼女達の話の信憑性も曖昧なものとなった。

 本当の彼女達の関係性というのはまったくもって不明ではあるが、【アザミにとってマリアの事が何よりも大切】という一点についてだけはよく理解できる。

 そんな彼女が “マリアの意向を無視して” 自分の意思で今こうして自分と話をしている。

 遠回しに言えば彼女の意向を無視してまで自分と話がしたかったという事になる。そういえば先程、定刻を過ぎても待ち続ける程にこの話し合いは重要だと言っていた。

 もしかすると、今なら何か答えてくれるかもしれない。そんな希望が見えた気がした。

 フロリアンはそうしたアザミの様子をしっかりと見極めた上で、おそらくこの場でしか聞く事が出来ないであろう事を尋ねてみる事にした。


「アザミさん、僕にはどうしても気になる事があります。失礼だと思って今まで聞きませんでしたが、貴女とマリーは本当は一体何者なんですか?研究の為と偽り、難民狩りの犯人を見つけ出しに行く事を目的にするなんて、とても観光に訪れた一般人のする事ではありません。大学に通う生徒と保護者のする事でもない。ましてや犯人の動向を最初から知っているなんて。」


 アザミはフロリアンの質問に対して一瞬答える事を躊躇ったが、自身が口に出来る範囲で話し始めた。

「そうですね。貴方が今それをわたくしに尋ねる事は自然な事です。聞くとすれば今しかありませんから。貴方がおっしゃる通り、わたくし達は “普通ではありません” 。ただし、あの子が先に言ったように、わたくし達の事について貴方に明確にお答えする事も出来ません。いえ、貴方の為にもそれは決して答えない方が良い。」

 返事を聞いたフロリアンは身構えた。やや遠回しに言っているが、要は【知らない方が身の為だ】という事だ。

 相手が身構えた事を察したのか、アザミは話を補足するように言う。

「ひとつだけお答えできるとすれば、わたくし達は貴方もよく名前を知っている場所に所属しているという事くらいでしょうか。貴方だけでなく、おそらくは世界中の人々誰もが知っている場所です。付け加えるのであれば、わたくしやマリアが難民問題に本気で取り組んでいるという事自体は嘘ではありません。」

 結局のところ何も分からないに等しい答えだったが、後者の言葉を聞いてフロリアンは幾分か気持ちを落ち着ける事が出来た。


 フロリアンがその事に安堵の溜め息を漏らしたとき、今度は間を空けずにアザミがフロリアンに対してある質問をしてきた。

「わたくしからも一つ尋ねてみたいのですが、貴方はマリアの事をどう思っていますか?」

 単純ではあるが決定的な質問だと感じられた。何か裏がある質問なのだろうか。それとも言葉通りの質問なのだろうか。

 一瞬迷ったが、この場において様子を窺うといった言葉選びは機会を台無しにしかねない悪手だろう。フロリアンは素直に自分の思っている事を伝える事にした。

「とても聡明な女性だと思います。物の見方や考え方、価値観の捉え方や豊富な知識…見た目の年齢からは想像できない程の見識を彼女は持っている。本心に偽りなく言えば、僕は昨日初めてマリーと話したときから彼女に惹かれています。それは彼女の外見だけではない、彼女の持つ内面の魅力というものに対してです。言葉だと難しい部分もありますが…」

 そこまで話したとき、フロリアンの脳裏に彼女が放った言葉が蘇る。


【私は君が私に対して憧憬にも近い視線を向けている事にも気付いている。だが、私は決して君が思ってくれているような綺麗な女では無いんだよ。】


 リュスケからブダペストへ戻る際に彼女が言った台詞を思い出して言葉を詰まらせる。フロリアンは一度深く息を吸い直してから話を続けた。

「僕は世界を旅して回る事で、いつか自分が本当になりたいものや為したいと思う事が見つかると思っていました。けれど現実は違った。確かにたくさんの国を旅して様々なものを見る事は出来ましたし、色々な経験も積めました。そして現地でのかけがえのない思い出を作る事も出来ました。でも結局自分が心から探し求めているような答えは見つかりませんでした。この地に来るまで心の中でずっと引っかかっていた事。思考の迷路にはまったように繰り返し考えても答えが出ない自分への問い掛け。その答えが、マリーと話をしていると見つかるような気がしたんです。」

