第33話

 結局、「嫌じゃない」と言うことはなかった。


 けれど、それでよかったような気がする。


 どのみち、今日中に蓮は望みを言ってくれるのだ。面倒事が今日で全て終わると思えば、気分も楽になってくる。


「そうでござるか。仲直りができたようで、良かったでござる。だから、欄君には似つかわしくない、そんな緩んだ顔を見せているのでござるね。でも、あれでござるよ。そんなラブイチャトークを聞かされた小生の心は、本日の天気のように雨一色でござるよ!」


 昼休み。


 僕の席の前に座って、田所君はため息をつく。僕の今の顔はそんなに緩んでいるのだろうか? 考えたところで確認のしようもないので、頭を切り替えて窓の外を眺めた。


――外は雨。

 

 時間が経つにつれ、雨足は増しているような気がする。たまには、雨の音も心地よいものだ。


 などと言うと「今の欄君にはなんでも心地よいのでござろう」と後方から皮肉めいた言葉が飛んでくる。けれど、言われてみればそうかもしれない。

 

 普段ならば面倒としか思わない田所君とのくだらない一時も苦ではなく、有意義な時間のように感じている。


 これも、今日で全てが終わることの安堵感による影響だろうか。


 僕は、何やら机に突っ伏して唸る田所君を放置して、窓の側に歩み寄る。


 音が聞こえてくるほどに激しくなった雨を、窓の内側から眺め見る。定期的な音。僕は、蓮の鼓動を思い出した。僕の中で響く蓮の音。

 

 少しして、僕は自分の席に戻った。


 田所君は突っ伏した体勢を止め、普通に顔を上げ座っている。怪訝そうな表情の田所君が、目に入る。


「どうしたでござる? 何だか、さっきよりもにやついてないでござるか?」


「いや……その……」


「何でござる?」


「蓮に早く会いたいな、と思って」


 叩かれた。


 加減をする事もなく、普通に頭を叩かれた。


 仕返しに頭を叩きかえす。すると、また頭を叩かれる。昨日も同じようなやりとりがあったけれど、全然楽しくもない。


 ただ、ひたすらに痛く虚しいだけだった。

 

 五度ほどやり取りをくり返し、田所君の謝罪によって六度目に入る前に終止符が打たされた。


 僕も謝罪を返す。互いに頭を抑える。田所君も痛かったらしい。

 

 始業のチャイムが学校中に鳴り響く。田所君は席を立ち上がり、自分の席に戻ろうと動き出す。


 僕の横の位置に来たとき、今度は叩くのではなく、軽く僕の頭の上に手を置いた。


 そして、言った。


「本当に、良かったでござるな」

 

 言い終わると、すっと手が頭から離れる。


 叩かれて熱を帯びていたわけではない。

 

 なのに。

 

 頭が妙に温かかった。先程置かれた手から温もりが伝わり、それが頭の先に残されている。僕は小さく「ありがとう」と呟いた。


  放課後になり、蓮の屋敷に向かう時間がやってくる。妙に浮き足立つ。なんなら、スキップでもしてみたい気分だ。


 最早、認めるしかないと、田所君にそう言われた。


 言われてもやはり言葉の真意がいまいち理解出来ず、困惑するしかなかった。今日の僕がこんなにも浮かれているのは、今日で全てが終わるからなのだ。

 

 眼鏡の奥から差し込んでくる羨む視線を背に受けながら、僕は教室を後にした。

 

 外の雨は、より一層激しくなっている。


 来たときに使っていた折りたたみ傘を、鞄の中から取り出し広げる。


 傘に当たる雨音が、まるで音楽を奏でているようにリズムよく聞こえる。

 

 水溜りに足が入り、水がはね、ズボンが濡れた。特別、気にならない。今の僕には何があっても笑っていられる。


 笑って――いられるんだ。


――しかし。


 雨の中を、僕は歩いていく。

 

 歩いて、そしてあの横断歩道にたどり着く。いつも通るこの分岐点。

 

 幾度も、この場所には思い悩まされた。左か右か、どちらに進むか。

 

 ただそれだけのことに、何度も苦しめられた。

 

 けれど、それも今日で全て終わりだ。明日からは悩む必要もなく、何も感じることなんてない。


 僕は顔を綻ばせながら、横断歩道を渡っていく。右側の道を一瞥して、左側への道へと進んでいく。

 

 やがて、屋敷が見えてくる。僕は走り出す。


 まるで飛んでいるかのような心持ちだ。


 僕は満面の笑みで、走り出す。思わず、笑い声も上げてしまいそうだ。


 屋敷にたどり着いた。そして僕は――。


 笑えなくなった。

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