第20節 -青き瞳の聖職者-

 午後2時前。男は朝と変わらぬ場所で身を潜めている。

 車でこの地を訪れるのであれば通り抜けであろう地点は数限られる。

 特に国境付近に厳重な警備体制が敷かれている今、通行が許される道路はかなり絞られてくる。その中にあって車でこの地を訪れ、通り抜けるポイントといえば必然的に一か所に絞り込まれるという計算だ。

 この場所は国境線からは幾分か離れているという事情もあり警備の手も薄い。

 今朝から監視ドローンが数機、周囲を警戒パトロールしている程度だ。そんな木偶の坊を走らせたところで自分を見つける事など出来はしないというのに。

 男はこの場所で動く事なく、ただひたすらに待ち続けていた。

 今この地を訪れる車は少ない為、目を凝らさなくてもあの目立つ車体なら見逃すことも無いだろう。


 西の空に太陽は傾く。この季節の日暮れは早い。

 来るならもう間もなくだ。男の直感はそう告げていた。

 そして男が頭の中で獲物を狩る瞬間のイメージを膨らませていたその時、見覚えのある車がこちらに向かって走ってくる様子が見えた。

「賭けに勝ったという奴か。俺にもツキが向いてきたな。」

 そう呟くと逸る気持ちを抑えながら車の行き先をじっと見つめた。


                 * * *


 時刻は午後2時を指している。目的地に向かう車は少しずつ速度を緩め始めていた。

 窓の外には道路沿いにある木々の隙間から田園風景ではない街並み、建物が見えるようになってきた。

 そろそろリュスケに到着だろうか。フロリアンがそう思った時、アザミが言った。

「お待たせしました。もうすぐ到着します。」

「少し市街地に寄り道しよう。その町の空気を感じてみるのも良い経験だ。」

「承知しました。」マリアの提案にアザミが返事をする。


 高速道路を降りた車は市街地へ向かって走る。左右には既に見慣れた田園風景が広がっている。

 走る事数分。ぽつぽつと住宅が見え始め、さらに奥に進んでいくと住宅街への入り口となる曲がり角が姿を現した。

 車はその入口へ向けてゆっくりと走っていく。ブダペストの華やかな街並みとは違った閑静な住宅街が目の前に広がりつつある。


 三人の乗る車が市街地へと入り、道路をゆっくりと進んでいく。先程までの田園風景は完全に消え去り、道路の両脇には民家が立ち並ぶ。

 普通の民家と同じような建物の外壁にアルコール飲料のポスターが掲示されている場所はパブだろうか。その先にはピザ屋のような看板が設置された飲食店も見受けられる。

「とても静かだね。」フロリアンがリュスケの町の第一印象を言う。

「のどかでごく普通の、ありふれた町だ。」マリアが返事をした。

 さらに町中へと進むと、ごく最近建てられたように見える住宅の姿も見え始めた。散歩中の人や、買い物帰りと見られる町に住む人々の姿も見られ、知り合い同士で道端に集まり楽しそうに談笑している。

 彼女の言う通り、ここはごく普通のありふれた町だ。

 そして、とある小さなスーパーを通り過ぎた辺りでマリアは言った。

「あの辺りに車を停めさせてもらおう。」

 すぐ近くには駐車場があった。マリアの言葉通り、アザミは付近の駐車場に車を停める。

 すぐ傍にある建物は町の図書館だろうか。その隣には学校らしき建物もある。

「長い時間お疲れ様でした。」

「ありがとうアザミ。良いドライブだったよ。」

「ありがとうございます。」マリアに続けてフロリアンも礼を言うとアザミは振り向きながら軽く会釈をした。


 三人はシートベルトを緩めると早速車外へと降りた。夕暮れに傾く太陽の日差しが上空から街を照らす。

「外の空気は新鮮だね。」マリアはそう言うと大きく背伸びをした。

 首都の空気感とは違った新鮮さが確かにそこにはあった。

 車の通行量の違いからだろうか。静かな住宅街の空気は都会の空気よりも落ち着き、澄んだ印象だ。

 フロリアンは冷たい空気を肺一杯に吸い込み深呼吸をした。

 長い時間座っていたが実際の所あまり疲れは感じていない。これだけ長時間乗っていてもあまり疲れていないと感じられるのは車の性能のおかげだろうか。

 アザミの運転がとても冷静で、不安を感じさせなかったというのもあるだろう。加えて、やはりマリアが自身に対して気遣いをしてくれた事による精神的な安らぎが大きいのだと感じていた。