 アザミはフロリアンの話をただ静かに聞いていた。フロリアンはさらに話を続ける。

 もはや彼女の事をどう思うかという質問を飛び越えて、自身の中にある想いを全て語っているに等しい。

「昨日マリーにアシュトホロムへ行ってみないかと誘われた時、とても嬉しかった。普通なら出会ったばかりで素性も分からない人物に簡単について行くのは賢明とは言えない行為だと思います。でも、ほんの少しでも彼女と長く一緒にいられると思った時、その考えはすぐに頭から消えました。彼女ともう少し一緒に過ごす事が出来れば、話す事が出来れば或いは…自身が探し続けた答えに辿り着けるかもしれない。そう思ったんです。彼女は僕を目的の為に利用したと言いましたが、突き詰めて言えばそれは僕も同じだったに違いありません。僕は自分が探し求める答えを見つける為に彼女を利用しようとした。」

 すると【自身も彼女を利用した】という言葉に反応したのか、今まで静かにフロリアンの話を聞いていたアザミが質問をした。

「貴方がマリアと同じというのであれば、貴方は自身の求める答えが見つかれば、あの子の事を “必要なくなった” と言って見捨てるのでしょうか?」

「まさか。そんな事考えられない。今度はその答えについて彼女と語り合ってみたい。彼女なら…マリーならその事について僕とは違った視点から話をしてくれるのではないかと思うからです。」

 アザミの問いに対して、フロリアンは語気を強めながら否定の答えを返した。しかし、その後は肩をすくめながら言った。

「でも、今日の夕方、リュスケから戻るときの話の中で彼女に嫌われてしまったと思っていました。彼女に嫌われてしまう事は…何というか。とても怖い事だと思いました。」


 二人の間に沈黙が訪れる。

 フロリアンから偽りの無い言葉を聞いたアザミは、自身にそんな資格は無い事を承知の上でマリアの心の中にある想いを代弁し始めた。

「いいえ、先にも申し上げましたが、あの子は貴方に対して嫌悪の感情を抱いてはいません。フロリアン、貴方があの子に対してそう思っているのと同じように、あの子もまた貴方に対して同じように思っています。」

「え?それはどういう…」

「きっと、わたくしに今話してくださったことを彼女が聞いたのなら喜んだに違いありません。はっきりと申し上げましょう。マリーは貴方という存在に間違いなく強く惹かれています。貴方という存在をかけがえのないものだと感じ始めている。」

 予想外の返答にフロリアンは言葉を失った。それに構う事無くアザミは話し続ける。

「だからこそ自分の目的の為に利用したという、言わなければそれで済むはずだった事実を隠し通すことも出来なくなった。その点については貴方が夕方の車内で彼女に指摘した通りです。貴方に対して嘘を吐き通す事に彼女の心は耐えられなくなっていた。目的を果たさなければならないという使命と、貴方に対しては誠実でいたいという想いの間で葛藤していたのだと思います。故に、自身に対して向けられる純粋な気持ちを貴方から感じ取るたびに心苦しさを覚えていった。実の所、わたくしも国立歌劇場やマーチャーシュ聖堂でのマリアの異変に気付いていました。そしてその時から、こうした事が起きるのではないかと危惧しておりましたし、実際に現実のものとなりました。彼女が貴方に対してとった行動の内、事実を伝えるという行為は、今からさようならを告げようとする人間に対して取るものでは決してありません。むしろ、これからも関係性を保ちたいと願う相手に対して取るべき行動と言えるでしょう。その事からも、心の奥底で本当はどう思っているのかについてはわたくしにもよく分かります。」


 フロリアンは、夕方にマリアへ言った自身の言葉を思い返していた。

 騙し通すつもりなら、言わずに置けば良かったと。

 今アザミが自身に話してくれている内容というのは、あの時まさに自分自身がマリアに対して感じた事に対する答えである。

 では、なぜそう思っていたにも関わらず彼女は自分を突き放す言動に終始したのだろうか。それが引っかかっていた。

 だが、その疑問は次のアザミの言葉ですぐに解消される事となった。


「ただ、あの子はそのような自分自身の葛藤を【自分勝手なもの】だと結論付けていた節があります。【他人をただの道具として利用する女】である自分が、つい直前までそのように扱っていた本人に対してこれからも一緒に過ごしたいなどという傲慢な願いを抱く事が許されるはずが無い。それは誠実ではないと、そう考えた。それともう一つ。あの子が最も恐れていたのは事実を貴方が知ってしまう事では無く、事実を知った貴方から蔑みの目を向けられ拒絶されてしまう事でした。貴方があの子に嫌われてしまう事を怖いとおっしゃったのと同じように、マリアもまた貴方に嫌われてしまう事を何よりも恐れていました。」

