第3話 沈黙

 一週間が経った。時が過ぎるのは早い。それは、日増しに速度を増していくように感じる。年齢を重ねると、その分だけ早く感じるというが…実のところはどうなのだろう。

 車を河野メンタルクリニックの駐車場へ止め、俺は現実逃避をしていた。以前の問いかけへの解答は出来上がっていない。そもそも、河野医師がそれを求めているかは、俺にはわからない。

「篠崎様。お待ちいたしておりました。御予約通りのご来院、ありがとうございます」

  扉を開けた瞬間、名前を呼ばれてハッとした。確か予約は重ならないようにしているとは言っていたが、それにしても一目で俺を篠崎とわかるものだろうか。…やはりこの受付嬢は、どこか機械的だ。そう、あまりにも正確で、そして丁寧にすぎる。それはいわば人間味を欠いているとすら言えるのかもしれない。

「ご丁寧にありがとうございます。よろしくお願いします」

 答える声に、無言の会釈で返答すると、受付嬢は診察室へと入っていった。

 ここにくるのはまだ二度目だ。しかし、居心地は良い。センスのいい椅子に、静かな空間。どこか西洋の田舎じみたそれは、病院というよりも貴族の別荘に近い。無論、貴族の知り合いなどいない俺からすれば、ただの空想に過ぎないが。

「どうぞ。先生がお待ちです」

「はい。失礼します…」

 高級ホテルのドアマンのような所作で入室を促す受付嬢を尻目に、俺は河野医師の診察室へ入った。目に飛び込んできた光景は、前回と大差ない。足を組み、気怠げに待っている女性。音はない。

「やあ。待っていたよ。時間には正確なのだね。ちょうど五分前に到着するとは」

「人を待たせるのは好きではありませんので。それに、今日は特に他の予定もありませんし…」

「そうか。さて、本題に入ろう」

 手で椅子を指し示す河野医師に従い、椅子へ腰を下ろす。楓ちゃんの言っていた、柑橘系の香りがふわりと漂っていた。前回は気がつかなかった。緊張していたのだろうか。わからない。

「前回は初回のカウンセリングということもあって、私が喋りすぎてしまったね。今回は趣向を変えてみよう。何でも好きなことを、思いついたままに話してくれたまえ。些細なことでも、口に出すのが憚られるようなことでもいい。ここは君の日常とは隔絶された場所だ。それに、私は君が何を話そうと否定さしない。それを事前に約束しよう」

 河野医師は、相変わらず薄い笑みを貼り付けている。上品といえば上品なのかもしれないが、薄気味悪さも目立つ。独特な雰囲気を持つ人だ。改めてそう思う。

「何でも、ですか…」

「ああ。そうだ。と言われても、なかなか浮かばないこともあるだろう。そうしたら無言でもいい。とにかく、君の話したいことを話し、話したくないことは何一つ話さなくていい。ここで君は、自由になる。少なくとも言動、思考的にはね。流石に行動には一定の秩序を設けてもらうが…まぁ変な心配は君にはいらないだろう」

 人は自由に何でも話せと言われて、話せるものなのか?…普通人が言葉を発する時、そこにはあらゆる検閲がある。倫理、話し相手との関係性、道徳、望ましいか望ましくないかを見極める自我。それらを取っ払って、まさに思いついたことを話すなど、できるのだろうか。

「…アイスコーヒーが、好きです」

 咄嗟に出た一言はあまりにも拍子抜けする言葉だった。幼児と何も変わらない。ただアレが好きだ、と宣言するだけの言葉。何の意味があるのか、全くわからない。普段ならばこの場で言うことはないだろう。

「ほぉ。そうか。暑い季節だからね。確かに美味しい」

「それと煙草ですね。アイスコーヒー片手に一服するのは、俺にとって1番の幸福かもしれません」

 不思議なことに、一度話し始めれば自動的に言葉が紡がれていくような感覚がある。脳は、普段のように動いていない。これを言うべきか、言わないべきか、場にそぐわない発言ではないか、相手を不快にさせはしないか、相手から好意を得られるか…あらゆる検閲の文章は、自然とぽっかり抜け落ちている。