「すごく落ち着いた町だね。マリーの言う通り、ここの空気はとても新鮮だ。」

「華やかな首都の景色も素晴らしいけど、こういった落ち着きのある町並みも私は好きだ。」

「そういえば、マリー達の住んでいるところはどんなところなの?」

「単純に言えば都会だよ。大勢の人がいて賑やかで、世界中からたくさんの人が集まってくる。実の所は君の祖国のお隣でね。今はスイスに住んでいる。」フロリアンは具体的な場所を聞くつもりがなかったので曖昧な質問にしたのだが、マリアはしっかりと答えてくれた。


 フロリアンの祖国であるドイツの南方に位置し、永世中立国として名高いスイスは金融、医療、交通を始めとしたあらゆる分野が発達した国家であり、国際機関の本部なども多数置かれている事で有名だ。

 チューリッヒ、ジュネーヴ、ローザンヌなど国際的に有名な都市をいくつも抱えている。

 マリアが多数の国の言語を流暢に使い分ける様子を何度か目にしたが、公用語がドイツ、フランス、イタリア、ロマンス語と定められるスイスで生活していると聞くとそれも納得できる。

 彼女は英語はもちろん、レストランでは簡単なハンガリー語を使っている場面もあった。


「君の暮らしているところはどんなところなんだい?」今度はマリアがフロリアンに質問をする。

「観光客が多く訪れたりして賑やかなところだよ。学生が多いかな。あとはカフェやパブと、それと自転車がとても多い。ミュンスターというところなんだけど。」

「おぉ、前にヴェストファーレン美術館に行ったことがあるよ。復興された建物も美しくてとても良い街だった。」マリアが自身の故郷を訪れた事があると聞いてフロリアンは嬉しくなった。

「美術館でマリーはシャガールやエルンストの絵画を熱心に眺めていましたね。」美術館に訪れた時の様子をアザミが懐かしそうに言う。

「とても良い絵画だっただろう?幻想的で、繊細な描き込みが多くてさ。シャガールのヴァイオリン弾きなどは最高だよ。」

「あれはわたくしの目には少しホラーにも映りましたが。」

「そこを含めて良いところなんじゃないか。見ただけで何か訴えかける力を持つ芸術というのは素晴らしい。機会があればまた見に行きたいと思ってるよ。」

 思い出を話す二人の様子をフロリアンは目を細めながら眺める。

「さて、では少し歩こうか。少し戻ったところにパン屋さんが見えたんだ。おやつを買いに行こう。きっと美味しい菓子パンに出会えるんじゃないかな。」期待を込めた表情でマリアが言う。

 その台詞にフロリアンは少しばかり驚いた。

 お昼を食べてからまだ三時間も経過していないはずだが、少し早めのおやつということなのだろうか。彼女は本当によく食べる。

 三人が揃って歩き出すと、マリアの言う通り百メートルも離れていない場所にパン屋があった。

 早速店内へと入ってみる。するとそこには焼き立てパンの美味しそうな香りが広がっていた。


「こんにちは。」

 とても気さくそうな雰囲気の男性が笑顔で三人の入店を出迎えてくれた。

「こんにちは。」

「おや、可愛らしいお客さんだね。この辺りの人ではないようだけど、観光か何かかい?」

 マリアが笑顔で挨拶をすると、店主と思われるその男性は珍しい来客だという表情で返事をした。

「はい、観光と調べ物でハンガリーに来ています。」

「観光と調べ物か。この辺りで見るものと言えば、牧場にでも行くのかい?どちらにしてもこの町に外から君達のようなお客さんが来てくれるのは珍しいから嬉しいね。ささ、好きなパンを選んでおくれ。」

