第4話 ここにサイン

「お~! けっこう広い!」


 小瀬水さんはダイニングの中央で両腕を広げ、くるりと回った。


「というかなんもないね」


 ダイニングテーブルとイス、床に引かれた二畳ほどのカーペット以外にはほぼなにもなかった。


「堅実だからな」

「ここまでくるとせせこましいって感じ」

「せせ……」


 あまりに的確なレッテルに俺は絶句した。


「有永くんのあだ名、今日から『せせこまし』ね」

「すけこましみたいに言うな」

「女の子を買ったんだから、すけこましも正解じゃない?」

「う……」


 小瀬水さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、


「こっちは?」


 と、寝室の引き戸を開ける。


「うわっ、ベッドだけ。え、じゃあこっちは?」


 洋室の引き戸を開ける。


「机と本棚だけ……。うわあ……」


 あまりのせせこましぶりに、もう言葉もないといった様子だった。


「完全に2DKを持て余してるじゃん」


 一人暮らしには広すぎるこの部屋は、父さんが「友だちを呼んだりするかもしれないだろ」とごり押しで契約した。おそらく、俺が家を出ていかざるを得なくなったことに責任を感じていたのだと思う。


 しかしまさか、初めて家に上げるのが友だちではなく三万四千円で買った女の子になるとは父さんも予想もしなかったことだろう。


「どんな本を読んでるのかな、と」


 小瀬水さんは本棚の前に立ち、上からジグザグに視線を移動させた。そして、ちょっと顔をしかめて言う。


「ホラー好きなの?」

「いや……」


 とくに好きなジャンルはなく、読む本はフィーリングで決めてきたつもりだが、言われてみるとホラーに片寄っているしれない。ホラーを読むとき俺は怪異側に感情移入している。社会的なヒエラルキーやステータスの高い人間がひどい目に遭うと胸がすっとする。


 しかしそんな理由を話そうものならドン引きされること必至なので、俺は「まあ」と曖昧に返事をした。


「あれ? スケッチブックじゃん」


 と、小瀬水さんは一番下の段の端に差しこんであった黄色と黒のスケッチブックを指で引きだした。


「あ、それは……」

「絵、描くの?」

「いや……」


 返事に困っている俺を見て、彼女はスケッチブックをもとにもどした。


「ま、いいや。それより、シャワー使わせてもらっていい?」

「あ、うん。全然遠慮しなくていいから」

「じゃあ遠慮なく」


 そのあとの小瀬水さんは本当に遠慮がなかった。シャワーを浴び、冷蔵庫を開けてスポーツドリンクを飲んだ。洗面所で化粧水をつけ、髪を乾かし、歯をみがき、そして大きなあくびと伸びをしてベッドに倒れこんだ。


 勝手知ったる我が家のような振る舞い。


「ん~……。ベッドはビジネスホテルのやつのほうがいい感じだったかな~」


 ――やかましいわ。


 良く言えば大らか、悪く言えば傍若無人。でもそれがいかにも小瀬水さんらしくてちょっと笑えてしまう。


 ――さて。


「じゃあ、おやすみ」

「待って」


 部屋を出ようとすると小瀬水さんに呼びとめられた。


「どこ行くの?」

「隣の部屋に毛布があるから、そこで寝る」

「どうして?」


 ――『どうして』?


 質問の意図が分からない。


 小瀬水さんは横向きになって頬杖をついた。そして空いたスペースを指先で撫でる。


「ここで寝ればいいのに」

「……は? な、なに言って――」

「だって、わたしたち恋人でしょ?」


 シャツの襟元から覗く豊かな谷間、ショートパンツから伸びたすらりとしているのにどこか肉感的な脚、そして口元に浮かぶ挑発的な微笑み。


「どうしたの? いいよ」


 ささやくような声に、背中がぞくぞくとする。


 鈍い俺でも分かる。小瀬水さんがでその言葉を発したのは。


 小瀬水さんは心変わりしたわけではなかった。


『なんだかんだ言って君もそういうつもりなんでしょ?』


 そう考えたらしかった。


 腹が立った。さっきの男と同類と思われていたことに。


 小瀬水さんほど魅力的な女の子に性的な欲望をいっさい持つなというのは無理だ。でも、ただ単に欲望を持つことと、欲望を解消するために行為に至ることでは天と地ほどの差がある。俺はあの男とは違う。違う、はずだ。


