第13話

「ねぇってば! 聞いてるの? 海、海、海ー!」


「分かった! 分かったから、少し静かにしてくれ!」


 頭が痛くなってくる。混乱する中に甲高い怒鳴り声は、不協和音を生み出す。


 自分の価値が、どんどん薄れていく。


 ケサランパサランとしての僕のアイデンティティが、喪失されていく。僕は一体何のために生きているのだ、と危機的な思想が脳を駆け巡る。


 僕は、自分を落ち着かせるために、大きく深呼吸をした。そして、目の前で何やら目を輝かせている少女を見る。


 そういえば、彼女は一体、何を騒いでいたのだろうか。


「わーい! そうと決まれば、水着買ってこなきゃ! あ、欄君も買いに行く?」


「――え? 何の話だ?」


「とぼけちゃって。あ! 分かった、あたしの水着姿を想像して照れたんだな! 可愛いところもあるんだねえ――」

 

 まずい。話の中身が全く分からない。何がどうなった? 


 なんとなくだが、すごく面倒な事になっている気はするのだけれど、いまいち状況が掴めない。整理しよう。

 

 僕は混乱する頭を一旦、クリアにする。とりあえず、蓮の望みに関しては置いておくことにして――。

 

 さて。


 蓮の発した言葉を思い出してみよう。


 そこに、答えがあるはずだ。


 まずは、水着。水着から連想されるのは田所君だけれど、これは絶対に違うだろう。


 となれば、水着を使用する場所、プールか? 蓮にもプールの授業があるとか? いや、確か蓮は病気が理由で学校には行っていなかったはずだ。とすれば、何だ? プールでなければ……海?


「明日、楽しみだね」


 『明日』というキーワードが増えた。『明日』と『海』。二つのキーワードが重なり、一つの答えが導き出された。


「そうか、明日海に行くのか」


「そうだよ、変な欄君。人事みたいに言っちゃって」


 人事みたい? 人事では、ない?


「――え、もしかして僕も?」


「当たり前でしょ?」

 

 いつの間にそうなったのか、これ以上聞けば彼女は怒ってしまいそうな、そんな気がした。


 鋭く放たれる蓮の眼光は、しばらく僕から背けられる事は無かった。

 

 少刻後、笑顔を取り戻した彼女は、水着を買いに行くと言って屋敷を後にした。


 僕はといえば、さすがに水着選びに同行する気にはなれず、今日は昼前に家に戻ることにした。


 帰路に着き、そして、あの横断歩道に着いた時、思い出したように僕はある事に気がついた。


 スクール水着は学校に置いたままだ。


 嘆息し、横断歩道を渡り街中へと向かう。適当に安い物にしよう、とポケットの中の財布を握り締め、僕は下を向いて歩いて行った。

 

 面倒事の渦と人間の欲望の渦が交わり、混沌が生まれる。


 水の中に飛び込む前に、混沌の中に飛び込んでしまったような気分だった。


翌朝。


 晴天の日曜日。


 今日は、蓮と海に出かける。面倒だが、仕方ない。


 今更断る事もできないだろう。というよりも、彼女の望みを聞き出すためには彼女の信頼が必要になってくるわけでもあるので、考えてみれば僕には彼女の誘いを断る権限など、最初から無いようにも思える。

 

 僕は外出の準備をして、昨日買った黒一色のサーフパンツを鞄の中に入れる。気だるく鞄を持ちあげ、手にかけて家を出る。


 木漏れ日が、僕の目を眩ます。いっそのこと、雨でも降ってくれないかと、心の中で祈りながら、山を降って行った。


「おっはよー! ちゃんと来たね、宜しい!」


 いつものように、蓮は庭園の中にいた。


 いつもと違っていたのは、服装だ。白と黒のボーダー柄のシャツに、白色のハーフパンツ。


 頭には日除け用のストローハットをかぶり、足元はピンク色のビーチサンダル。


 肩からは大きな鞄がかけられ、右手には膨らんだ浮き輪がある。まさに、準備万端、といった感じだ。


「本当に、そんな格好で行くの?」


「――え? 何かおかしい?」


「とりあえず、浮き輪は海についてから膨らました方が、いいんじゃない?」

 

 蓮は、顔を膨らます。


 顔を膨らましたまま、手の中の膨らんだ浮き輪と、何も膨らましていない僕とを交互に見やる。


 五度ほどそれを繰り返して、観念したように膨らんだ浮き輪の空気を抜き出した。


 空気栓を空け、浮き輪をぎゅうっと力強く抱きしめる。しかし、蓮の必死な様子とは裏腹に空気の抜け具合は、かなり緩やかだ。


 むしろ、蓮の口から吹き出される空気の量の方が多い。


「ふんにゃー!」


 僕は髪をかきあげてため息をついた後、彼女に歩み寄り浮き輪の空気栓の根っこを軽くつまんだ。先程とは変わり、空気栓から勢いよく空気が抜けていく。


「――あれ? なんでなんで?」


「こういった栓は大抵の場合、根っこ部分を押さえてやることで空気が抜けやすくなってるんだよ」

 

 へーっと、彼女は感心しながら浮き輪を萎ませていく。


 浮き輪と同様に彼女の顔も萎み、やっとのことで屋敷を出て行くことができた。


                

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