 フロリアンはアザミの話す内容を真剣に聞く。その言葉を聞く中で、ようやく彼女があの時に何を考えていたのか分かったような気がした。

「マリアが事実を話した上で貴方を突き放そうとしたのは、最後の瞬間だけは最大限に誠実であろうとした気持ちと、事実を話す事で貴方の意思によって拒絶されてしまうより先に自らの意思で離れてしまおうと考えた結果という事になります。そうすれば、後に貴方からどのような目を向けられようとも “全て自身の行為が招いた結果” として納得できますから。」

「…それは、とても悲しい事だと思います。僕は彼女に蔑みの目を向ける事もありませんし、拒絶したりもしません。」

「わかっています。ただ、その事がマリアをさらに混乱させたのかもしれません。あの子の中では、一方的に突き放す事で終わりにしようと考えていたはずです。しかし、自身の意図に反して貴方は彼女の身を案じる言葉を発した上に、さらに彼女の真意までも的確に見抜いてしまった。あのように冷静さを欠いて感情的になるあの子の姿を見る事は滅多にありません。正直なところ、わたくしも少しばかり驚かされました。」

 そこまで話し終えると、アザミは言葉を区切った。次に出す言葉を躊躇っているようにも見受けられる。しかし、一呼吸ほどの間を置きフロリアンの方を向くと迷いを振り切ったように話を続けた。

「あの子と貴方の関係がこのような形で終わる事をわたくしは望んでいません。貴方と過ごしているときのあの子は本当に楽しそうでした。わたくしは随分と長い間一緒に過ごしてきましたが、知り合ったばかりの他人とあのように嬉しそうに触れ合うマリアの姿を見たのは初めてです。貴方には彼女の傍にいて欲しい。」

「僕も彼女ともっとたくさんの時間を過ごしたいと思っています。でも、彼女から拒絶されている今の僕が、その為に出来る事はあるのでしょうか。」

「いえ、貴方にしか出来ないのです。これはわたくしからのお願いです。貴方の思う事を彼女にそのまま伝えてください。ただし電話ではなくメッセージで。電話ではきっと無視されてしまいます。貴方の声を聞く事で抑えている感情に歯止めが効かなくなる事を防ぐ為に。しかし、デバイスからのメッセージという形であれば、あの子は必ず全てに目を通すはずです。これはある意味ではわたくしにとっても賭けではあるのですが…」

「分かりました。今夜のうちにメッセージを送っておきます。」

 祈るようにお願いをするアザミを見てフロリアンはすぐに返事をした。

「ありがとうございます。先程、貴方がわたくしに語ってくださったような事をマリーに伝えられたなら、あの子もきっとそれに応えてくれるはずです。」その返事を聞いたアザミは心からの感謝を述べる。

 フロリアンは静かに頷くと共に、彼女の様子を見て不思議に感じていたことを尋ねた。

「アザミさんはなぜ僕にここまで彼女の事を話してくださるのですか?」

「そうですね。この話をした事がマリーに知られたらきっと、わたくしとてしばらく口をきいてもらえないでしょう。ですがそれも覚悟の上です。わたくしは彼女の事を心から愛しています。普段であれば彼女の意思を最優先に、彼女の望む通りにわたくしは行動します。ですが今回ばかりはそれではあの子の為にならないと判断いたしました。貴方という存在があの子にとって本当に必要であると考えたからこそ、こうして直接貴方にお会いして話をさせて頂いた次第です。結果、貴方からマリアに対する本心を聞く事が出来て良かった。」

「僕もお話を聞く事が出来て良かった。このままだと、一生後悔してしまいそうな気がしていました。僕の言葉が届くかは分かりませんが、僕が思っている事を全て伝えるつもりです。」

「よろしくお願いします。ところで、貴方はあとどのくらいこの国へ滞在なさるのですか?」アザミがフロリアンへ残り滞在期間の質問をする。

「年末まで過ごすつもりです。その後はドイツへ帰国します。アザミさん達はまだいらっしゃるのですか?」

「であれば良かった。わたくし達はあと二日程度はここで過ごすつもりです。うまくいけばその間にあの子と再び話し合える時間が持てる事でしょう。では、繰り返しとなりますが、先程の件をくれぐれもよろしくお願いいたします。」