「アルマーシュレーテシュをください。」何も迷う事無くマリアは注文をした。

「良いよ。ちょうど出来あがったものがあるからそれを包んであげよう。三つで良いかな?」

 マリアが二人に目配せするとアザミとフロリアンも頷く。

 アルマーシュレーテシュは生地でリンゴを巻いたお菓子の事を指す。

 またの名をアプフェルシュトゥルーデルと言い、とても薄く伸ばしたシュトゥルーデル生地と呼ばれる生地のパイのような食感と、中に包んだ甘いリンゴの味を楽しむ事が出来るオーストリアを代表するお菓子だ。

 このお菓子の起源にはハンガリー人がトルコのお菓子生地を使用して作ったという説があり、ハンガリーの地でも人々に愛され親しまれている。

「はい、どうぞ。」支払いを済ませたマリアが男性からパンの入った袋を受け取る。その中からは出来立てのパンの香ばしい匂いが漂っている。

「ありがとう。良い香りだ。…あれ?ひとつ多いようだけど。」中を確認したマリアが不思議そうな表情で男性へ視線を送る。

 袋の中には注文したパンともうひとつ別のパンが入っていた。

「うち特製のジャム入りのファーンクだ。お嬢ちゃんが甘いもの好きそうだからね。さっきそれを目で追ってただろ?ここまでわざわざ来てくれたサービスだよ。」

 ファーンクはジャム入りのドーナツだ。当然甘いもの好きのマリアにはたまらない一品であり、男性の言う通り先程からずっと目で追っていたパンでもあった。

「美味しそう!ありがとうございます。」目を輝かせながらマリアが礼を言う。

「良いんだ。喜んでくれたらこっちも嬉しいよ。良い旅を。」

 礼を言って店を出ようとしたとき、男性が思い立ったように三人を呼び止めた。

「そうだ。調べ物と言っていたが、今は国境付近には近付かない方が良い。ニュースを見てれば知っていると思うが物騒だからね。少し近付くだけで警備ドローンが寄ってくるぞ。いや、そもそも近付けないか。とにかく用心に越したことはない。」

「ご忠告ありがとうございます。」アザミが礼を言う。手を振る男性にマリアが笑顔で手を振って三人は店を後にした。


 パン屋を出て三人は再び車の方まで歩いて戻る。マリアは嬉しそうな表情を浮かべて先程購入したパンを大事そうに抱えながら歩いている。

 そして車まで戻ると、少し先の教会から複数の修道女が出てくる姿が見えた。その姿を見たマリアは思い立ったように二人に言った。

「すまない、先に車の中で待っていてくれないか?彼女と少し話をしてくる。冷めない内に戻るよ。」

 そう言ってパンの袋をアザミに預けると、そちらへ向かって歩き始めた。

「パンが冷めてしまいます。あの子の言う通り車内で待ちましょう。外はとても冷えますから。」

 アザミの言葉にフロリアンは頷き二人は先に車へと乗り込んだ。

 車に乗り込んだ後でフロリアンはアザミに尋ねる。

「彼女達とマリアは知り合いなんですか?」

「あの中心にいる人物、彼女がマリーの “幼い頃からの” 知り合いですね。こんなところで出会うなんて奇跡のような出来事ですが。彼女は普段ヴァチカンにいるはずですから。」

