第37話

 僕は、蓮と同じように、いや、蓮の心と共に、肥えた男の顔に平手打ちをした。振りかぶるほどに、思い切り。


 一家の大黒柱を平手打ちされ、三人は同様に目を丸くしていた。


 何が起きたのか分からない、といったような表情だ。


 分かるはずもないだろう。


 彼女と共に過ごすことを放棄した彼らに、彼女と過ごす一時の暖かさが分かるはずがない。


「き、貴様、何をする――!?」


 父親は、僕に対して指を差し怒鳴りつける。


 それに続いて、母親と子供が悲鳴を上げた。笑ったり怯えたり、忙しい連中だ。


「け、警察だ! 警察に突き出してやる!」


 父親が僕の腕を掴む。


 大の大人でありながら大した力ではない。


 僕はその腕を振りほどき、第二打を浴びせようと右腕を振りかぶる。男は身体を揺らしながら「ひい」と、悲鳴を上げる。


「何事ですか?」


 僕の二回目の平手打ちが炸裂する前に新たな声が場に入り、僕はそちらに意識を向けた。


 振り向くとそこにはいたのは、先程受付で出会った女性だった。


「おお、いいところに来た。今すぐ警察を呼べ! このガキが、私を殴りおったのだ!」

 

 チャンスだといわんばかりに、男は喚き散らす。僕は手術室の扉に目を向けた。


 この中で蓮は、生きる為に闘っている。なのに、その父親は自分の保身のためにただわめいているだけだ。


 怒りがふつふつと湧き起こってきて、僕は再び腕を振りかぶった。


「ひい。ほら見ろ! またわしを殴る気だ! 早く警察を呼べ!」


「そうですわ、何をしているの!? 早くしなさい!」


「おい馬鹿! パパが怪我しちゃうだろうが!」

 

 父親に続いて、他の二人も喚きだす。


 ただ喚き散らすだけで、うるさいだけだ。蓮の耳に届きでもしたら、さぞかし不快になることだろう。


 黙らせておく必要がある。


 僕はゆっくりと三人に歩み寄る。腕に力を込めたまま、ゆっくりと。「ひい」という悲鳴が三重に重なって響く。


「待って!」


 受付の女性の声が、醜い悲鳴の声を掻き消して場を覆った。


「気持ちは分かるけど、落ち着いて。ね?」

 

 彼女は、振りかぶっていた僕の腕を取ってゆっくりと下ろしながらそう言った。


 場を丸く治めるために、僕をなだめてくれようとしているようだ。


「そのまま、警察に突き出してしまえ!」


 またも喚きだす。


 喚いて喚いて喚いて喚いて、それだけだ。それ以外には何もしようとはしない。


  僕の腕を掴んでいる女性の手が、震えているのが伝わってくる。


 不思議に感じて、彼女の顔を覗き込む。彼女は歯を食いしばり、身体を震わせ怒り心頭のようだった。


「静かにしてください!」


 また小さく「ひい」と悲鳴があがる。あまりの迫力に、僕も少々たじろいだ。


「警察を呼んでも構いせんが、本当にいいんですね?」


 彼女は、三人に詰め寄りながら問いかける。


「構わないに決まっておるだろうが! 何を言っているのだ、馬鹿者め!」


「そうですか、では覚悟はして置いて下さいね」


「――なぬ?」

 

 女性は白衣の下のズボンから携帯を取り出し、ボタンを押していく。


 こちらからは携帯の動きがはっきりと分かるのだが、彼女は適当にボタンを押しているだけで、警察を呼ぶ気などまったく無いようだ。


「お、おい待て貴様。覚悟とは、一体どういうことだ?」


 彼女は携帯をパタンと閉じ、男に視線を向けた。


「育児放棄、それに虐待、これだけでは済まないでしょう、相当な罪になるはずです。これまで海外にいたから逃れることができたのかもしれませんが、覚悟しておいて下さい」

 

 父親と母親の顔が、青ざめる。


 現状が理解できるほどの知能は、持っているようだ。持っていないのは子供の方だけで、いまだに喚き散らしている。


 しかし、この親子がたまたま日本にいてこの場に来ていることを考えてみれば、やはり両親共に知能はあるにしてもその度合いは低いのかもしれない。


 いや、それともたんに蓮への行いを何とも思っていなかっただけなのかもしれないが。


「……金か? いくらだ、いくら欲しい、今すぐ用意してやるぞ」

 

 女性は、閉じていた携帯をもう一度開く。その動作を見て、またも「ひい」と悲鳴があがる。


 最早、何度聞いたか分からない。


 携帯を閉じ、開き、閉じ、開き、一回の動作ごとに悲鳴があがり、まるでそういったおもちゃのようだった。

 

 幾度かそれをくり返し、やがて父親と母親は疲れっきたようでぐったりとしながらソファに沈み込んでいた。


 僕が行った身体への攻撃よりも、彼女のとった心への攻撃の方が何倍も威力を秘めていたようだが、それにしても恐ろしい女性だなと、思わされた。


 ぐったりと座り込んでいる両親の目前で、一人の少年はうろたえ騒いでいる。女性は少年のことは無視して、僕の方へと振り返った。


「大丈夫。蓮ちゃんはきっと、大丈夫だから」


 なぐさめてくれているのだろう。しかし、それはあまりにも安っぽいなぐさめだ。


 いや、なぐさめ自体に安いも高いもない。どこまで行き着こうと、所詮はなぐさめに過ぎないのだから。


 そこに、希望の光が兆すことはない。


「何か、僕に何かできることは……」


 彼女は苦い表情を見せる。


 それだけで、僕たちは無力であるということを思い知らされた。


 望みを叶える力を持っていても、望んでくれなければ、僕は何の力も持たない役立たずだ。人間と変わりはない。

 

 暗い廊下の中。

 

 気付けば僕は、走っていた。 


 背中に「走らないで」と注意を受けながら、僕は出入り口の自動ドアへ向け走って行った。


 自動ドアを抜け、僕はそこで立ち止まる。


 外は未だ豪雨だった。


 雨のためか冷たくなった風が、のぼせ上がった頭を冷やし、再び現実へと引き戻す。

 

 二割以下。

 

 蓮が助かる確率だ。

 

 僕は蓮を助ける為に、できることがない。


 ただ他に全てを任せ、待つだけ。


 それ以外にできることがない。


 もしも僕の命と引き換えに蓮を助けてあげると言われたら、躊躇なくこの命を授ける覚悟があるのに、誰も言ってくれない。

 

――無力。

 

 僕は、自分の存在の非力さを実感し、それと共に個の無力さも痛感した。

 

 蓮がいなくなった世界。


 考えたくもないけれど、逃れようのない未来であるかのように刻一刻と近づいているように感じる。

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