「……よくない」


 俺はそう言い捨てて部屋を出る。背中に小瀬水さんの慌てたような声がかかった。


「ま、待ってよ。敷き布団はあるの? 床に直接寝たら痛いよ?」

「クッションを敷くから大丈夫。それより、小瀬水さんは安心して寝てくれ。ここには君を襲うような人間はいないから」


 当てつけるのように言って、俺は部屋を出る。


「あ――」

「おやすみ」


 小瀬水さんはなにか言いかけたが、引き戸を勢いよく閉めてシャットアウトした。


 そのあと猛烈な自己嫌悪がやってきて、俺はしゃがみこんだ。


 ――べつに当たることはなかっただろ……。


 初めて女の子に怒りをぶつけてしまった自分に驚き、そしてとても落ちこむ。


 しかしそれよりも俺を落ちこませたのは、俺の身体がしっかりと興奮してしまっていることだった。


 ――だって……、だってさあ……!


 大きな胸、横寝で強調された腰のくびれ、風呂あがりの色づいた肌。そんな魅力的な肢体したいの女の子が、俺が日常的に使用しているベッドの上に収まっているという非日常感。興奮しないわけがない。


 興奮を静めるために、俺はシャワーを浴びることにした。服を脱ぎ、浴室の戸を開くと、もわっとした熱気が流れでてきた。床が濡れている。さっき小瀬水さんが使ったのだから当たり前だ。


 直前に同級生の女の子が使った浴室を使うという非日常感。


 ――あの水滴、小瀬水さんの身体を伝って落ちたのかな……。


 小瀬水さんの頭に降りかかるシャワー。大粒の水滴が頬、首筋、胸、脇腹、腰、脚と伝っていく。直前に彼女の姿を見ていたため、ものすごく鮮明に想像できてしまった。


 興奮を静めるつもりが、俺の身体はかえって興奮してしまっていた。


 女の子とひとつ屋根の下というだけで俺みたいな人間は緊張してしまうのに、さっきみたいながあったせいで頭の中はドロドロのグッチャグチャだ。


 ――今日、寝られるかな……。


 長い夜になりそうだった。





 まぶたの裏に小瀬水さんのしどけない姿がちらつき、それを振り払ってようやくうとうとすると今度は夢のなかにまで彼女が現れて目が覚める。そんな悶々たる夜を過ごし、ふと気がつくと、窓の外はすでに明るくなっていた。いくらかは眠ることができたらしい。