 アザミの返答を聞いたフロリアンは何か心に引っかかるものを感じ、マリアと彼女が会話をする方向を眺めた。


                 * * *


「やぁ、こんなところで会うなんて奇跡のようじゃないか。君が今日という日にヴァチカンから離れて大丈夫なのかい?ロザリー。」

「あら、どなたかと思えばマリーではありませんの。お久しぶりですわね。」

 数人の修道女に囲まれるようにその少女は立っている。輪の中心に立つ少女がマリアの知り合いだ。名をロザリアという。

 ロザリアは他の修道女たちから離れると一人でマリアの方へ近付く。周囲の修道女達は一言も言葉を発することなく輪から離れるロザリアに礼をしながら見送った。

 修道服を纏い、スカプラリオを身に着けベールを被り、胸元には十字架が光る。

 ロザリアの見た目は十代後半の少女だが、どちらかというと大人びた女性といった印象だ。

 美しい顔立ち、そして万物を癒すような優しい眼差しを湛えた目に宿る透き通るような青い瞳。服装や見た目だけではなく淑やかな立ち居振る舞いが上品さを感じさせる。

 他の修道女達とは違い、その長く美しく滑らかで真っすぐな金色の髪を修道服で全て包み込むという事はしていない。

「久しぶりだね。変わりないようで何よりだ。」不敵な笑みを浮かべながらマリアが言う。

「貴女こそ、本当に何も変わりませんのね。」

「それは君だって同じだろうに。私が最後に会ったときから何も変わってないように見えるけど。あれはいつの事だったかな。」マリアの返事を聞いたロザリアは話を逸らす。

「ところで、貴女こそこんなところで何をなさっているのですか?貴方の立場を考えるならば、教会を訪れたわたくし以上にここにいる理由がわかりませんけれど。」

「ちょっと野暮用でね。君に話すほどの事では無いよ。強いて言えばクリスマスバカンスと言うものだ。良い休暇は良い仕事に繋がるからね。」

「まぁ、あのように素敵な殿方を連れて歩くクリスマスバカンスだなんて。貴女にもついにロマンスが訪れましたの?祝福でも致しましょうか?」


 マリアをもってしてもこの人物の言動が本気なのか天然なのか、或いは挑発的な嫌がらせをしているのかは掴みとる事は出来ない。

 それにしても、つい先程はマリア達の事に気付いていなかったという振りをしていたが、どうやら声を掛ける前から存在には気付いていたようだ。

 そうした所を鑑みると、とても天然で言っているとは思えない。

「いや、祝福は結構だよ。君達の神は異端だと言って私を嫌うだろうからね。」心底嫌そうな顔をしてマリアは答えた。

「それは貴女が神を愛していらっしゃらないからでしょう?」ロザリアは微笑みながら諭すように言う。それに対して完璧な無視を決め込んだマリアは話を続けた。

「彼とはこの国に来て偶然出会ったんだよ。通りの曲がり角で私が派手にぶつかってしまってね。そのお詫びに一緒に食事に行った後からずっと行動を共にしているんだ。」

「あら、貴女が他人とぶつかった?それはそれは…また珍しい事があるものですわね。何より、貴女が他人を食事に誘うだなんて。彼はそれほどまでに素敵な魅力を持った殿方なのでしょうか?わたくしも一度お話をしてみたいものですわ。」

「ぶつかった時は正直私も驚いたよ。あんなに驚いたのはいつぶりだろうね。」マリアはばつの悪そうな顔をしながら答えた。そして後半の話についてはまたもや無視を決め込んだ。