「喫煙者なのだね。私もだ。同意するよ。病院という場所柄、仕事中は吸えないがね」

「それは大変ですね。仕事の休憩中、仕事終わりの一服ほど幸せなものはないと言うのに」

 世間話ではないか。これがカウンセリングなのだろうか。頭に疑問が浮かぶ。しかし、それを意図的に外へ追いやりながら、続ける。

「ああ、それとここの受付の方はすごいですね。丁寧というか…どこか西洋の人形のようで…」

「ふふ、よく言われるよ。彼女はよく仕事ができる。私も頼りにしている」

「バイトか何かなんですか?」

「いや、まぁ詳しくは話せないが、身内みたいなものだ」

 何故受付嬢を話題に出したかはわからない。ただ、そうしたかったからとしか言えない。今の俺は、脳裏に浮かんだ言葉や疑問を、そのまま現実に放り出している。

「問いかけの意味がわかりませんでした」

「ほう。前回の最後の話かね」

「ええ」

「まだわからなくていいのだよ。時期に、それと向き合うことになるだろう。焦らず、ただ身をまかせたまえ。ここは安全だ。君も、しっかりとしている」

 突如浮かんだ問いかけへの返答を、そのまま口に出す。言葉にした後、なんとも言えない苦い感情が残った。渋味とも言える。白も黒も、どちらともつかないのは苦痛だ。正解のない問題は、ただの葛藤でしかない。

「スッキリしません。答えはないのですか?」

「そうか。スッキリしないか。答えは、少なくとも今の時点ではないね。それは君がいずれ見つけるものであって、私があてがうものではない。歴史や学問に解答を求めても、そこにあるのは統計と確率論と、一般的見解に過ぎない」

「…なら、何故貴女は答えを問われるこの仕事を?」

「そもそも問われてもね、先程のように私は答えないのだよ。それが嫌なら、クライアントは勝手に離れていくさ。…私は私のやり方でしか何もすることはできない。だが、そこで私にやれることはあると、信じているからね」

「……驚きました」

 口をついて出た言葉だった。それは河野医師の言葉にも、それを発する調子にも起因していた。ひたむきと言う言葉にどこかそぐわないと思っていたが、今の河野医師の言葉は、態度は、まさにそれそのものだった。

「どう驚いたんだい?」

「貴女が、そういうタイプには見えなかった」

「そういうタイプ、か。人間には得てして多面性があるものだ。私だって真面目な時はあるし、…間違うことも熱狂することもある」

「確かに、そう言われてみると当たり前の話かもしれません…」

 口をつく言葉がなくなった。心は語り尽くしたのだろうか。目を凝らしても、何も見えない。無言の時が過ぎてゆく。河野医師は、ただ僅かな笑みをたたえたまま、それに身をまかせている。不思議と沈黙に飽きることはなかった。耳を澄ますと、チクタクと微かに時計の針の音が聞こえる。別室だろう。近くの音ではない。この部屋からは、音が完全に排除されている。音を発するものは存在しない。そこに、生活感は皆無だ。人間性さえ、どこかで沈黙しているようにさえ感じる。世界は静まり返っている。

「……そろそろ、時間だね」

「…早い、ですね」

 早い、そう思った。一時間、俺はどれだけ話し、どれだけ沈黙していたのだろう。時間の感覚は、消滅していた。

「そうだ。一時間など、あっという間さ。それでも君と私は、この一時間、ここで自由だった。それは価値のあることだよ」

「大半が沈黙だったのに、ですか」

「沈黙は、決して悪いことではない。それでいい。君が、それを望んだのだから」

「……」

「では、また来週会おう。楽しみにしているよ」

「はい。よろしくお願いします」

……………。

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