「うぅ……」


 クッションを縦に三つ並べただけではやはりマットレス代わりにはならず、身体を起こすと首や腰がぎしぎしときしむように痛んだ。


 なんとか立ちあがり部屋を出る。


 ダイニングテーブルで頬杖をついていた小瀬水さんがぱっと顔を上げた。


「ああ、やっと起きた。おはよう」

「え、あ……、おはよう」


 昨晩のことがあり、なんとなく気まずい。しかし彼女はそんな素振りも見せず、キッチンのほうへ行くと、ラップのかかった皿をレンジに入れ、鍋をガスコンロの火にかけた。


「えっと……、なにを……?」

「寝ぼけてるの? 朝ご飯」


 言われてみると、なんだかいい匂いが漂っている。焼き魚の香りだ。


「冷蔵庫になにも入ってなかったはずだけど」

「コンビニで買ってきた。っていうか味噌すらなくてびっくりしたよ」

「カップ麺かレトルトで済ませてたから」

「戸棚のカップ麺の量を見て察したけどね。それも味噌ラーメンばっかり。味噌味は好きなんじゃん」


 しゃべりながらも小瀬水さんはてきぱきと朝食の準備を進めていく。


 テーブルには白米と焼き鮭、目玉焼き、大根の味噌汁が並べられた。


「レトルトのご飯、勝手に使ったから」

「それはいいけど……」


 並べられた料理と小瀬水さんを見比べる。


「え、これ、小瀬水さんが作ったの?」


 彼女の眉がひくりと動いた。


「毎日コンビニのハンバーガーを食べてそうな顔をしてるくせにちゃんとした朝食を作ってしまってすいませんね」

「そんなこと言ってないだろ!?」

「でも、言われてみればたしかに、って思ったでしょ?」

「それは、まあ」

「じゃあ食べなければいいでしょ!」

「誘導尋問でキレるなよ! ――違うって。和食っぽいメニューが意外だったのもそうだけど、そもそも朝食を用意してくれるなんて考えてもみなかったから」


 すると小瀬水さんは少し身を乗りだすみたいにして俺の顔を覗きこんだ。


「嬉しい?」

「まあ、うん」

「じゃあ食べていいよ」


 俺は「いただきます」と手を合わせて、朝食に口をつけた。塩味のきいたしゃけも、出汁が香る味噌汁も、白飯によく合う。目玉焼きを箸で割ると黄身がとろりと流れだした。焼き加減が絶妙だ。


「ほんとは玉子焼きにしたかったんだけど、それ用のフライパンがなかったから」

「いや、これもおいしいよ」

「そう? よかった」


 と、小瀬水さんも自分の分を食べる。


「うん、おいしい」


 満足げに微笑む。


 箸を口に運んでは、ときおり目が合って微笑みあう。それはまるで本当の恋人のようで胸がふわっと温かくなった。


 料理を食べておいしいと感じたことはいままでもたくさんある。しかし『食べ終わるのが惜しい』と思ったのははじめてのことだった。それぐらい、小瀬水さんと囲む食卓は楽しかった。


 とはいってもいつか終わりはやってくる。俺は味噌汁を飲み干した。


「おいしかった。ごちそうさま」

「お粗末さまでした」


 そのやりとりがなんとなくおかしくて、俺たちはまた笑いあう。


 今日、小瀬水さんはホテルにもどる。少しだけ名残惜しい気もしたが、べつに二度と会えなくなるわけではない。学校でだって会えるだろうし、もしかしたらまた一緒に食事をする機会もあるかもしれない。


 ちょっとだけ、俺の青春が動きだしたような、そんなわくわくがある。


 小瀬水さんが俺に尋ねた。


「味噌汁の味、どうだった?」

「おいしかったけど」

「そうじゃなくて、もっと具体的に。もっと薄いほうがよかったとか」

「いや、逆にもっと濃くてもよかった、かな」

「出汁は?」

「ちょうどよかった」

「そっか、分かった」


 そのあと彼女はおかしなことを言った。


「じゃあつぎはもう少し濃いめにしてみるね」

「…………ん?」


 ――つぎ?