「ふふふ、可笑しなこともありますのね。」その様子を見てロザリアが無邪気な表情で笑う。

「ところでロザリー。君に一つ頼みがあるのだけれど、聞いてくれるかい?」

「頼み事?お願いですか?貴女がわたくしに?これはこれは珍しい事が重なるもの…もしかすると雪が降るかもしれませんわね。」

「君も誰かさんと同じ事を言うのだね。この季節に雪は珍しくないのでは?いや、それはいい。ロザリー、機密文書館への立ち入りを許可してもらいたい。」

「まぁ、彼の叡智が集う神秘の文書館に?何か調べ物でしょうか?」

「大西洋に浮かぶ何人も寄せ付けない不思議な無人島について調べようと思ってね。」マリアの言葉を聞いたロザリアの表情が少し険しくなる。

 いや、穏やかな表情はそのままだが、彼女の瞳からは先程まで存在した万物を包み込むような優しさは消え去り、反対に明らかな敵意を宿した冷たさが放たれている。

「貴女が?あの島を調べるとはまた可笑しな事を。その最期に至るまで、既に十分過ぎるほど存じている事をどうして調べるというのですか?」

「私が知っているだけでは意味が無いからだ。それを人に伝える為の資料と証明が必要なのさ。」

「そうですか。では所定の手続き用紙にて申請をしてくださいませ。いつか立入る事が出来るかもしれません。」ロザリアはまるで興味なさそうな様子で事務的に答える。

「…その言い様だと、生きている内に調べられるのかな?」

「ご冗談を。貴女の命が尽きる事など未来永劫無いでしょうに。」

「私ではなく、私が伝えたいと思っている相手が、だよ。」

 マリアの返事を聞いたロザリアは不敵な笑みを湛えながら答える

「まぁ。それは大変。許可が早く下りる事を祈っていてくださいまし。」

 片手を頬に当てながらそう答えるロザリアを見てマリアは白々しいと感じた。


 ヴァチカンにある機密文書館は歴史に関する貴重な資料が数多く所蔵されている。

 この建物への入館は例えどんな立場にあるものであっても特別な事情が無ければ基本的に認められることは無く、国家の元首、王家の人間、世界的に有名な人物なども含めてただのひとつたりとも例外は無い。

 公式な申請をした上で特別な許可が下りた時に初めて入館が認められる。

 そしてロザリアはその申請を許可できる立場にいる人物だ。世界広しと言えどこの権利を持つ者はただ二人。つまり彼女と、教会における最高指導者である教皇のみである。

 教皇への直接的な書簡による申請などは原則認められていない事を鑑みれば、実質的に全て彼女の匙加減次第と言える。

 彼女が認めるかどうかが全てなのだ。

 その事を知っている相手から乞われた上で “許可が下りる事を祈れ” という返事はもはやある種の挑発にも近い。

 言い換えれば彼女の言葉は “跪いて希え” と言うのと同義であった。


「祈りね。君たちの神にでも祈れば良いのかい?」マリアは彼女が自身にそうしたように、半ば挑発的な態度でロザリアに返事をする。

「その気は無いのでしょう?マリー。でも貴女が真に神を愛する心を持って祈れば或いは。」

「あはは、先程も言っただろう?君達の神は絶対に私を認めない。そして、私が愛する神はただ一柱のみ。後にも先にもその神以外を敬愛する事は無い。それでも申請書だけは送っておこう。規則や手順だというのならそうするしかない。それでは私は失礼するよ。美味しいパンと “私の神” が私の帰りを待っているからね。」

「それは羨ましいですわね。では、 “その悪魔” さんにもよろしくね?」不遜な笑みを浮かべながらロザリアは呟いた。

 その瞳はおよそ聖職者には似合わない狂気を宿しているように見える。深海の冷たさと重圧を感じさせるような何処までも深く冷徹な青い眼差しだ。

「あぁ、伝えておこう。それと、君が連れているあのつまらない人形たちにもよろしく伝えておいてくれ給え。」

 マリアは仄暗い暗闇を宿した赤い瞳を向けてロザリアにそう言うと振り返り、車の方へと歩いて行った。


「ふふ、気付いていたのですね。今度はうまく出来ていると思ったのですけれど…はぁ、やはり作り直しかしら?」

 マリアの後ろ姿を見送りながらロザリアは小声で呟くと、自身も後ろへ振り返り元の場所に歩いて行った。

 そこには先程から礼をしたまま一ミリたりとも微動だにしていない修道女たちの姿があった。


                 * * *


「ごめん、待たせたね。」マリアは車に戻り後部座席へと乗り込んだ。

「おかえりなさい。」アザミはそう言うとパンの袋をマリアに手渡した。アザミの姿を見たマリアの表情は一層和らぐ。

「良い香りだ。早速食べてしまおう。まだ冷えてないかな?」

「えぇ、まだまだ温かいですよ。せっかくなので紅茶も淹れておきました。」

 後部座席には淹れたての紅茶が二人分ほど用意してあった。


 フロリアンはアザミがタイミングを見計らって紅茶を用意する様子を最初から眺めていたが、まさか本当に車内で紅茶を淹れるとは思っていなかったので驚いた。

 常に思う事ではあるが、その手際の良さからするとやはり慣れたものなのだろう。


「それは重畳。さすがアザミ、気が利くね。パン屋のおじさんにせっかく出来立てをもらったのだからじっくり味わわないと。」

 満面の笑顔で袋を開けてパンを取り出す。そしてフロリアンとアザミにもアルマーシュレーテシュを手渡す。

「ありがとう。」フロリアンはマリアに礼を言う。

「冷めない内に一緒に食べよう。」そしてマリアはパンを一口程頬張り、とても幸せそうな表情を浮かべる。

 その様子を横目にフロリアンも一口食べる。サクサクした生地の食感とリンゴの甘味と酸味が絶妙なバランスでとても美味しい。風味付けにラム酒が使われているのだろうか。とても香りが良い。

