Musica*Classica

弘瀬海

前奏曲

 ―J・S・バッハ作曲「ゴルトベルク変奏曲」―

 艶やかで奥深く、どこか懐かしい。それでいて情熱的で、物悲しい。初めてその曲をレコードで聴いた時、僕はこう思った。「なんて美しい音楽だろうか」と。ある都市伝説では、この曲を聴いた者はみな眠りに落ちると言われているらしいが、僕にとっては逆だった。この曲を聴く度に、僕の中の全細胞が沸き立ち、覚醒するのである。その感覚は、僕にとっては素直に心地の良いものであった。

 ある時、僕は父さんにこう言った。

「この音楽は生きている」

と。馬鹿げた発想かも知れないが、それでも僕はそう思わずにはいられなかった。半分快楽のような興奮は、命ある者にしか表現することの出来ないものだと、幼心に感じていたのだ。そして、父さんも同じ考えを持っていたのか、僕のその言葉を聞いて、非常に喜ばしげな目でこう言ったのだ。

「あぁ、生きているよ。そして、それはこの曲だけに限ったことじゃあない。音楽は皆等しく、平等に、生きているんだよ。」

と。

 音楽は皆生きている。それは傍から見たらただの比喩表現に過ぎないのだろうが、その時の父さんは、決してそのようなつもりでその言葉を発したのではなかったのだと、今は思う。恐らく、僕の父さんは見たのだろう。「本当に音楽が生きている瞬間」を。確かに突飛な話だ。本当に音楽が生きているなんて、おとぎ話の世界の話だ。でも、僕はそれを信じている。なぜって?それは—


「坼音?何ボーっとしてんのさ。早く行くよ。」

「あ!待ってよゴルト!」


今、目の前に、が居るからである。


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