「分かりました。では僕はこれで失礼します。おやすみなさい。」

「おやすみなさい。」

 フロリアンは車から降りると深々と礼をしてホテルへと戻った。

 その様子を確認したアザミはマリアの眠るホテルへと向け車を発進させた。


 ホテルへ戻る途中の車内で物思いに耽る。

 千載一遇のこの機会を逃せば、きっとマリアは生涯に渡ってこの事を心に引きずりながら悔やむことになる。

 アザミはそう思っていた。彼が彼女にどんなメッセージを送るかは分からない。しかし、それが彼女の決断を覆す決定的な一手になるはずだ。

 自身の手によって千年前と同じ事を繰り返してはならない。

 この賭けに成功する事だけが今の自分にとっての願いとなった。


                 * * *


 フロリアンは急いでホテルの自室に戻ると先程アザミから言われた通りにマリアにメッセージを送る事にした。

 自分の素直な気持ちを送ってほしいと言われたが、いざ文章を入力しようと思うと考えがまとまらなくなる。

「マリーに伝えたい事。素直な自分の気持ち。」

 ふと声に出して呟いてみる。

「伝えたい事が多すぎる。」

 自分にとって彼女との出会いが自分にとってどれほど奇跡的なものだったか。昨日から今日にかけての二日間がどれだけ幸せな時間であったか。

 それら全てを書き連ねれば短編の読み物になりそうな勢いだ。


 しばらく悩みながら試行錯誤したが、一文を入力しては消しての繰り返しだった。

 フロリアンは彼女に伝えたい気持ちを整理する為に、自室に備え付けられているコーヒーメーカーでコーヒーを淹れた。

 カフェインを摂る事で頭にかかる靄が少しは晴れるかもしれない。

 そして夕食として購入して食べないままになっていたパンを齧る。

 コーヒーを飲みながら、パンを食べているとふと今朝の事を思い出した。

 セーチェーニ鎖橋での待ち合わせまでの間、彼女の事を考えて心を躍らせていた時間の事だ。


「そうだな。素直に、思っている事を…これしかない。」


 スマートデバイスを手に取るとおよそ三行ほどのメッセージを入力した。

 送信ボタンを押す手が僅かに震える。少しの間指先を宙で迷わせたが、意を決してボタンを押しメッセージを送信した。

 デバイスはすぐに相手にメッセージが到達したことを告げる。

 明日、彼女から何か連絡は来るだろうか。それともこのまま何も無く終わってしまうのだろうか。

 これで自分に出来る事はもう待つ事しかない。一度深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出す。全ては明日の事だ。

 コーヒーとパンによる遅い夕食を終わらせスマートデバイスを枕元へ置くと、フロリアンはもう一度ベッドへ潜り目を閉じた。


                 * * *


 アザミはベッドで眠るマリアの隣に佇み星空を眺めていた。その時、彼と話しをする為に用意して送った “自身の影” が戻ってきた。

 片時とは言えど、彼女の傍を離れる事はしない。しかし、大事な事を彼に伝えなければならなかった為、自身の力を使って自身の分身体である影を彼の元へ向かわせたのだ。

 影は本体である自分の意思を通じて会話をしていた為、それが仮初の体だという事を除けば、自分自身が直接あの場で彼と話したに等しい。


 戻ってきた影は溶け落ちるように形を崩すと、本体であるアザミへと取り込まれていった。深い眠りに就くマリアは目を覚ます事も無く、当然その様子に気付く事は無い。

 フロリアンと二人だけで話をして聞く事が出来た素直な気持ちというのは何よりの収穫だった。

 彼ならばきっと目の前で眠るこの少女が一番求めている言葉を自らの意思で思い付き伝えてくれるだろう。そう信じていた。

 アザミが星空からベッドで眠る彼女へ視線を移したとき、すぐ近くで彼女のスマートデバイスがメッセージの着信を知らせる光を発した。

 送信者は彼だ。しっかりと約束を守ってくれたらしい。

 あとは明日、マリアがメッセージを読んでどう行動するか次第だ。

 自分も出来る限り、二人がもう一度話をするように働きかけてみるつもりではあるが、自分の働きかけでは到底及ばないだろう。やはり重要なのは彼自身の言葉だ。


 アザミはマリアへと目を向け見つめた。この少女と初めて出会った時の事を今でも思い出す。

 必要の無いものだと言われ、災厄を招くものだと遠ざけられてきた自分自身と彼女の境遇は似ている。それがどれほどの心の痛みをもたらすのかも。

 そして彼女に向けた視線を再び窓の外に向けようとしたその時、彼女の目から涙が零れ落ちるのを見た。

 夢を見ているのだろうか。いつもと同じ夢を。

 終わる事の無い夢。繰り返される悪夢。永遠の命を持つという事は、この消える事のない苦しみを永遠に受け続けるという事と同義でもある。

 彼女の夢に関しては自分の力ではどうすることも出来ない。しかし、彼ならば或いは…

 願わくば、それが悪夢の迷宮を抜け出すためのきっかけとならん事を。

 アザミは彼女の流した涙を見てそう思いながら、再び視線を星空へと向けた。


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