 アルマーシュレーテシュはアプフェルシュトゥルーデルの呼び名でドイツでも広く親しまれるお菓子だ。もちろんフロリアンも幼い頃から何度も食べて来た。

 しかし、今食べているそれは今までの人生で食べて来た中でも “二番目” に美味しいと思えるほどの味わいだった。

 異国の地でこれほど美味しいシュトゥルーデルに出会えるのは驚きだ。ちなみに一番は当然 “母親の焼いたアプフェルシュトゥルーデル” である。


「今日の茶葉はニルギリだね。優しくて良い味わいだ。」紅茶を一口飲んだマリアが言う。それに対してアザミが返事をする。

「はい。ルフナと迷ったのですが、今日は癖の少ないこちらの茶葉の方が良いかと。」

「飲んだだけで分かるのかい?」フロリアンは一口飲んだだけで茶葉を言い当てたマリアに驚いた。

「半分勘だよ。ここで飲む時に限っては慣れてるからよく分かるんだけどね。」そう言うとマリアは再びパンを食べ始める。


 フロリアンは紅茶を一口飲む。確かにすっきりしたまろやかな味わいだ。癖が無く優しいという表現がぴったりだと感じられる。そしてまた一口パンを食べる。最高の組み合わせだ。食べる手が止まらなくなる。

 昼食をとってからそれほど間が空いていなかったはずだが、パンと紅茶をあっという間に完食してしまった。

 食べ終わった後になって思った事ではあるが、マリアはこのメニューの選び方においても、もしかすると自分に気を使ってくれたのかもしれない。

 あまりに自然に注文をしていたので何とも思わなかったが、自分が祖国で食べ慣れているであろうものと理解した上で迷いなく選んだ可能性は大いにある。

 都合の良い解釈だろうか。それでも構わない。フロリアンは心の中でマリアに感謝をした。


「美味しかったね。作りたてのパンの味はやっぱり格別だ。」満足そうな笑みを浮かべるマリア。

 フロリアンも同意見だった。内心で彼女の言葉に強く頷く。そして、気になるこの後の事について詳しく尋ねてみることにした。

「ところでマリー?今からどうするの?」

「移動の疲れも取った事だし、目的地に向かうとしよう。」

「目的地?」

「来た道を戻る事になる。この市街地に来るために大通りから曲がった道があるだろう?実はあの道の先には公園があってね。私達が国境付近に近付ける限界地点だ。そこに向かうよ。本気で国境を越える気が無ければ、それ以上国境側へは近付けない。」

「さっきパン屋のおじさんが言ってた監視ドローン?」

「それもあるけどね。実際の問題はその場所を過ぎると止まる場所が無いという事だ。」

「なるほど。国境を越えるまで一直線になってしまうんだ。」

「その通り。だから現状はその公園が実質的に国境へ近付く事が出来る限界地点というわけさ。国境線からは一から二キロメートルほど離れた位置だよ。」

 それでも十分に国境に近いと言えよう。フロリアンはそう感じた。

「私達が店を出ようとしたときに、彼が忠告した時の目は真剣そのものだった。それがどういう意味なのか、行ってみたら肌で感じられると思うよ。」

「忠告に逆らう事になるね。」

「申し訳ないけれど、最初からそのつもりで来たんだ。このまま帰ったりはしないさ。」

 マリアの表情も真剣そのものだった。

「さぁ、日が暮れる前に向かおう。」

 時刻は午後2時半を回ったところだ。あと1時間程度で日没になる。マリアの掛け声でアザミは車の向きを変え、目的の公園へ向け走り出した。


 太陽は西へ向かって傾いている。日暮れに伴い、少しずつ外気も冷え込んでいるように感じられた。

 今から訪れる場所で体感するものとはどんなものだろうか。昨日のアシュトホロムとはまた違ったものになるのだろうか。

 フロリアンは様々な事を頭にイメージしながら考えを巡らせた。


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