「なに? 変な顔して」

「いや、え? つぎ、って……?」

「明日の朝のことだけど。あ、待って、今日の夜かも」


 昨日まで泊まっていたビジネスホテルの継続利用はできないらしい。


「そうか、また探さないといけないのか。役に立つかは分からないけど協力するよ」

「なにを?」

「ホテル探し」


 小瀬水さんはきょとんとして、よく分からないことを言う。


「探さないよ?」

「え? じゃあもうつぎに泊まるところの目星はついてるのか?」

「ついてる」

「なんだ、安心した」

「ごめんごめん。なんか言葉の行き違いがあったみたい」

「ちなみにどこのホテルに泊まるの? それとも友だちの家とか?」


 小瀬水さんは真顔で信じられないことを言った。


「ここ」

「……はい?」

「だから、ここ」

「……『ココ』っていう名前のビジネスホテル?」


 そういうことではないだろうと分かってはいる。しかし俺は一縷の望みを託して尋ねた。


「有永くんの家」


 一縷の望みは儚く消えた。


「いやなんでだよ!?」

「逆になにが疑問なの?」

「逆でもないし疑問しかないわ!」

「昨日も言ったでしょ? 傷心の彼女をほっぽり出すの?」

「傷心してるようには見えないけど」

「してるよ。ご飯も喉を通らないくらい」

「しゃけの皮まで平らげた奴がなに言ってんだ」

「塩のきいたしゃけの皮って最高じゃない?」

「知らんけども!」

「でも、いいことずくめだと思うんだよね。ここなら安全だし、部屋は余ってるし、ホテル代も必要ない」

「ま、まあそうだけど」

「なにより、彼女と甘~いときを長~く過ごせるよ?」


 小瀬水さんは両手で頬杖をつき、微笑む。大人っぽい彼女の子供っぽい仕草にどきっとする。


「で、でも彼女っていうのは、言うことを聞いてもらうための契約みたいなもので……」

「じゃあ、改めてちゃんと契約しよう」


 彼女はいったん寝室に行き、ルーズリーフを一枚持ってきた。食器を横にずらし、紙の上にボールペンを走らせる。


「有永くん、下の名前なんていったっけ?」

「直すに司るで直司だけど……」

「『契約書』、っと。小瀬水舞果(以下『甲』とします)は有永直司(以下『乙』とします)に対し、本規約に基づき、ええと……、月間……彼女……レンタル……。――あ、そうだ。『サブスクリプション彼女サービス』(以下『本サービス』とします)を提供します」

「なんか仰々しすぎない……?」


 そこまで本格的にする必要があるのだろうか。


 小瀬水さんはルーズリーフにみっちりと文字を書きつけ、それでも足りず、もう一度寝室からルーズリーフを数枚持ってきて規約をすらすら追加していく。


「第三条・免責事項――」

「仰々しすぎない……?」


 俺は怖くなってきて弱々しい声で言った。


 三枚目まで書き、満足げに頷いた小瀬水さんは契約書をくるりとひっくり返して俺のほうへ滑らせた。


「はい、じゃあ一番下のところに血判を押して」

「もう仰々しいって次元でもないわ! 血判って謀反を起こすひとたちが押すやつだぞ!?」

「冗談だって。サインでいいよ」

「……なら、まあ」


 と、俺はペンをとった。なんだか騙されている気もするが、もとはこちらから言いだした契約だ。俺は素直に署名した。


「『サブスクリプション彼女サービス』……だっけ? それって、その……、具体的にはなにをするんだ?」


 小瀬水さんは指を組んであごを乗せ、艶っぽい笑みを浮かべた。


「なにをしてほしい?」

「い、いや、とくに考えてないっていうか……」

「有永くんの喜んでくれることならなんでもするよ?」


 あまりにも甘美な申し出だった。だからこそ、俺はかえって警戒してしまう。


「なんでもって言われても……」

「わたし、有永くんにはほんとに感謝してる。できるかぎりの恩を返したいの。だから――」


 小瀬水さんはそばまで来て、俺の右手を胸に抱いた。


「遠慮しないで、なんでも言ってね?」

「……」


 俺は返事をすることができなかった。


 なぜならいま、俺の全神経は右手に集中していたからだ。手のひらが沈みこむふにっと柔らかな感触。「こんなに柔らかいものなのか」という感動と興奮。そしてどこかで「今後のためにこの感触を記憶に刻みつけなければ」と冷静に考えてもいた。


 ふと視線を上げると目が合った。小瀬水さんはなぜか観察でもするようにじっと俺を見ている。


 俺は慌てて手を引いた。


「あ、うん、わかった。……考えておく」

「これからよろしくね」


 冷たい眼差しが嘘だったかのように上機嫌な顔で食器を片付ける。そんな小瀬水さんの様子を横目で見ながら俺は、これから始まる一ヶ月間の同居生活に小さな期待と大きな不安を抱かざるを得なかった。

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